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トランスパラント・フットプリント

ちはやブルーフィルム倉庫

ファング・オブ・ザ・フロッグ

短編小説 少女 チハやぼん

 

 四年ぶりの飛行場だった。

 

 パパがまた転勤になった。

 ママは一週間で何もかもを箱詰めにする遊びに精神を冒された。弟は友達から借りていたゲームソフトを段ボール箱の奥底に封印されてしまった事について壊れたスピーカーのようにぎゃあぎゃあと吠え猛っている。あとひと泣きでママが壊れる。

 体を粘着テープで縛り付けて、行き先を書き殴られた茶色い立方体たちは整列もできずにいる。それらは一週間前まで食器棚と買ったばかりの四〇インチテレビとソファーのあった居間に中学校の入試問題のごとく積み上げられていた。見上げるだけでうんざりする。その段ボール箱たちも、第一の先駆けはとっくにジョン・F・ケネディ空港を通過して四車線のハイウェイドライブを楽しんでいるはずだ。

 弟がまだ叫んでいる。

 どうすんの明日返すって言ったんだよ、ねえママセキニンとってよセキニーン! あなたがはやく返さないから悪いんでしょう! でも、船便だったらまだ太平洋の上だよね。そのあとオトモダチに郵便で返せばいいじゃない、貸すくらいなんだから要らないものよ貰っておけばいいじゃない。そうだよ向こうで友達作ればいいじゃん。なんでママもねえちゃんそんな意地悪言うの! バカ! ねえちゃんのブァ――ッくぁ! はいはい。ねえちゃんのブゥ―――――ッすう! あン、なんですってもう一度言ってごらんなさいよォ。ほら、ほらぁ。いたい、いたいいた。あんたたちそんなのどうでもいいでしょう早く荷造り終わらせて頂戴。パパも! あなたも! あなたも! だれもあたしをたすけてなんかくれないんだから全部全部捨ててやるわよおおおおおおどうしてみんな自分勝手なのあああああァ―――――――、ぎィ―――――――――――――――――。

 

 あたしたち姉弟は連鎖するママ爆弾から逃げ、もう殆ど空っぽになってしまったそれぞれの部屋に戻る。ケセランパサランは喋らない。あたしがとりたてて海の向こうへ持っていこうと思えるものはそんなになかったのだ。

 お気に入りの服と鏡台とマンガ、服の中にどうせ反対されるキングサイズのテディベアを隠し入れて終了。さよなら幼いあたし。

 本棚の上で埃を被っていた小さな森のなかまたちシリーズは先日隣家のまいちゃんにあげた。小三の彼女は弟の捕食対象であり、あたしの優秀で従順な妹分であった。どれくらい従順かというと「これいらないから、おねえちゃん行かないで! お願い!」てなものだ。

 あたしは爆笑を隠そうとして醜く歪んだ口元を、従順な妹分だったものに見られないように隠さざるを得なかった。まいちゃんとまいちゃんのママには、そうやって震えるあたしの様が「涙を堪えて別れを惜しむお隣の優秀なおねえちゃん」に見えたらしい。どうかお幸せに、お隣さん。

 まいちゃんのママは別れ際の餞別として何故か輸入菓子をくれた。あたしは彼女が帰った後、ママについこう言ってしまう「さすがママの茶飲み友達はセンスが違うね」次の日、箱ごと真っ二つに割れてた。

 

 パパの目から見ると、どうやらあたしだけが、意外や意外最も穏便にこの状況を受け入れているように見えたらしい。あたしが血の滲むような思いでやっと手に入れた進学校に通う資格も、たった一年しか行使されることなく消えることになったのに、暢気なお考えだと思う。

 

 白状すると「血の滲むような思い」なんてのはいかにも大げさな表現だった。私には背伸びして毎月購読していた女子雑誌をすみからすみまで読む余裕もあったし、模試のある日曜朝には弟とスーパーヒーロータイムを楽しむのが常だった。夏期講習の長い昼休みにはジャスコに繰り出して、いかにダサくないコーディネートをするか選手権を塾のクラスメイト達と行う余裕すらもあった。即席のファッションショーはどのモデルも背丈とセンスが足りていなくて、売り物を裾をいくつか踏みつけたような気がする。

 汗くらいは滲ませたかもしれない。でも他にすることもなかったし、学校の勉強が退屈になる以外にデメリットはなかったと思う。中学生になって友達とディズニーシーにもいったし、夏には家族で海水浴に行った。そのどちらでもナンパはされなかった。寄ってきたのはライフセーバーばかり。街で声をかけてくるのは資格売りと広告の押しつけと、クスリ売りとかそんなんばっかりだったのだ。

 

「まあ! ディカプリオじゃない! やったわね!」

 第一報に対してママはそう叫んだ。パパの中で第二のプランだった単身赴任の芽はその時消えてなくなった。そもそもパパも家族一緒にあるべきだと思っていたらしいのでそれはいい。弟だってあたしだってその方がきっとラクに生きられるに違いないのだ。

 とうとう白髪を生やしてしまったママは、ブツブツと同じ独り言を繰り返しガムテープに向かって漏らしながら、どうにか最後の箱詰めを終えた。

 こうして、あたし達は四年間身を寄せた愛しい兎小屋の胃袋を空っぽにする事に成功した。念願の庭付きプール付き一戸建てに移り住むのだ。パパは笑っていたし、ママも焦点の合わない目で笑っている。弟は友達と最後の別れを果たしてきたのか、赤いスーパーボールを握って寝ていたのだ。あたしたちは国境を越える準備をようやく整えたのだった。

 

 あたしたちは会員ラウンジにいた。あらこんなものがあるのなら、家族旅行の時だって使えば良かったのに。ボク知ってるよ、シャヨーって言うんだよ。よく知ってるわね、でもその事をいっちゃダメよ――。言わないけど、なんで? どうしてもよ!

 そんなママと弟の会話を脳の端っこで聞いている。あたしは、無料で供されているビスケットを口の中でゆっくり溶かしながら、バターと砂糖が脳に溶けていく様をふかふかソファーに座って楽しんでいる、百円ショップのバタークッキーとはものが違う。一個五十円とかするのかもしれない、なんて考えながら脳に糖分を送り込んでいる。もちろん紅茶もある、これはファミリーレストランヨナサンに置いてあるものと同じ香りがした。

 ママはしきりにあとで料金請求されないかを気にしている。大丈夫よママ、だってここはまだ日本だもの。手持ち無沙汰になったおろかな弟が、自分で食べもしないのにビスケットの小袋を次々開けて顰蹙を買っている。ママが悲鳴を上げる。どうしてピコピコ持ってこなかったの! でもダンボール送っちゃったんでしょ? 持ってこなかったのはあなたでしょおおおおお――――――ッ、ァ! ママの怒り方はまだ、どこかおかしい。

 パパがコーヒーをもってあたしの横にやってきた。スティックシュガーを二本、指の間に挟んでくるくる回しながら持ってくる。そんなに砂糖を入れるくらいなら、お菓子を食べればいいのに。パパはコーヒーをソファー脇のサイドテーブルにおいてあたしに話しかけてくる。コーヒーに混じって親父臭がする。パパが口を開いた。

 

「未練、ない?」

 

 あたしはパパを一瞥する。「何言ってんの?」という顔をしていると思うけれど、別段隠す理由もない。パパとあたしは仲良くも仲が悪いわけでもない。この年頃ならどこにでもあるような父娘だ。ママは弟の世話を焼いている。いや、あれはともに面倒を押しつけ合っているようにも見えるのだけれど。なんにせよ手のかかるあいつに比して、反抗もせずおとなしく付いていってやろうというのだから感謝してほしい。

 ――だのに、その疑問形はいったい、なんなのだ。

「おまえ、さ。何も言わないからなあ」

「――――」

 あたしはムッとする。なにをかいわんやあたしの不愉快を勝手に決めつけて何かカタり始めた。本当にムカツく。でも、聞いているそのときは、いったい何にムカツくのかわからない、でもただ単純にイライラするのはよくわかる。これはウザいときのパパだ。じゃあ、あたしだってウザくなるのは当然のことでしょ?

「じゃあさ、言えばやめてくれたワケ?」

「――ああ、やっぱりイヤだったんだ?」

 パパは目を丸くして、あたしを見る。

 あたしはわざとらしくため息を吐いて、パパから目をそらした。ダメだ通じない、いつものこと、いつものことなんだよ、しょうがないパパだよまったく、あたしが大人にならないとね。もういいよお話はやめにいたしましょう。そのつもりだった。

 パパはなにも言わなかった。ああ、わかってくれたのかと期待してしまった。しかし、間を置かずパパは胸の内ポケットから携帯を取り出した。

 色彩センスをどこかにおいてきたような悪趣味ピンク色した私用の携帯。新宿の繁華街にいる髪のパサついたチャラ男たちだってそんなの持ってるもんかって代物。買ったときの会話を以下に転載「なにそのケータイ、なんでそんな色にしたの? センスサイアク」「目立つからな、それにこれは印象が重要な場面で使うケータイじゃない」さようですか。あたしたちから見たら、そのセンスの最悪さは離婚の正当な理由にだってなってしまうものなのに。

 パパはアドレスを漁るそぶりをしてコールボタンを押したようだった。少し後ろに反り返ったようなナリをして、目玉が一瞬あたしの方を向き、戻る。

「どこ?」

 イヤな予感がして、そう尋ねる。

「会社」

「……なんで?」

 掌で制止された。耳に聞こえない音が携帯電話から響く。パパは携帯を頬に当てて口を開いた。

「……あ、課長ですか。カヤノです。ええ、ええ、今から家族と一緒に発つところで。いやですねあさぎ亭ではそんなこと言ってなかったじゃないですか。いやあぼくも向こうに行ったら課長みたいな上司に巡りあえればいいんですけどねあははははははははは、ツチダさんはぼく苦手なんですって。いやねえ、そんな気を使われると僕も恐縮してしまいますねははははははは」

 何で今、このタイミングで上司に出発の挨拶なんかはじめだしたんだろう。

 まさか――。

「――ところでですね、今回の件なんですけどね。ええ、ええ。この転勤。そう、ぼくの今から行くつもりだったんですけどね。やっぱりとりやめに――」

「――ッ!!」

 悪い予感は当たるもの、家族に関しては特にだ。あたしは、パパがその余計な言葉を言いきらないうちに、パパの手から忌々しいピンク色をはたき落とした。

 さっき弟が落としたビスケットくず以外は塵一つ落ちていない落ち着いた会員ラウンジのブラウン基調な床に、ピンク色の塊がジャンプ。あたしはパパをひとつにらみつけると、それが着地した場所に行く。携帯電話は電池のカバーを飛ばしてしまっていたけど、訝しげにカヤノカヤノカヤノクンと甲高い不愉快な声でなじってくるそれの電源ボタンを、基盤に埋まって戻ってくるなとばかりに、おもいっきり力込めて長押しした。電源ボタンは埋まったりしない。

「こら、パパは仕事の電話をしていたんだぞ。あと、暴力はいけない」

 携帯電話を返せとジェスチュアで言っている。目は笑っている。パパはこういう卑怯な人だ。バカにしてる、許せない、あたしをナメるな、子供だけど子供扱いされるのは癪だ。都合の良いところばかり持っていくんじゃないちくしょう、ばーか。

「――なんでそういうことすんのよ」

「何が? だっておまえ。今言ったじゃん。外国行くのイヤなんだろ。だからさ、パパは転勤やめてもらおうかなって。スジ通ってるだろ?」

「イヤだなんて言ってないよ。それに今更やめられるはずないじゃん」

「そうだな、いまさらやめたいなんてクビになっちゃうかもな。でも辞められないワケじゃないよ。家族みんなが一緒で満足してないと意味ないだろ?」

「ママが聞いたらすごい怒るよ、よかったね」

 聞いてなくて。ママはこういう軽口を理解出来ないから、その全てを本気にしてすごく心を乱す。にもかかわらずパパはそれをもてあそぶような物言いをする。 

「そうだよ。おまえのわがままを聞いてしまったらパパは気が違ったようなことをしてしまうからな。そしたら愛するママに愛想を尽かされてしまうかもしれないなあ。おまえもイヤなら早く言ってくれれば良かったのに。あはははははは」

 ――なんでわらってんの、この人。

「――なんであたしが悪いことになってんのよぉッ!」

 ラウンジにあたしのキンキンした声が響く。喉が痛い。少し離れていた弟はさっきからずっと安定しないママの毒気に中てられてナイーブになっていた。あたしにいつものように怒られたのかと全身を縮め、さあ泣きはじめますよどうすんのおねえちゃん、ぼくを慰めてくれるのサインを出し、あたしの対処も待たず嗚咽をはじめてしまう。

 ママが心底うんざり顔をして隠さない、あやしてやるつもりもなく、あたしだけを責めるような目で見た。周りの待機客たちがうざったそうに顔をしかめてあろうことかあたしを見る。当のパパはわざとらしく両の掌で耳を押さえ、目をぎゅっとつぶるフリなんかしてる。口元が笑っていますよお父さん。ちきしょう。

 やかましい弟をひっぱたいてやりたくなる。不安定を撒き散らす母親をけっとばしてやりたくなる。あたしは、笑いながらただ見ている父親のところにいって牙を剥く。

「なんでよ」

 パパは耳と目をわざとらしく塞いだまま口を開く。

「例えば、さ。いいんだぜ、一人で帰ったって」

「できるわけないじゃん、そういうの卑怯だし。さっきの電話だって」

 パパがそのまま、首を振る。

「えー俺だって家族一緒にいたいしーぃ。でもーぉ、さ。みんなの意志はさいだいげーんそんちょうしてあっげたいしーぃ」

 パパは見ざる聞かざるのまま、口だけニヤニヤしている。一人称が俺に変わって、あたしたちの口調を真似しはじめた。

「そうかよ」

 もうだめだ。あたしは断じる。パパからあたしへ向かう矢印の底にあるのは好意なのはわかっている、けれどそれはまったくあたしにとってやさしくなく、まったくあたしをバカにしている。バカにしているのは本当だ、パパは気づいていないかもしれないけれど。

 ――でも、そうやってパパも、もしかしたらあたしも耳をふさぐから、いつものごとくこの会話は平行線のままお互いにイライラが募って海に落ちるんだろう。でもだめ、だめなのだ。どうしようもないのだ。さっきちょっと食べ過ぎたビスケットが胃からあがってきて喉を焼き、紅茶が両耳の後ろに上がってきて冷静を焦がしてしまったから。

 あたしはまだ手に持っていたピンク色した断絶の象徴を、さっきまで自分が座っていたソファーに投げつけた。それによるパパの表情の変化すら見もせずに、ラウンジを飛び出した。事態を静観していたラウンジ受付のお姉さんが目を丸くしている。

 やるだけやった颯爽の姿勢のあたしにパパはまだナめきった声をかけてくる。「三時まーでな」と気持ち大きな声。その声あたしにとどめを刺す。黄色いプラスチックキャップに入れられた二〇〇度まで測れるガラス棒の中で、赤く染まったアルコールが膨張して、危険を知らせている。

 ――ばーか、何油断してんだよくそ親父! 帰ってこないかもしれないんだから! おばーちゃんちに押し掛けてやるんだから!

 そんなこと、できやしないけれど。

 

 

 一般客のごったがえすナントカウイングのベンチにもたれて、今月末までの契約となってしまったケータイの画面を凝視している。親しい友人たちにメールで最後の別れを告げる仕事をこなしている。今月末までの契約ながら、どうせ飛行機に乗ったあたりで使えなくなるのだろう。パパのは国際ローミングだから問題無いそうだ。――ずるい。翻訳するとこんな感じ「えー出かけるの今日だっけマジ忘れてた鬼さみしいんですケド!」ただし顔文字は除く。

「マジ手紙トカ待ってるからNE! ……と」

 こいつらが手紙? 書く訳ねー。笑いながらメールを打ち、それぞれの送信ボタンを押していく。もう返ってきても返信できないよと書いておいた。しかし、送信して間もないのに、さっきと同じようなことを書いた意味のないメールが次々と着信する。返信しないことにする。だってもう、別れは済んだのだ。

 メール打ちがひと段落すると、途端にやることがなくなった。ソワソワしてくる。そろそろ戻ろうかしら? やだよ、パパと顔あわせたくない。こじゃれたつもりの気が利かないイヤミなんか聞きたくない。あのひとはぜったい心からの「ごめん」とか口にしたことがないに違いないんだから!

「ばーか! パパのバカバカバカバカ童貞! くされちんぽが! ざっけんじゃないわよ! ゴキブリ! サナダムシ! シャヨーゾク!」

 もちろん、周りには誰もいないし、口の中で小声で言っているだけだし、パパは昆虫でも節足動物でもないし、家族を養って外国赴任できるほどには賢いし、なによりあたしと弟がいるのだから童貞ではあり得ないのだ――たぶん。「あの雪の日、パパはねー。レインボーブリッジの下で粗末な布にくるまれて泣いているお前を見つけちゃったんだ」「パパのうそつき!」「やめてくださいパパそういうの!」最後の悪口の意味はいまだによくわからない。

「むりょく――なのDA」 

 半分閉じた目のあたしが、半分開いた口から弱音を魂のように漏らす。漏れたとおりの言葉がケータイのメール送信画面に入力される端から削除されていく。「む」ムラセのクソがさー「むり」無理だって間に合わないって「むりょ」無料でやってくれるとこ「むりょく」無力。変換候補が浮かんで、電子の海に消えていった。

 でっかいガラスの向こう側では飛行機が群れをなして飛んだり着陸したり人々をその腹に押し込んだりとせわしない。ふと近くをうろつく弟よりも幼いくらいの男の子たちが窓に張り付いているのに目が行く。彼らは飛行機からタラップが外れる様を、飛行機がわずかずつ移動して行くその様を目をキラキラさせて眺めている。あんなの、何が楽しいんだろうか。

 またメールが来る。「ママより、パパは怒っていません。迷わないようにしてください。二時半までに帰ってきてくださいね」バカにしてる。ママは何もわかっちゃいない。返信なんかしてやんない。でもしないとめんどくさい。怒りの絵文字を一つだけ返してやった。

 

 そしてもうひとつメールの着信があった。さっきの友人たちからの別れか、それとも、後で知った知人レベルの子からのメールか、知らないアドレスだ。あたしはファイルを開く。「今、空港にいます。お別れしたいです。カヤノさんはどちらにいらっしゃいますでしょうか。桜小 畦守」真面目ぶったつまらない文章。絵文字のひとつもありはしない。スパムかエロメールっぽい。でもスパムがこんな読みにくい名字使うだろうか。誰だっけ、これ。桜小は確かに、あたしが三年間を過ごした小学校の名前だ。さて、なんて読むんだこの名字。た? けい? けいもり? まったく記憶にひっかから――。

 

 ――ゲロゲロゲコゲコ。

 

 輪唱が聞こえてくる。クラス中が歌っている。

 脳裏にはやし立てる声が聞こえた気がした。

 そして、カエルちゃんという言葉が浮かぶ。

 

 あたしは、このメールの差出人を知っている。

 あたしは改めてそのメールを見る。噛み砕いて咀嚼する。「お見送りしたいので成田に来てます。最後に一目会いたいです」ということだろうか。疑問しか浮かばない。小学校の時分の、それも当時ろくに接触もなく名前も顔もおぼろげにしか覚えていない人物が、旅立ち際のあたしに会って何をするというのか。この子にあってあたしはどうなるんだろう。

 ――愛の告白とかされるのかな、最近ネットで読んだけれど同性同士でも子供が作れるらしい。だったら汚らしい男の子なんかよりも、女の子同士のがいいに決まっている。でも、顔も名前もしらない奴とは思い出せない奴とはごめんだ、相手だってそのはずだ。ではこのセンは薄いのではないか。

 なら、逆の可能性はどうか。アイのハンタイはニックシミーそんな流行の歌を思い出す。あの歌の最後は刺されてエンド、女の高らかな笑い声が響いてジ・エンド。カエルちゃんなんて全くありがたくもないあだ名と嘲笑が真っ先に浮かぶくらいなのだから――ああ、たしかにいじめられっこだったような気がする。あたしはいじめてなんかいなかったけど、そのつもりだけど。「どうしてあのとき助けてくれなかったんですか、まずは私の手の届かないところに逃げようとしているカヤノ! 貴様から血祭りだァ――ハッハァ――!」なんて悲劇が思い浮かぶ。あたし完。

「――――マジで?」

 ――頓狂にもほどがある想像だけれど、その想像はあたしを重くした。あたしの臆病というよりは、すでに填っていた枷を締めるのに十分な重さを持っていた。

「めんどくさー……」

 

 あたしは一時間ばかりをそこで飛行機の動く様を見ながら、また、遠くの方で鳴っているものすごい高音を聞きながら過ごした。男の子たちはいつの間にかいなくなっていた。

 二時半になった。かなり重くなってしまったあたしの体は、一人きりの待合用長椅子をベッドのようにしてずり落ちる。尻が椅子と椅子の隙間にはまり込んだ。無様なあたしが考えている。そろそろラウンジに帰って、一〇〇%リンゴジュースをもう一杯飲んで、クッキーでポケットをパンパンにする準備をしなければいけない。そう考える。

 

 そして、実際にそうした。ラウンジの曇りガラスが開いたとき、パパはあたしの前で膝をついていた。そしてパパは深夜のアメリカンホームドラマのようなジェスチャーをごく自然に織り交ぜ、そのくせ口元は存分にニヤニヤさせたまま「きみを傷付けてごめんな」と言ってきた。

 その正しさと、わざとらしさに吐き気がした。全く納得は出来なかったけど、ママがあたしの頭を下げさせた。「パパに先に謝らせてなんなの、あなたが先に謝るものでしょう?」ママやめて、あたしを悪者にしたり、あたしがパパをもっと不愉快に思う手助けをするのはやめて。だってちゃんと見てよ、あなた聞いてたでしょう? パパは謝ってなんかいない。あたしは唇を噛む。屈したわけでもないのに、ゆっくりと頭が下がっていく。

 それで満足できるならいいよ。そう思った。

 

 パパとママが一つずつ、キャリーケースを持っている。弟は青いリュックを背負っている。

 見送りの客はここまでだ「また会おうね」「元気でねおばあちゃん」「しっかりやるんだぞ」「愛してる」「ずっと待ってるから」「地獄まで追いかけてやるからな」そんな言葉が飛び交っている。

 我々家族を見送るものは誰もいない。面倒なあれこれは今日までで済ませてきた、それぞれの祖父母とはそれぞれ一日使って面会してきた。我々家族のそれぞれに友人がいなかったわけではないと思う。今はなんたって平日の昼間、みんな自分の生活に忙しい頃。みんな、あの下りエスカレーターに乗って、強制的に最後の別れをしたり。そんなものはお構いなしとばかりにたったひとりやふたりきり、または我々のように家族然とした単位で、前を向いて降りていく。上昇する箱に乗るために胸を張って勇ましく。

 まばらながらも人の流れがあったから、我々家族はその流れに乗り、下りエスカレーターに繋がる蛇の一部になる。あたしもその後ろについた。そのまま私の家族たちは、後ろなんて振り向かず、前を向いて最初のステージを踏んで降りていく。

 あたしも、そうするつもりだった。

 エスカレーターに足を乗せるまでは、そのつもりだった。なんで振り返ったりしたのか、よくわからない。あれは振り返ったんじゃなくて、首元が気になっただけだったなのかも知れなかった。

 しかし、どちらにせよ、あたしは見覚えのあるその「なにか」を視界に入れてしまった。

 

「あ」

 

 エスカレーターは容赦なくあたしを乗せて下がっていく。その「なにか」の姿は一瞬で見えなくなった。みっつ後ろのギザギザのタール色したステージに横幅著しい巨漢が乗ってきたから、その「なにか」は隠れてしまった。エスカレーターは止まったりしない。あたしの足はそれを確認するためにピギ―ケースを抱えて駆け上がったりしない。

 しかしあたしは彼女の姿を見た。視線は交差しなかった、と思う。確信があった、あれは「カエルちゃん」だ。

 

「あー」

 

 あのカエルちゃんはそうだ、あのメールの送り主はそうか。やっとあたしは思いだした。それはたった一年前の話ではないか。六年生の三学期だ。あたしの後ろの席だった、そこに、彼女はいた。

 プリントを渡すときにいつもばらまいてしまう。よく足を引っかけられて転ぶ。カエル女とかケロちゃんとかゲコ子と呼ばれてはいたが、別にカエル顔じゃないな。そのくらいの印象だった。同時にトロい奴はうざいなー。という感想も抱いていた。その感想を害意や悪意をすっ飛ばしたところに保存したのだと思う。

 そして、なにかのテストの日だったと思う。あたしは一月中に受験を成功させ、二月頭の本命をやっつけて結果を待っていた頃だった。家では暇だからまだ見ぬ学問であるところの英語や数学の予習なんてものをしていたくらい余裕のフリをしていた。

 そんな余裕ぶったあたしにとって、学校のテストなんてのはいかにも暇な儀礼的なものでしかなかった。だって、たとえこの「学年末総まとめ・総ふくしゅう」テストを〇点で提出したとて、今更内申書の中身が変わって採点が覆ったり、既に出た合格が覆ったりはしないからだ。

 だが、その程度のものでもテスト中に後ろでさめざめと泣かれ続けられるのはウザい。カエルちゃんはテスト規定時間から一〇分もしないうちにその涙腺を緩めるに値する何かにブチあたってしまったようだった。不意に背中から襲ってくる切羽詰まった高い音と衝撃は、あたしをほんのちょっとナイーブにさせるに充分な要素だったわけだ。

 あたしは予期せぬ妨害に負けず、既にどこかで見たことのあるお決まりの空欄たちを難なく埋め終わる。時間は半分と少しを過ぎたところで、教室の雰囲気はまだ問題を解いている生徒たちのものだった。その中で唯一あたしが平穏になり、唯一後ろのカエルちゃんがぐずついていた。

 あーあー鼻までかんで、あたしの背中に飛ばしたりしてないだろうな。なんて思ってあたしはこっそり後ろのカエルちゃんの席を覗う。彼女の机の上には解答用紙しか見あたらなかった。彼女の机の横には、机の引き出しが引っ張り出されてこれ見よがしに横に置いてある。

 あたしはそれを見て察する。テストが始まってしばらくしてほかの女子たちがクスクス笑っていたことを思い出す。手が机の下にしまわれてしまっている。見つからないんだろう。こいつはなんでなんも言わないんだ。なんで先公はなんもいわねえんだ。くだらない。

 

 先公は机に突っ伏していた。若い女教師だった。彼女はその若さで最高学年を任された最初の年だった。彼女は一学期の終了を待たずして自分の風船を割れないように萎ませてしまったのだ。

 ――ねー勘弁してよ。もうちょっとでこのクラスとおさらばなんだからさ。静かに頼むわよ。わかったから、あなたたちはいい子。いい子だから勝手に生きていけばいいじゃないの。

 先公のそんな声が聞こえた気がした。そうかよ。あたしは誰にも聞こえない舌打ちをひとつして自分の筆箱を探る。すると、お誂え向きにカエルの鉛筆が一本あった。円筒形の体にカラーラッピングされ、あまつさえ頭に緑色のカエルのフィギュアがくくりつけられた非常にカワイイ――六年生も終わりそうな今となってはあまりにも子供っぽい印象の鉛筆だった。

 ――これがいい。

 手放さなければならないと思っていたところだった。となりのまいちゃんにねだられても上げなかった愛用の品だけれど、きっとこの鉛筆はあたしのこんなきまぐれを実行するために、筆箱の中に潜んでいたような気すらしてきた。

 あたしは簡単な芝居を打って鉛筆を渡す事にした。カエルちゃんの机と机の横に出された引き出しの間に、鉛筆を持った左手を差し込み、大仰に持ち上げ、すこしだけ戸惑ったフリをして後ろを向き話しかける――。

「ねえ、これあんたのじゃん? カエルだしィ」

 自分では完璧だと思った。語尾をバカにしたように上げてやった。ついでに長めの瞬きを片方だけしてやった。これでこいつをイジってる低脳たちが絡んできたときのいいわけにもなるしカーンペキじゃん! 

 ――そう思った。

 カエルちゃんはカエルの鉛筆をきょとんと受け取る。首を傾げる。教室の天井に顔を向ける。たっぷり二秒して同じ顔のまま戻ってくる。カエルちゃんの唇が横に広がっていく。両方にえくぼが出来た。

 鉛筆を両手で捧げるように持ったカエルちゃんが机を蹴飛ばすように立派な音をさせてロケットのように発射されて立ち上がる。つま先で背伸びをして、それが一杯になるとかかとが床につくまで戻って行く。体が安定したのか、彼女はそのまま気を付けをキめ、あたしにむかって仰角九十度の礼をした。つむじから、涙を少し含んだままの声が発射される。

  

「ありがとうございます! あたし、理科好きなんです!」

 

 確かに、思い出せば彼女の机の一番上に広げられたのは理科のテスト用紙だった気がする。それは三色スミレ。電流。分銅。細胞壁。ハイホー、カイボー、キリューサン。ああそう、あんた、好きなの、理科。あたし、あんまり、好きじゃない。うん、そりゃあ良かったね―――――ぇ。

 満点の笑顔につられていくばくかの思考停止時間を経て、作りものの嗜虐をかぶせたあたしの表情が、変なところで凍り付いたままになった。

 

「いいんですか! 感激です! ちゃんと返しますね!」

 

 ああ、こいつしょうがねーバカなんだー。そりゃイジメられんのしょーがねーわ。すげー「恩を仇で返す」ってこういうことなんだー。あーあ、みんななんなのそんなにあたしをみてなんなのよ視線いてーいてーよー。卒業式までそんなないしもう全部やすんじゃえばいいんじゃないかな、まってまってちょっとまってなんであたしが逃げるようなことしなきゃなんないの、くつじょくじゃないのなんでこんなことになるの、なんで。おい先公起きてんだろ、ウソ寝してんじゃねえよセキニンとれよああもうどうしてくれるのかなこの始末。そもそもこのおバカちゃんがそんなうっじうじしてるからああああああイライライライライライラ―――――――。

 

 あたしのなかに流れている大量の血が、その中を泳ぐ無数の赤血球が、酸素の代わりになんかもっと毒っぽいものを肺でピックアップ、彼らはあたしの心臓を経由し、次々と荷物を右腕の細胞で下ろしていくのがわかる。すーっとおりてくる。なんとはなしにあたしは席を立ちあがる。特に「そうしよう」とは思っていなかった。

 

 ぱ―――――――――ん。

 

「っぜー」

 

 いつの間にか立ち上がって、平手を振り抜いていた。振り抜いた後にようやく、脳に「こいつ殴ろうぜ、うぜーぜ」という議題が提出された。でもそれを受理したとき、とっくに戦争は終わっていた。勝ったのは誰だ。振り抜いたからには悪態の一つも吐かねばなるまいと思って、頭から蒸発しかけだった議題の欠片がこぼれおちた。

 カエルちゃんは目をぱちぱちさせたあと、糸を切られたパペットのように椅子に座った。右手で鉛筆を握り、左手でほっぺたをおさえる。教室はしんとしている。カエルちゃんがカエルのついた鉛筆で紙を擦る音が異様に響く。授業時間は、このテスト問題の質と量から考えて、できるやつはとっくに終わってるし、できないやつはとっくにあきらめてる頃合いだった。

 

 あたしは座って前を向く。カエルちゃんが答案をこする音と、時折鼻をすする音はチャイムがなるまで響いた。チャイムが鳴るとみんなは我先に解答用紙を教卓へ提出し、廊下に逃げていく。ちらりと顔を上げた先公を睨み付けた。卒業までの本当に短い間、小学校のすべての世界はあたしに無干渉でいてくれた。

 

 

 エスカレーターは何事もなく下っていく。

 あたしはとっくに前を向いている、都営新宿線新宿駅のエスカレーターより、京葉線ホームへのウォーキングロードよりよっぽど短い時間だ。あたしは機内持ち込み用のピギーケースを携えて、エスカレーターを降りた。この先でチェックを受ければあとはタラップを通じて飛行機だ。あたしは今降りてきたエスカレーターをふと振り返る。あたしの後に乗った巨漢が、なにやら靴を気にしながら、あたしの横を優雅にすり抜けていった。その後には誰も続いていなかった。見えないけれど、上にカエルちゃんがいたのかもしれない。そう思った。

「――あれ」

 エスカレーターの上からカタカタ乾いた音を立てて何かが落ちてくる。それは三回ジャンプして転がり降りてくる。それは

一番下、黒いギザギザのステージが銀色の口に飲み込まれていく場所だ。規定の大きさではないから、飲み込まれもせずにあとからくる断末魔のステージで踊り続けている。覚えのあるカエルの鉛筆が踊っている。

 それは、確かにかつて私の鉛筆だったものだ。最後に触れたあの日よりすこしばかりちびているように見えた。その円筒形をした体躯にノートの切れ端みたいなのが巻かれて、セロテープで留められている。エスカレーターの一番下で、私の視線の下で「拾ってちょうだい」と不器用なダンスで自分の存在を主張していた。

 

「――畦守〔アゼモリ〕」

 

 とっくに思いだしていた彼女の固有名詞だ。あたしはそれを口からこぼす。その名は呪文となってあたしの内側へ響いた。しかし、その呪文はあまりにも弱々しくて、あたしをほんのちょっとかがませることすらできなかった。

 エスカレーターステージの断絶が、整然としたリアス式の境界線であわれな筆記用具を玩ぶ。エスカレーターを降りてきた中年のサラリーマンが、ご親切にもそれを拾ってあたしを見た。

 あたしはサラリーマンの視線に、首を横に振って返事とする。そのままきびすを返し、タラップへ続く道へと向かう。タラップへ続くその道を、軽いピギ―ケースで走っていく。別れは済んでいたのだから。

 道の先では、ママがペットボトルを片手に職員と揉めている。林檎ジュースの入ったボトルが三本ばかり没収されていった。

 

 あたしは振り返らずに、機内へ向かう。

 

 パパが隣に座った。あたしの前に身を乗り出して、タラップにバイバイと手を振っている。窓際のあたしは早速毛布を広げた。機内放送が賑やかになってくる。

 あたしは重力を失う前に、アテンダントに見つからぬよう四桁の暗証番号を撃ち込むと、体が浮いた。

 

 箱のすべてが空になる、呪文が溶けていく。願う。

 

 

 あたらしいものもふるいものも、すべて

 

              この空が食べてくれますように。

 

 

 

<ファング・オブ・ザ・フロッグ 了>

(初出 2009-07-16)

(2010-12-05発行 同人誌「チハやぼん」に収録)