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トランスパラント・フットプリント

ちはやブルーフィルム倉庫

バンカーサイド・オクトーバ

短編小説 少年 少女 チハやぼん

 

 校舎はついさっきまで赤かった。それは藍色に染まり、すぐに闇の中で仄かに月の光を反射するだけになった。半分強の月が高いところでたったひとり、申し訳なさそうに座している。

 文化祭前の最後の夜だった。さっきまで俺が「現実的な確率遊戯」をしていたプレハブ部室棟では、夜をそこで明かそうと準備を着々と整えていた男子生徒たちが一斉に検挙〔パク〕られているところだ。

 間一髪、俺は校舎に逃げ込むことに成功していた。部室棟は俄に喧噪を隠さずにいる。友人たちの悲鳴に混じって、体育教師ジャンブーのうざったい高らかな野太い雄叫びが聞こえる。ジャングルに棲む肉食の大型獣は、きっとこんな声をあげるに違いないと思えた。

「あーあ。つまんねえ」

 ごちる。文化祭なんてろくでもない仲良しごっこだ。だけど、「仲良しグループ」なんてのはクラスの中にだって、学年を超えたところにだっていくらでもある。

 それが、クラスでの仲良しごっこをうまく演じられないヤツらが集まっただけだとしても、てめーらが柵の中で遊んでいる間に、柵を使って遊ぼうとしてるだけなんだから、ほっといてくれりゃいいのだ。他の奴らが楽しんでいるのに、俺たちだけハブられる思いをするなんてごめんだ。

 教師どもの襲来を察知して逃げ出すその瞬間は、脳からなんか流れる感じがしてハイになるのは確かだ。けれど、そんなの一時のことだ。醒めればまったくもってつまんねえ。全く学校なんてのはたまらなくつまんねえ場所だ。

 今年の部室棟〔パラダイス〕は根絶やしにされた。なら、教室棟なんざに居てもしょうがない。もう一人くらい逃れたヤツがいれば一緒にフケられたんだけど。

 帰るか――。

「あー」

 舌打ちがこぼれる。

 面倒な事を思いだした。教室に行く用事を思いだした。家に帰るつもりがなかったから、鞄を教室に置きっぱなしだったのだ。手元に財布はあるが、困ったことに家の鍵と定期が鞄の中にある。お袋は今日夜勤だったはずだ。

「ねえと帰れねえしなぁ……」

 また舌打ちをして教室に向かった。

 文化祭なんてのは生徒たちばかりが楽しい祭りだ。教師にとっては「ただでさえキツい授業のコマ数が減る」わ「余計な気苦労が増える」まったくいいことのないクソ忌々しいイベントに違いない。

 ガス抜きにしてはコストばかりが高く付く実入りの少ない毎年の乱痴気騒ぎ、主役の若者たちは明日の祭りを待ちきれずしばしば私的な前夜祭を、季節外れの花火をブチあげて開催したりする。

 毎年の風物詩ならまあ目も瞑ろうものだが、余裕の持ち合わせが少ない父兄、メンヘルになりたがる近隣の住民、自分の体面だけは気にするくらいの中途半端に社会的な成長を遂げた卒業生一同、カエルのケツにストローブチ込んで破裂させることもなく育ったウブな生徒たち。そのすべてが揃ったとき、教職員一同のストレスが計測不能〔アンカウンタブル〕をはじき出すのだ。

 教職員一同の戦はとっくに始まっていた。古典の鵄尾部〔しびべ〕は親戚を五人殺したし、地理の脇嶋〔そばしま〕はまた全治三日のインフルエンザに罹る。要領悪く番をするハメになった教師は三年連続でお鉢を押しつけられた数学の伏田をはじめ気が立っていたり、職務を投げっぱなしにして若い女と旅行に行った教頭の机にハナクソをくっつけながら、何も起こらない事を祈っていた。

 ただ前述の体育教師ジャンブーだけは生き生きとしていた。ある年に、偶然と不幸が重なって生徒が誰も校舎で徹夜できなかった年があった。その年のジャンブーは異様に機嫌が悪く、二学期の体育の点数が異様に厳しかったというのが職員室ではたまに茶受け話になっていたそうな。

 そんな話を聞いてしまうと、他の教師よりもジャンブーに親近感を覚えるが、それも竹刀片手に追いかけられ、初代校長の銅像前に正座させられるのは御免だった。

 なんにせよ。これからまっすぐ帰るつもりとはいえ、なるべく鉢合わせしたくない。廊下にも階段にもベニヤ板や塗料、資料、踏まれて黒くなったプリントが散乱している。学期末試験物理知原晋行二十七点。語彙力試験その2 三点/二十点赤ペンで書かれたカタカナのグッドラックは親指が下に向いている。夏休みプール開放日のお知らせ。裏返された片方だけの靴下。合板の間に挟まれた誰かのカッコツケ用英英辞典。効率悪く真ん中だけくりぬかれ役立たずに成り下がったベニヤ板の山がそこらじゅうにある。それをひっくり返していけば、ふたりくらい誰かが仮眠をとっているんじゃないかと思えた。

 

 静かな教室にたどり着く。そこには案の定鍵がかかっている。

「めんどくせー」

 俺は立て付けの悪い扉を指の力でわずかだけ持ち上げる。サッシと扉の間にいたケセランパサランが逃げていく。留められた簡単な戸の鍵を、空いている方の指の腹でちょちょいのちょい。扉はいとも簡単に手応えもなく開いたようだった。

 

「わぁっ!」

 

 今のは俺の声ではない。手応えが無かったことに違和感を覚えつつ教室に入ると、遠慮がちな声が俺を脅かしてきた――らしかった。

 そのあまりに遠慮がちすぎる声は「鍵がかかっている教室に人がいた」という事実を前にしても、俺を恐れさせる前に冷静にしてしまうくらいの穏やかさだった。

 

「――わ。わっ! 驚いた?」

 

 もう一回だ。頭ひとつ下にクラスメイトの顔があった。女子であった。特徴なきシルエット。それは蛍光灯の照らさない教室に窓から入る校庭のライトと月光の中で揺れながら、両手を挙げて自分を大きくみせている。本人の意図と反してまったく怖ろしくない。驚かせるなら、ベタではあるけれども下の方から懐中電灯で顔を照らすくらいの工夫は欲しいところだ。あれはベタな印象があるフザケだけれども、効果があるからこそベタなのだ。

「……何してん、教室に鍵なんかかけて」

「え――えっと、さ。あの。鍵かけられちゃったんだ。練習してたのにね」

 クラスメイトの返事はしどろもどろだった。脅かしてきたくせに、まるで向こうが脅かされているかのような力関係になっていた。

「――ひとりで?」

 この教室は当日使われない。俺たちのクラスは隣のクラスと合同でなんか「この町の歴史と発展」なる発表展示をするらしい――。らしい、というのは俺がそもそもクラスの出し物に対して全く積極的ではないからだ。

 しかし、声がかからないからくりのことは知っている。クラス委員である藤窪の兄貴が我々の高校と郷土を同じくするとなりの高校で展示した資料が丸ごとうちにあるという。なるほど、この数年のものだけを作ればすぐに形になるというわけだ。よって、頭脳労働もやる気のない俺みたいな奴腹の手伝いも必要としないと言う理屈である。

 展示そのものは第二社会科教室にて催される。そうなると開いたこの教室は当日、この学年の休憩室みたいな扱いになるらしい。態のいい荷物置き場か、たまり場になるだろう。今だってこの教室の放課後はずっと、他の部活動にほぼ無断で利用されてきたようだし。このクラスメイトのように。

「え、うん。ひとりで」

「へえ」

 電気も点いていない教室を見渡す。「カギを掛けられた」と言っても電気を点けていれば見回りの教師に見つけてもらえたろうに。よしんば、この気弱そうなクラスメイトが「下校時刻を過ぎて校舎に居ることを教師にみつかる」ことを必要以上に怖れていたんだとしても違和感が残る。

 ――ドッキリか?

「おまえだけ?」

「え? う、うん。ひとり――」

 教室の中は暗かったが、誰かが潜んでいる様子も無さそうで、二段構えで脅かされると言うことも無さそうだ。

 このクラスメイトは他の何かを隠しているんだろうが、そんなものを詮索する趣味は俺にはない。さっさとカバンを回収して教室を後にするつもりだった。

「で、練習してたのね……それで」

 ふと、当日の朝に憩いのアメニティスペースをでっちあげるために机を教室の後ろに積み上げるから、机の中を空にしておけと言われていたことを思いだした。

 さて、「思いだした」ということはその作業を俺はしていない。まあいい、どうせ俺の机には二週間前の週刊漫画雑誌と、メロンパンしか入ってないのだから。

「そしたらいつの間にか鍵かけられちゃってて、どうしようかなって」

「――へえ?」

 鍵がかけられたって、内側から開かないような監禁仕様のはずがない。現にコツさえ知っていれば、なにもなくたって開いたではないか。

「そんなのさ、帰っちまえば良かったじゃん――。あ、もしかして寝てたのか」

「え、あ、うん、そう!」

 彼女の態度と返事はどこか的を射ない。適当にフった助け船ともギャグともつかない泥船に飛びついてきたわけだしますます怪しかった。このクラスメイトは一体なんの練習をしていたのだろう。そんな疑問が、浮かんでどこかに散っていく。

 障らぬ神になんとやらだ。

「あー、まあいいや。俺鞄取りに来ただけだから。――鍵なんか気にしないで帰っちゃっていいんじゃねえかなぁ。ほら、どうせ指で開いちまうようなショボいもんなんだしさ。えっと」

 ――そのクラスメイトを呼ぼうとして言いよどむ。暗闇の中で彼女の顔がはっきりとみえてしまう。だから、はっきりと見えてしまった分だけ名前の部分をぼかしてしまう。

 ぼかしたって伝わる物は伝わる、だってこの場で独り言なんか言うはずがあるか? この場に居るのは俺とこいつだけなんだから、第三者がいないのにそれぞれの名前なんて。いやいや俺ちゃん、そりゃ気にしすぎだよ。

「――電気つけね?」

「えっ」

 ――そういや今まで接点なんて無かった。名字を知ってはいるが、下の名前すら覚えてはいない。てか部活の練習って楽器もみあたんねえし、何部なんだ。そんな異性の大人しいクラスメイトに「お前」とか呼ぶのも憚られる――もしかしたら泣かせてしまうんじゃないか。そんな気がして、結局名字すら呼ばずに済ませた。

「だから、電気。暗くね?」

「う、うん。そうだね」

 ちょっと滑稽な自分を笑っているのか。真意が届かなかったのかはわからないが、暗がりの中で彼女はツマミのスルメみたいな笑い顔をしている。スイッチはこいつの背中にあるはずなのに、まったく協力的じゃない。

「あの、さ。なんか机ごっちゃになってるみたいでさ。俺のどこかわかんねーんだ」

 イラつくのは、クールじゃないと思ってる。

「あ――演劇部の練習でここ使ったから、その時に混ぜちゃったかも」

「へえ」

 演劇部、ねえ。あったんだ、そんなの。

「キミの、ここ」

「――お、そんなとこ行ってたのか。サンキュ」

 どうやら俺の机は、窓際に行ってしまっていたらしかった。彼女はこの暗い中、どうして俺の机がわかったんだろうか。

 ――簡単なことか、文化祭前で机移動するかもしれない状態なのに、鞄を置きっぱなしにするバカはきっと俺くらいなんだろう。なら、鞄がかかっているのを探せばいい。きっと鞄が掛かったままで重いから、スペースを作るときに真っ先に窓際に追いやられたんだろう。それなら暗くても難しくない。

「あのね、メロンパンあったから」

「――え、そっちかよ!」

「え? ご、ごめん、お金は払うから!」

「――ん?」

 会話が噛み合わないのは教室が暗いせいだろうか。

 俺のツッコミは「机に鞄がかかっているので判別したんじゃなくて、メロンパンが机の中にはいっているかどうかで俺の机を判別したのかーい! お前の中で俺はどういうキャラなんじゃーい!」のつもりだったのだが、どうにも反応がおかしかった。

 窓際。カーテン越しに薄くそそぐ夜の明かりが、頭ひとつしたにある彼女のおびえを引き出している。なんか香料の香りがする。甘ったるい。制汗剤とも違う。へえ、なんだろ、香水だろうか。そんなことを考えてた。

 俺は片手で自分の机を手前に四十五度傾ける。手前の二本の足のみが教室の床板と触れる。胃袋を揺らされたその机は、内容物を吐き出す。

 少年誌が腹の方から落ちてくる。

「――――」

 それだけ。

「――あれ?」

 胃を空っぽにした机を四つ足に戻してやる。覗いても深淵は覗き返してきたりしない。何もない。クラスメイトに視線を戻す。彼女はポケットからごそごそと音をさせて、なにやら結ばれたビニールのようなものを取り出した。さっき感じた香りがほのかに強くなる。俺はその香りの正体をやっと思い出す。

 彼女がポケットから出したそれは、ほどかれて長いビニールヒモのようなものになる。すぐに畳まれた蛇腹がばらばら開かれて正方形。カサカサと音を立てるそれの正体が顕わになる。透明の袋に「ゴキゲン製パン 満腹チョコメロン!」と書かれたメロンパンの包み紙。この暗さのなかで文字は判別出来ないけれど、色遣いとデザインは確かに二週間前に非常食として置きっぱなしにした俺のメロンパンと同じ種類の物だった。それを彼女は申し訳なさそうに口の前に掲げてみせる。

 パンくずが落ちていく。

「……えっと――おなか、空いちゃって」

 ――と、いうことらしかった。

 二拍ばかり沈黙があった。二拍半目で、彼女の口元が歪み、目元にじわっと感情の色が浮かんだのを俺は見過ごさない。

 ――めんどくせえなあ、女って!

「それ、もう二週間くらい前のなんだけど……」

 笑顔で。

「えっ、えええっ!?」

「いや……食ってもいいんだけど……さ。その、大丈夫?」

 俺ははっきり言うのを憚り、掌を自分の腹に当ててさするポーズをとりながら、苦笑いをする。

「えええええ~~~!」

 そもそも他人の机の中にあるものを女子が食うと言う事が衝撃だが、食ったときのパサツキとかでその古さに気づかないのも衝撃だ。これがいっそ二ヶ月とか夏休みを越したとかだったら否が応にも気づきそうなものだが、そこは文化祭前の修羅場が始まる前になんとなく机に忍び込ませておいた非常食である。喰われたことはまったくもって、惜しくない。

「まあ、大丈夫だよな、二週間くらい」

「べ、別に大丈夫! 丁度おなか壊したかったんだよね!」

「――はあ」

 そんなことを言われると、該当部分に目をやってしまう。視線に気づいた彼女は、両手で腹を隠してしまった。

「そういうのデリカシーない」

「人のメロンパン、食べるのは?」

「――ごめんなさい。ちゃんと返します」

「いいよ、気にすんな。で、帰らないの? 俺は帰るけど」

「あー、うん、あたしも帰る」

 俺は「一緒に帰ろう」と言ったつもりは無かったんだが、そういうことになったらしかった。

 少し、不思議な気分だった。

 

 

 教室の鍵を開けっぱなしのまま、俺たちは校門を通って外に出る。校門では狩りを一段落させたらしいジャンブーが仏頂面で仁王立ちしていた。今しがた中庭に不届き者たちを転がしてきたと思しき竹刀の先端を地面に付けたまま、俺に声をかけてくる。

「おまえ、部室棟いたろ?」

「なんのことッスかー?」

 平然としらばっくれて校門を出てやる。彼女には一言もないけれど不思議そうに一瞥をくれていた。俺も不思議だ。

「じゃあ、また明日な。尤も〔もっとも〕俺は寝ずの番だが――ヒヒ」

 ジャンブーが校舎を、つまり俺たちの方は見ないまま、不気味な言葉を投げかけてくる。俺たちは聞こえないふりをして校舎をあとにした。 

 駅までの道は街灯が照らしてくれている。煉瓦を模した赤いアスファルトで舗装された道をゆく。教室を出てからこっち会話がない。ちらちらと俺は彼女を見る。横顔の印象は、さっき教室の暗がりで見た正面顔よりも絵になっているように思えた。

 彼女はモデル誌に出てくるようなスレンダーさも、グラビア誌に出てくるような肉厚さも持ち合わせていなかった。それでいて、かわいらしいともちょっと違う印象だ。こういうことを考えるのはまるでクラスメイトを値踏みするかのようで、一歩進めば自己嫌悪に陥りそうだ。総合すると、憂いを帯びた「あか抜けない」印象。女子を評するのを趣味とする悪友の弁を借りれば「ちょっとダサいよな」みたいな。

 俺よりあたまひとつぶん背が低い。だいたいこんなもんだ。髪から女子の匂いがする。メロンパンとはひと味違う匂いだった。

「どうしたの、ずっとこっち見て」

 前を見たまま、彼女は言った。

「あー、いや、そんな話したことないから。どうしたもんかって――あー、演劇部なんだっけ?」

「なんで知ってるの?」

 心底驚いたような顔をする。そういや「天然要素があってこれは捨てがたい味あり」んだっけ。

「いや、さっき自分で言ってたし……」

「えー、でもキミ帰宅部だよね?」

 なにが「でも」なのかわからんが、正解だ。帰宅部と言っても結構学校で残っているので帰宅部と言ってしまうのはちょっと正しくないかもしれない。

「――何演〔や〕るの?」

「あたし? 町の人C!」

 返事に困って同意をスルーした俺に、元気のいい返事が返ってくる。しかしこれもちょっとズレている。俺が聞きたいのは「演目」だったんだけど。

 かといってこれで質問を重ねるのも面倒だ。重ねて聞き出したその演目が俺の知らないものだった場合、会話は続かなくなってしまうから。

「――それ、どこでやるん? 体育館? 講堂?」

「体育館、土曜は二時からだけど。その前のが延びるだろうから二時半目安かなあ」

 今度は意味の通る答えが返ってくる。会話のコツをつかんだ気がして、俺は心中で拳を握る。ちょっとした達成感。勉強もしてないのに定期試験の数学で解法を自力で導きだした時のような益体もない全能感。

「見に行くよ」

 だから、油断してこんな事を口走る。

 言ってからたっぷり五歩。どちらの足も止まらないし、彼女の口も開かない。あたりまえだ。クラスメイトとはいえ今日までろくに話もしたことのないのに、――これでは、まるで。ああ、口の中に苦い唾液が溜まってきてしまった。こんなときに。

「――いや」

 運良く、彼女が口を開いた。俺はその隙に口に手を当てて、沈黙を嚥下する。

「――え」

 それと同時に、彼女の口から出た言葉の意味も飲み込む。拒否は当然の反応だ。でも、俺はもうすこしやわらかい言葉を期待していたんだと思う。彼女の言葉が続く。

「――だって私、町の人Cだよ。せりふなんてほとんど無いもん『――ああ、慈悲ぶかい王様! 気高き王妃様! どうか我々を憐れんでくださいまし!』――」

 たまたまかわざとかは知らないけれど、彼女が歩みを止めたのは街灯の下だった、商店街手前の人通りのある住宅街。自転車に特売ネギをたらふく挿した主婦の群れが、俺と天然メロンパンの横を駆け抜けていく。わりと恥ずかしい。

「――うまいじゃん」

「上手くてどうするのよ、こんなの。恥ずかしいから来ないで」

 あまり羞恥を感じていなさそうなそぶりで、そう言い放たれた。

「そっか。じゃあさ、――来年は?」

 なに言ってんだろう俺は。来年は俺たちは高三だから、参加できない。我が校の高校三年生は文化祭を楽しむ権利なんて持っちゃいない。だから「来年の文化祭」なんて俺にも彼女にも存在しない。

「来年? ――来年はダメだよ。あたしたち受験生になるじゃん。でも、再来年ならいいかも」

「なんだよ、それ」

「演劇の専門学校にいきたいの」

「へえ」

 とりあえず返事をした。返事をしてから考えた。考えたけど何のことかわからなかったので、もう一回聞いた。

「――なんで?」

 

「好きなの」

 

 おそらくこの世すべての男子高校生にとって衝撃的な言葉が飛び出す。平静を装っていても足下の白線を踏み外すくらいに、俺は戸惑う。外れた右足を線に戻すまでたっぷり〇・五秒考えて、それが「自分」ではなく「演劇」を指しているのだとようやく気づく。俺の動揺に気づいていない彼女が続ける。

「おかしいでしょ。村人Cが、なんで演劇やろうかなんて。おかしいって思うでしょ」

「――わからないけど。それはおかしいのか」

「おかしい。だって、二年が一年生にさしおかれてね。一番惨めな役をやってね――いてもいなくてもどうでもよくてね――ユカとかセリフぜんっぜん覚えないし、でもミヤなんか練習なーんにもしないのにあんなにうまくてさ、ズル――え、う、あー、あ。――ごめん。忘れて」

「なんだよ、続きあんだろー」

 女子のこういった態度については未だによくわからない。クラスの悪友はそんな俺に腕を組んで言う「女の話はとりあえず聞き続けろ! 自分の意見は言うな! これが耐久レースだ! ルマンだ! ロマンだ! ガマンだ!」よくわからんが、そういうことらしかった。助言には従っておくのがいいとその時は思った。

「いい。言ってもしょうがないし。きっと聞いてないし」

「聞いてるって! いいじゃん好きなもんすれば。好きなもん好きでいいじゃん」

 と、俺は早速決心を破った。人との会話で自分の意見を言わないなんて無体な話だよ、悪友!

「……みんな、そういってくれるけどさ」

「――え。じゃあ、いいじゃん」

 憮然と言い放つ。ホントかよ? どいつだそんな無責任なことを言う奴は。口ではそういいながら内心俺は思ってる。そして、よく女子にあるようにヒステリックな声で泣かれなくてよかった、とも思っている。

 しかし、頭が悪いわけじゃない。テストの度、廊下に名前をひっそりとではあるが記されているこいつが、演劇の道を志すという。――それは止めるべきものではないのか。

 近しい奴なら山に向かうより、線路をまっすぐ行こうと手を引くものではないのか。

「嘘。みんな、止める。最後になって。『やっぱりやめとけばー?』って」

 彼女が下の方から俺を覗き込む。「心配してくれた?」と彼女の唇が動いたような気がした。すぐに彼女は元のポジションに戻る。俺たちは駅前の商店街を歩いている。もう、駅に着く。

駅が見えてから、彼女がにわかに饒舌になった。

「――え、あ、そうなんだ」

「ね、私。演技上手でしょ? いい子の演技も上手でしょ? こんなんじゃウマすぎて反感を買うでしょう? だから目立たない子になろうと思ったの、だから舞台で注目されてみたかったんだ。でも、反感を買わない子の演技をどうしてもうまくできなかったから」

「――――」

「――ねえ、私のなにが悪いのかな」

 ――そういうこと、言っちゃうからじゃねえかなあ。

 最初に出てしまいそうになったのはその言葉だけど。もちろんそんなの言えやしない。

 でも、他に返す言葉が見つからなかった。

「わかんねー」

 言葉をすべらせる。彼女は「そっかー」と笑っている。

 駅に着く。

「あれ、あれ」

「――どうした?」

 ないの。

 彼女はそう言った。定期がないと言った。教室に置いてきてしまったのかもしれないと言う。

「……戻ってもさあ、校舎入れないんじゃないか? 明日が明日だし、門のとこジャンブーがずっといんだろ」

「そうだね……」

 なぜか背筋が寒くなる。違和感があった。

 その正体は、さっき彼女のポケットからのぞいていた定期入れのことだ。俺が見たのは定期入れなんかじゃなくて、演劇のアンチョコか何かかもしれないけれど。俺にはそれが定期入れだったように思えて。だとするとそれを「ない」と主張する意味がわからない。

 さっぱりわからなかった。

「どうする――? 財布もないなら、切符買ってやるよ」

 ――なあ、それ定期じゃねえの?

「え、わるいよ――メロンパンだって」

 ――それマジなの? なんでウソつくの?

「バっか、遠慮するなよそんなん。あとメロンパンは忘れろよ。だから、腹こわしても俺のせいじゃねーからな」

 券売機前で軽口を叩いたつもりの俺が笑っている。彼女は自然な笑みを湛えているように見えたけれど、それは彼女の言う「うまい演技」なのかもしれなかった。

 俺が切符を買ってやろうと、彼女の最寄り駅を路線図を指さし探す。視界の端で、胸の高さまで上げられた手は、拳になった。そのままスカートの横に力なく戻って行く。

「――いい、財布は、あった――みたい」

 彼女は自分で切符を買った。同じ方向の電車を待って、同じ駅で乗り換えて上下線で分かれるまで、また他愛もない話をした。よく笑った。そのまま別れた。

 

              ◆

 

 彼女が反対側のホームでケータイをいじっている。そういえば彼女は歩いている間ずっと、無言の間もずっとケータイをいじったりしてなかった。そんな俺はというと彼女のケータイの番号を聞くことすらしなかった。そんな簡単なことに今気づいた。それはあまりにも重大なカシツのような気がしてきた。

 ――だって、クラスメイトなんだから、明日だって会えるじゃんかよ。そんなの、べつに、いらなくね?

「あ」

 ケータイから顔を上げた彼女が、こっちを向いててのひらをこっちにむける。

 それをゆっくり、左右に。

 

 プァ―――――――――――――――――――

 

「あ」

 貨物列車が去っていく。前髪が突風に持って行かれる。上澄み液の下に澱んでいたものが、空気にさらされていく。目の前で景色が、次々と酸化させられていく。突風で目が渇いて、じわりと涙が浮かんできた。

 

 なくしてもいない定期入れをなくしたフリをしたのはなぜ?

 演劇を見に来てほしくなかったのは? 

 ケータイをいじらずに、鞄を持ち替えて俺の方だけ手を空けたのは? 

 鍵をかけられたひとりきりの教室に潜んでいたのは?

 シャッフルされていたのに俺の机の場所を知っていたのは? 

 俺が部活入っていないのを知っていたのは?

 たった一言のセリフの為に、ひとり教室に残って練習するなんて戯言を本気で信じたのか、このトーヘンボクめが!?

 

 貨物列車は、この駅に止まらずに去っていく。

 

「な――はずねー……」

 風は冷たいのに、空気はこんなにかき回されているのに、俺の額には、蝦蟇〔がま〕を縊る〔くびる〕と滲みる、あの苦くべとつく毒汁に似たものが浮かびはじめる。それは、あとから、あとから溢れ出てくる。

 目の前一メートル足らずを通過していく貨物列車。連結部分のわずかな隙間から向こうのホームが刹那見える。だけどそれは、向こうのホームにいるはずの人物を追うにはあまりにも短い時間。そして貨物列車が過ぎ去る前に、向こうのホームには各駅停車が来て、俺の見えないところで生きた貨物を載せて去っていってしまう。

「――ねーよ」

 いないのだ、そんなもんは、いるはずがないのだ。

 暗闇の教室でひとりきり、ある男子生徒の鞄を見つけてきっと取りに来るはずとずっと待っていた少女。

 そんなものは。

 

 取り戻せない速度で、離れていってしまうのに。

 不甲斐ない足は、一歩たりとも白線の内側から動かなかった。

 

    ◇

 

 文化祭の日。俺は2―Cのポーカーまがいのディーラーを押しつけられずっとヒマをつぶしていた。四組の同じトランプを混ぜて、上から二十枚を取り除いてプレイするドキドキルール。やがてホームパイチロルチョコでポケットが満載になった。

 それを廊下を走り回る小学生や幼児や他校の女子生徒を見つける度に与えていたら、赤い眼をしたジャンブーに指導室へと引き摺ら〔ドナドナ〕れていく羽目になった。理不尽だった。

 解放されると、いつの間にか祭は終わっていた。

 客は殆ど帰っていたし、片付けの日はまた明日に用意されていたから。疲れた出展者達はもう帰ったり、後夜祭に向けて英気を養ったり、校庭にキャンプファイヤーのための設えをはじめたりしている時間だった。

 とっくに体育館には誰もいなかった。

 俺は屋上に上がる。いつもは鎖で封印されている。カギは複製されて出回って居るけれど、この時期には開放されて行き場の無くなった最上階の荷物で溢れていた。

 俺は給水塔の影に座り、そこに隠してあるラッキーストライクから一本取り出して咥える。残っている上に濡れていないのは文字通りラッキーだった。

 それでも湿った草の臭いがする。舌打ちをひとつ空にくれる。箱の下に隠されたマッチで火が点かない。口の中で待ちくたびれたフィルターが湿っていく。

「――ああ、慈悲深い王様、麗しき村人C様……てっ」

 フィルターに貼り付いた唇が切れた。

 

 雨を望んでいる。

 

 

 

 <バンカーサイド・オクトーバ 了>

(初出 2009-10-03)

(2010-12-05発行 同人誌「チハやぼん」に収録)