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トランスパラント・フットプリント

ちはやブルーフィルム倉庫

シンキング・シンク・ライク・クライシス

短編小説 少女 チハやぼん

 

 夏もなかばの海だった。

 

 赤と白のパラソルの陰。あたしの隣でたっぷりとした胸が寝そべり、しきりに上下している。あたしたちは波打ち際でさんざはしゃいだ後だった。

「静かですね」

 逆光の中でカレシはあたしに囁いた。あたしの上を通り越す細い腕は、夏でよく湿っている。その白い指先は掴んでいたタオルで、日に焼かれはじめたお姉ちゃんの足を守る。

「ね、おっきい赤ん坊みたい」

 お母さんのそれよりもやさしく言ったつもりだったけど、口にだしてみると、ひどくのどの奥が苦しくなった。

「寝ていても、かわいらしいですね」

 ――家の中は息苦しかった。常温保存のまま二月ばかり忘れ去られた納豆藁みたいな家の中だった。かわいそうなお母さんが正気のフリをして君臨する魔窟と呼んで差し支えないだろう。

 そこでは毎晩、もはや人間をやめたお姉ちゃんが壁に頭を打ち付ける。あたしだけが、狂気にとりつかれた家の中でつぶれそうになりながらも、常軌の掌に必死でしがみついていた。

 糞の臭いが漂ってくれば泣いてしまうような、そんな細い指を決して離さぬように。

 

 お姉ちゃんの目覚めを待ちながら、海を眺めていたんだ。潮の匂いがする。小さな生き物たちの死んだ臭いだと、賢いカレシはRVのハンドルを握りながら言った。

 カレシが、あたしに声をかける。

「見ているから、泳いできたらどうですか? まだ遊び足りないでしょう」

「えっえー。そんなこと言っちゃてさ。お姉ちゃんとふたりきりになりたいんでしょー」

「ああ、ははは。また気を使わせてしまいましたかね。催促したわけではないんです、よ」

 カレシが少しばかり困ったようにして、でも笑っている。目が細いのは太陽が眩しいだけじゃない。すらりとした細く白い体躯は夏の海に似合わない。昭和初期の図書館にでも住んでいそうな、そんな書生じみた裸体だった。

「――あたしはいいからさ。あたし、お姉ちゃん見てるから、日に焼いてきたら? 起きたらまた、お姉ちゃんのお守りしなきゃだよ。あたしはやんないからね」

「はは、それでは妹姫も一緒にいかがですか?」

 カレシは執事のような仕草をして、そうあたしをからかう。

 そうやって、あたしにここにいることを深く恥じ入る。

 ――なんで、来てしまったんだろう。

 だって、仕方のないことだ。あたしは人の言葉を話せる相手にあからさまに飢えていたのだ。カロリーゼロで満たされたチョコペンで「苦しみ」「空しさ」と書き殴られたケーキを一緒に食べてくれるキトクな誰かがいるのならば、どんなに尻軽と罵られようと、愚かな生まれたてのスナウサギのようになる。

 ましてやその行き先が夏の海なら、なおさらだ。頼りなく細いその糸を、太く頼もしいロープであると思って引き寄せてしまったとしても、いいではないか。

 あたしは、けしてわるくなんかない。

「じょーだん」

 カレシはまた目を細めると何も言わずに砂の上に腰を下ろした。お姉ちゃんを挟んで川の字だ。カレシの愛する人はあたしではなくあたしの姉だ。――つまり、このカレシは横ですうすうとはしゃぎ疲れて眠っているその人の恋人なのだ。

 

 よくある昔話だ。かつてずっと幸せそうにふたりは生きていた。さらさらだったお姉ちゃんの髪も、つやつやだったお姉ちゃんの肌も、あんなにあんなに憧れていたのに、今では見る影も――いや、影くらいはある。けれど、それは色あせたクジャクのように冴えない。クスリのせいなのかもしれないねって誰かが無責任に言った。

 

 ぁーああーきーあっ! えへえええ! ひ――ぃいいきっ!

 

 お姉ちゃんから音がした。それは人が発することのできる最大限高い音なんじゃないかって思う。あたしも最初はテレビの音量が壊れたんだとばかり。しかし、ハウリングとは違う歪な音にもう一歩踏み込むことが出来れば――まがまがしいしゃっくりを連続でしているような――明らかに人が発したものだということがわかる。

 どちらにしろ、耳にして気味の良い音ではない。

 実際、隣のパラソルで静かに愛を語らっていたアベックがぎょっと腰を浮かしてあたしたちを一瞥する。砂の上に寝そべっていたそれがもぞもぞとうごめく。イエネコが背伸びをするような優雅さで肢体が思い思いに伸びをする。海へ来る前に、中途半端にしか処理させていただけなかった無惨な草原がチラリするのを見てしまう。だって、お姉ちゃんはそこがすごく弱いらしくてあまりにも危なっかしいのだ。

 そしてそんな愚痴を、あたしは意地悪のつもりでカレシに漏らした。その時、カレシは平然と「ああ、確かにね」と笑って返したんだ。

 あたしのため息。あたしばかりが死にたくなるのだ。

「――お姉ちゃん、おはよう」

 でもまあ、こんなうんざりにも慣れたものなのだ。あたしは奪い取られる前にストローの付いた幼児用のドリンクカップをお姉ちゃんの前に差し出す。起き抜けの猛獣は五指ずつそろった両手をお持ちにも関わらず、唇を飲み口に吸い付かせる。

 勢いで後ろに反ったあたしの頭が、パラソルの軸にぶつかった。

「ん、もう! ……持ってよぉ」

 お姉ちゃんはもちろんあたしのことなんておかまいなしだ、これからもずっとそうなんだと言わんばかり。ぎゅっぎゅと喉をはしたなく鳴らして中身のスポーツドリンクを飲み干す。

 飲みたいだけ飲むと、口を離して再び超音波の発生へと戻る。その度に数センチから数メートルずつの揺れ幅でじりじりと人が離れていく。害虫を遠ざける音波兵器に違いない。その目的で売り出せば、お姉ちゃんも人の役に立てるんじゃないのかな、なんてどこにも出せないイヤミばかりが浮かぶ。

 

 びぶゅううう―――――くゅううぅ!

 

 お姉ちゃんは唐突におかんむりになった。壊れてしまったお姉ちゃんは、ほかのことはいざしらず悪意には敏感で、自分の周りにできて、うすらでかく成長する透明なドーナツが甘くないものだからお気に召さなかった。だから、口に含んでいたドリンクカップをストローごと振り回した。

 砂糖と食塩をふんだんに含んだしぶきが飛んでお姉ちゃんとあたしとカレシの水着や周りのものを汚す。

 ――やっぱりミネラルウォーターにしておけばよかった。ひとまず、カップを投げつけて人に当たったりしなくて良かった。

 そんなことを他人事のように考えていると、お姉ちゃんを刺激しないように穏やかに見ていたカレシが、一瞬の隙を見事に突いて、お姉ちゃんの頭をくしゃくしゃと撫でてやる。

「――はい、おはようございます」

 ――なんだその挨拶。

 

 きゅー くー くー きー

 

 

 そんなもので、お姉ちゃんは満足した。みるみる穏やかになっていった。甘くないドーナツが少なくとも苦くはなくなっていく。お姉ちゃんは「そうそうこれがほしかったんです!」と言わんばかりにカレシに甘え始めた。

 甘えると言っても、隣のアベック(メス)がさっきまでアベック(オス)にしていたような加湿系スキンコミュケーションのことではない。乳飲み子が親に甘えるようなそれだ。昔の記憶を掘り起こすかのように。

 ――誰にもそんなふうに甘えたことなんて、ないくせに。

 記憶と一緒に生まれた要らない感情を、あたしは砂の中に封印した。

 

 ぃいいい――っ! ぉーるぅ! ぉーるぅぅ!

 

 あたしの煩悶なんてものともせず、お姉ちゃんは叫ぶ。

「なに、お姉ちゃん。ボール? さっきまで遊んでたじゃん」

「いいじゃありませんか。また波打ち際でやりましょう」

「え、あたしもうやだ。さっきだってさんざんだったじゃん」

 カレシが申し訳なさそうに笑って、すぐお姉ちゃんの方を向く。

「ほら、いきましょう、海ですよ。冷たいですよ」

 カレシは海の方へ走っていって、お姉ちゃんを呼ぶ。いつもならお姉ちゃんは、幼子が母親を求めるがごとくカレシの方へ走っていく。

 

 きぃやーいぃぃ――――っ!

 

 けど、起き抜けのお姉ちゃんは砂地の熱に足の裏を焼かれて飛び跳ねてしまう。そして怒る。まずはカレシに「なんでアタシのいやなことするの!」とばかりに烈火の如く怒る。けれど数秒も経たないうちにその成り行きともども投げ捨ててしまうのだ。するとからっぽのお姉ちゃんの中に残るのは原始的なあれこれのみになってしまう。お姉ちゃんの出来損ないの脳みそは「自分が怒っている」もしくは「自分はゴキゲンが悪い」ことをアピールするような行動だけをずっとずっと命令し続ける。

 

 ぃぃぃッ! ぃぃ! ぉぎょへへへららああああッ!

 

 こうなると、意味はそもそも取るべくもないが、知性のありかすらもがわからなくなってくる。たとえば、未開の地で文明に取り残された人々が死体の魂を呼び戻す呪いじみた踊りとはきっとこんな感じなのだろう。でも、きっとこれは本物よりもずっと滑稽なのだ。だってお姉ちゃんはたった一人だから。

 それは、自分がかつて女だったことなんかお構いなし、たったひとりの怒れるコープスダンス。お姉ちゃんはやがていくつめかの繰り返しステップにおいて砂に足をとられた。それでも獣じみた動きでどうにかバランスを取ると、その過程で熱された砂を足の甲でぶちまけた。あたしの顔に。

「ペェッ! ちょっとぉ! オイル塗ったばっかなのに!」

 

 ぎらああ ららあ ぃぁばばばばぁききききき――きき!

 

 ――他人様に触れなくて良かった。口の中に入った砂を拭いながら健気なあたしは良かった探しをしようとする。けれど、砂化粧されたあたしの顔がツボにでも入ったのか、お姉ちゃんは実にカンに障る笑い声らしき超音波を撒き散らしながら砂浜を縦横無尽に転がりはじめた。

 

「おねーちゃん、うるさい! やめて!?」

 

 ぃぃーきいい!

 

「ほらあッ! 周りの人見てるからぁッ!?」

 

 ――!?

 

「――あっ」

 いつものように機を窺っていたカレシが、残念そうな声と目をあたしによこす。あたしは、波線で構成された口と、八の字にしかめられた眉をお礼にくれてやる。

 ――そんなに強く言ったつもりはなかったんだ。それでもお姉ちゃんは泣きそうな子供みたいな口をする。怯えのサイン。あたしよりも頭いっこぶんたかい背のくせにだ。

 叱られ、詰られ、否定され、玄関の外に放り出され、行き場もなく、自分がなにをしでかして怒られたのかもわからず、ただしゅんとする幼児の如き素振り、お姉ちゃん自身にみんなが向ける反抗をそのままあたしに食らわせてくる。

「なによ、その態度……!」

 その目は、あたしの苛つきエリアにぴしゃりと当てはまるのだ。だからガマンができなくなる。もしかしたらこの女は、あたしがムカつくところだけはわかっててやっているんじゃないか。そんな妄想にとらわれる、そんな筈はないのだけれど「そうであって欲しい」自分が、こっそりと緞帳の裏側から客席を窺っているのが、わかってしまうのだ。

「なぐるよ――」

 いやな言葉が漏れる。

 ――やめなさいあたし。そんなことを言っても仕方がないでしょ。お姉ちゃんのあたまとこころは壊れてしまったでしょ。その悲しみと絶望と苦しみには、もう充分に浸ったじゃない。生まれつきのダメにトドメをさされ、ルーチンワークでできた網の中に絡まり続けるお母さんを諦めて、人としてできることをしようって。

 あたしまで壊れたら、ダメなんだから。

 そう決めたんじゃないか。

 そう、よく落ち着いてキャッカンテキに考えてごらんよあたし。さっきの口調は、なによりも誰かさんにそっくりだ。さすがだね、血は争えないものだね。

「うるさい」

 今度は口の中で、囁くように口にした。自分に向けて。でも、偶然、運が悪いことに、この半径数メートルの界隈が無音だった。波の音すらも遠慮していやがった。静寂と夏の熱があたしの悪意に加速度を載せてくれる。

 

 ―――――き

 

 お姉ちゃんにはそう、見えたのだろう。最大級の悲劇的な悲鳴のためにざーとらしく息を吸い込みはじめやがった。

 

 ――ああもういいや、やればいいじゃんお姉ちゃん。叫べば気持ちいいんでしょお姉ちゃん。でも、それをやったら、さ。

 ――あたしもバカになってやるんだからね。

 そう、覚悟を決めた。なのに、するりとカレシが姉妹の間に体をすべりこませた。

「ほら、落ち着いてください。アイス食べにいきましょう。はい。あーいーすーあーいーすー」

 

 ぃ――――――ッうす!

 

 いつの間にかお姉ちゃんの傍でカレシが膝を曲げていた。猛獣が疲れるまでひたすら待てるというのは尊敬に値する。あたしまで利用し、手練れの技でなだめすかし、熱い砂の上をジャンプさせる遊びを発明して喜ぶお姉ちゃんをコントロールして、体の砂を落としながら遠い方の海の家の売店まで誘導しはじめた。その辺りで鈍いあたしも気付く。

 ――なんだ、あたしまた。体よく利用されたのか。

「――恥ずッ」

 口の中に残った砂と一緒に吐き捨てる。

 行っちゃえ。遠くに行っちゃえばいいんだ。三十分ぐらい顔も見たくないんだ。そんなノータリンのことよりさ、いいのカレシ、そんな面倒な役を押しつけられちゃって。あたしはしょうがないよ? だって、お姉ちゃんの妹なんだもん。でも、あなたは違うでしょ。タニンでしょ。

 楽しそうな、無邪気な背中にそう念を送る。

 背中を見せていたカレシは、あたしの邪眼に気付いたのかどうか。ふと振り向いてパラソルの傍に取り残されたあたしに少し大きい声で呼びかけてきた。

「なにか買ってきますかぁ――?」

「――い、いらないッ!」

 あたしはいやしい念の存在に気付かれでもしたような気分に陥った。無性に恥ずかしい。さっきくらったミウチの恥なんかよりももっと恥ずかしい。恥ずかしくて頬の横を滴る冷や汗が、本物の汗に混じってわからなくなることだけを望んだ。

 カレシとお姉ちゃんが砂浜の人の群の中に消える。あたしはわざわざそちらに背を向けて、確定してしまった冷たいドーナツの穴の中にどっしりを腰を下ろす。さっきお姉ちゃんが暴れたときにばらまかれた砂粒がシートの上に残っていた。

 水着の中に砂が入って、あたしの柔らかいところを傷つけはじめていた。

 

 ――海、入りたいなァ。

 

 お姉ちゃんが海へ両手を広げて行く。あなた、アイスを買いに行ったはずでしょう。ね、そうだよねえ?

 ――ずるい。

 ――ずるいんだあ。

 

             ◇

 

 

 あの日。

 あのある日。家の中がよく冷えていたんだ。

 こんな夏が、始まった日だ。

 

 お姉ちゃんが、泣きつかれて寝ている。

 お母さんは、帰ってこない。

「飲みますか?」

 その男は勝手知ったる他人の家とばかり、ビールの缶を持っていた。小指が立っていた。気色悪いと思った。今思えば、無理をしていたんだと思う。

「飲まない……」

 ――そもそも飲めないし、馬鹿じゃないの。そう加えた。

「冗談ですよ」

 その男は土足で上がり込んで来たに等しかった。

「……なにそれ、あんたクルマなんでしょ。それでお姉ちゃん乗せたりしたら殺すから」

「ノンアルコールだから問題ありませんよ、へっちゃらです」

「あ、そうなんだ。――ごめん」

 なんで謝っているんだあたし。自分で驚く。でも、この男はそれに驚いていない。

「では飲んでみますか? 本物に比べたらまったく美味しくない紛い物ですけど」

「じゃあいらない……。意外。そういう冗談言える人なんだ。それにそれ、あんた口付けたんでしょ? やらしーんだぁ」

 精一杯の小馬鹿にした顔をしてやりたかった。でも、明らかに顔が歪んでいた。自分で見たわけじゃないけれど、この男の切れ長の細い目に映ったわけじゃないけれど。

 悔しくて歪んでいたはずだ。

「――あれ、もしかして。ぼくのこと気にしてくれているんですか。うれしいなあ」

 やめろ。

 そんな顔で笑うんじゃあない。あんたに悲しそうな顔をする権利はないんだ。他人なんでしょう。あたしの横にいていいわけないでしょう。

「……なにそれ、気持ち悪い」

 顔の表面を走る血管と、脳にたどり着く血管が膨張し大量の血液がエネルギーと熱と共に流れ込む。きっとまた「雪に焼けた真冬のリンゴみたい」な顔になってしまっているのだ。

 あたしはこれを、ずっと怒りだと思っていた。

 カレシはただ、うすく笑っているだけなのに。

 

 ――――

 

 ――深い深い水の涸れた井戸。水道を引いたから用無しの深淵に続く湿地。そこにぽつりひとりはぐれた壺。底にあるものに気づいたのはいつだったろうか。化粧箱の中にしまったおぼえのないものだ。それは水じゃないのに、スイカを投げ入れても割れてしまうだけなのに。くらいくらいくらいくらい星ひとつ見えない闇夜のなかで、泥濘に埋もれたガラスの破片がきらきらと輝いていたんだ。

 

 最初は憎んでいたはずだ。あたしは姉を、たった一人の理解者を奪われたのだから。カレシの前でお姉ちゃんはいい顔をして笑うのだ。もう見せられないけれど笑うのだ。電子レンジの前で、肉まんをふかしながら自作の肉まん哀歌を奏でる、無防備きわまる笑顔。

 

 あんなに愛されて、あんなに愛してたんだ。

 あんなになったいまでも、そばにいるのだ。

 そのぶん、妹のもらいは減っていく。

 

 お姉ちゃんの笑顔の総量が増えていく。うす暗い玄関の土を踏みにじる少し前までは笑顔でいることが多くなった。二階の階段から手鏡を伸ばして見てたから知っているんだ。そうして、あたしはおこぼれを頂戴して生活している路上生活者の気分に浸っていた。

 日曜の朝、お姉ちゃんは朝早く起きてレンチンなんかじゃなく、自分でめずらしく包丁を持ってとても楽しそうにカラフルな野菜をジェノサイドしていた。気付くとお母さんが仏頂面のまま横でジャガイモの芽を取っていた。お姉ちゃんの仕掛けた目覚ましが鳴っていた。

 お姉ちゃんはたまに泣いていた。せつなげな悲鳴がうすい壁を通り抜ける時に金属メッキされて、あたしの耳に鋲を打ちつけた。あたしは泣きながら新しいヘッドフォンを買った。静まった部屋を覗き込むと、涎と血にまみれ鉤裂きになったタオルケットを抱いて寝ていた。幸せそうな顔で。枕を抜き取ってやりたい気持ちを抑え、お気に入りである続き物コミックのクライマックスを本棚の裏に投げ入れて自分の部屋に帰ったんだ。

 ――――

 

 お姉ちゃんの寝姿が、その時の姿によく似ていた。自分だったら、こんな姿を見られたら死んでしまうに違いない。

 カレシはお姉ちゃんのあられもない寝姿を写メに収めると、おもむろにタオルケットをかけてやった。なにもかもうらやましかった。あたしはこんな顔をされたことなんてないのだ。ねたましい、ねたましい、なにがねたましいのか、あたしにはわからない。

 だれを恨み、妬み、そねみ、なにを叫んで、細かいキズに覆われた銀色のシンクに吐き散らすのだろう。

 いくつめだかわからないけれど、最後の願いをどんな風にお願いすれば、この墨汁とタールと重金属試薬廃液をミックスした不吉きわまる毒の沼から引きずり出してもらえるんだろう。

 カレシはあたしの前に座って、まずそうに嬉しそうにビールを呷ってた。

 

 

 お姉ちゃんがばかになったのは、そのあとすぐだ。 

 スーツ姿のカレシは玄関で石畳に膝を打ち付けた。

 それを、あたまのわるいふたりのおんなが同じ顔で見下ろしていたんだ。

 ざまあみろなんて、思ってない。

 

            ◇

 

 穏やかに隔離されたパラソルに守られて、ゆうゆうと海を見ていた。三十分はまだ経っていなかったけれど、あたしの視線はそろそろ三十秒刻みでふたりが消えた海の家の方へいっていた。

「――あれ」

 カレシだけが先に帰ってきた。

「――お姉ちゃんは?」

「すぐ来ると思いますよ。ソフトクリームの機械が調子悪くて少しばかり時間かかるとのことで――いやはや、ずいぶん並んだと言いますか、何度か並びなおしたものですから。心配そうですね」

「――だったら、待っててあげたらよかったじゃん」

「きみもずっと待っていたでしょう? それに、お姉ちゃんにちょっと嫌われてしまって……こういう場所ですから、本意ではありませんが押されたら退くようにしています」

 カレシが自嘲的な笑いを浮かべた。それは今まで見てきたものと違う、珍しい仕草のように思えた。カレシが「こういう場所」で目をやった視線の先には、なまっちろいカレシと対照的な浅黒く精悍な体躯の男達が群れをなして狩りをしていた。

「へー……」

 気のない返事が出る。自分でもわからない。あたしは喜んでいるのか、怒っているのか。お姉ちゃんじゃなくて、自分のところにいてくれたことに対して――。くれた。くれたってなんだよ、島かよ? ミノタウロスを探す迷宮の出口はどこにあるの。アリアドネの糸は砂の中に埋もれているの?

「キライ」

 口をついて出るのは、意味のない悪態だ。カレシはこの程度では絶対に怒らない。

「ぼくはずっと、嫌われっぱなしですね」

 カレシは苦笑するように、でもそれを心から残念がってはいないように言う。あたしはその態度に反発を覚える。

「そういうとこ、ほんとキライ。でもさっきのはちがうもん」

 ――なにが「もん」だ。

「そうなんですか?」

「あたしがキライなのはぜんぶだもん」

 ――二回目。

 でも、甘えるのは少しばかり、気持ちいい。

 でも、お姉ちゃんがいれば、その相手はけっしてあんたじゃなかったんだ。間違えちゃいけない。

「お姉ちゃんも?」

「……いらない」

「そんな悲しいこと、いわないでくださいね」

 カレシが笑っている。暑い。そりゃ夏だもの、あついのは当たり前だ。なんだよ涼しい顔をしやがって。お前のなまっちろいカラダは冷たいのかよ。冷たいんだろう。「手が冷たい人は、心があったかいんだって」ああうんそれ消防の頃ひゃくまんかい聞いた。ホントなのか。

 

 

 確かめてみるかちは、あるのだろうか。

 

 

 うぁ――ァ――ぇっ!? あ! あ――きいい――ッ! 

 

 

 劈く咆吼。

 あたしはすんでのところで、手を伸ばして掴んでしまうところだった。

「!?」

「え」

「――、持ってて」

「わ」

 幽霊のごとき不自然さで前にでていた手にビールの缶を握らされる。口をそれほど付けられていないそれはこの熱気の中でもうぬるくなりかけていた。

 

 

 ぎいいいっひいひいい ぎりりりぃ おがああきあきあ!

 

 

 お姉ちゃんが叫んでいる。海の家の前で叫んでいる。サーファー然とした小麦色の人たちが、苦笑いと一緒にお姉ちゃんをひどくののしる言葉を吐いて去っていくのが聞こえた。蛍光ブルーのソーダフロートが砂の上にぶちまけられてかなしくなる。かあっと、血が昇ってくる。

「ほら――ダメ、いけませんよ」

「なにやってるのよお姉ちゃん!」

 やっぱり穏やかなカレシの語調。凪いでいるはずなのにひどく激しい摩擦熱が濁った泥に引火する。あたしはさっきやったばかりの失敗を繰り返す。カレシの努力を水泡にかえしたくなったんだとばかりのことをする。口にしながら後悔していた。そんなことをしても、嫌われるばかり。お姉ちゃんが大好きなカレシが、お姉ちゃんを嫌いな世界が、あたしにつらく当たるばかり。突き刺さるばかり。ウッセー。ナニアレ。姉妹? マジカヨ。ニテネエ。ウゼエ。サツエー? ハヤクシロ。ドケヨ。ナカナイデ。テレビ―? ゲーニンドコー。ゴメンネ。イキマショウ。シネヨォー。

 見なくたってわかる、カレシがどんな顔しているか。

 

 ――なに、あたしが、悪いの?

 

 うぁ――――――――っ! ぎぃ――――っ!

 

 あたしは、この時どんな顔でお姉ちゃんを見たんだろう。

 あたしが増幅するあたしの悪意と、お姉ちゃんに向けられたあたりの悪意が、よりお姉ちゃんを不安にさせ、怯えさせ、窮鼠の如き凶暴を誘発し続けるダメなスパイラル。わかっていても、だって、お姉ちゃんのが悪いもん。そうじゃん。なんで、かばうの。黙れ、だまれあたし。だまれ。

「だまれ」

 たまらずに漏らす。緊急措置でガスを抜く。破裂しそうになったから。あたしはこうやって、自壊を防いできたのだ。だのに。

「あ、ダメだよ。刺激しちゃいけないんだ。ほら、こわくない、怖くないから、おいで、こっちこっち」

 カレシが姉の頭をひとつなでて抱く。アイスとソーダでベトベトになっているであろうお姉ちゃんの体を抱きしめる。ちくしょう。

 

「はい、ごめんなさい。お騒がせしました」

 カレシが店主に頭を下げた。お姉ちゃんの頭の後ろに添えて深くお辞儀をした。お姉ちゃんの頭はカレシの手に押されて気持ち前に倒れる。

 柄の悪さを隠そうともしない、ねじりはちまきのおっさんは、さっきのココナツ臭のするサーファーたちよりもいっそう下品で、しみったれていて、涙がでそうなほど惨めな言葉で、お姉ちゃんとカレシをずたずたにののしった。

 

 ――――きぃ―――ん! ――がべンも――――!

 

 あたまのわるいお姉ちゃんのフィルターには悪意だけが綺麗にくりぬかれて貫通する。だからカレシに抱きとめられていても、口の中に指をカマせられても咆吼をやめない。子供のように世界に反抗をキめる。自分の大きさを誇示しそれで威嚇をする。

 ずっと同じだ。壊れてからずっと同じだ。これって、幼い頃にさんざんやり過ぎてあたしが産まれる前に封印された、願いを叶える呪文なのだろうか。

 世界の反応は嫌悪から笑いに、嘲笑と忌避に変わる。動物園の檻の中を、あたしたちはこういう目でみているに違いなかった。あたしたちはもう、人ではなかった。

「申し訳ありません、ご迷惑をおかけしました」

 カレシはヘラヘラ笑った。言葉通り申し訳なさそうに泣きそうな眉を象っていた。一呼吸おくと、お姉ちゃんの腰を掴み上げてうまく土俵の外に持っていく。ちいさな沈黙の渦の上にうすら寒くそびえ立つ民主主義は、お姉ちゃんとカレシがここにいることを許さなかったから。

「行くでしょ?」

 喉が潮で粘ついていた。冷静を装ってカレシに声をかけたけれど、返事も待たずにパラソルのところにもどった。誰の所為かはわからないがパラソルは倒されていて、オイルやドリンクが砂の上に中身をぶちまけていた。

 砂の味のする深呼吸。焼け付く。目の下が痛いのは日焼けのせいだと信じた。機械的にパラソルを畳む。義務的に不愉快なねじりはちまきへそれを返却し、儀礼的なお礼と謝罪の言葉を述べた。

 そのまま小脇にかかえていたビニールバッグをお姉ちゃんとカレシの分も両肩に背負ったやっぱりみじめな姿で、カレシのあとを追いかけた。お姉ちゃんはカレシの背中に大人しく。しかして顔はまだ不快そうにしたままおぶさられ、海の方を文字通り指をくわえて見ていた。

 はしたなく大股。前に回るとカレシは笑顔のままだった。

「……なんで笑ってるの? ムネの感触?」

 サイアクなあたり方をする。

「うーん。怒った方がいい男ですか?」

「シンシなつもりなの? それ」

 あたしはサイアクな女だ。

「ううん。弱いんですよ」

「どうして、お姉ちゃんなの」

 こんなんじゃ、嫌われてしまう。

「さあ、どうしてでしょう。わからないから一緒にいるんです」

「――」

 これだけで、どうしてわかったんだろう。この人はなんでもお見通しなのか。肩に食い込んだ二つのビニールバッグ。塩化ビニルと紫外線の臭いが肌に沁みて、あたしの足が止まる。

「――強いて言えば、強さに惹かれたんだと思います。あの時」

 思考を遮るようにカレシはあたしの目を見た。カレシは階段の途中で足を止めていた。

 ――射貫かれそうな、瞳。

 よくあるそんな表現は、もう絶対ウソだと思った。

 射貫かれてしまっているじゃないか、その時は。

 

 あーあーあー みいー  みーい――! きゅううああ! ああああう――!

 

 お姉ちゃんがカレシの背中で、また子供のよう泣きじゃくっている。鼻水をカレシの背中に擦り付けている。彼女は主張する。まだ泳ぎたい。海、海、わたしの海なんだよ! ここが! あなたにはあげないわたしの海なんだ! そう言っているような気がした。

 

 ずっとお姉ちゃんがずるいと思っていた。最初っからわがままを言えば良いのに、お姉ちゃんだからって我慢してるんだ。最終的にそのほうがトクをするって知っているんだ。だからずるい。それでもあの日、あたしはわがままをいった。お姉ちゃんよりも自分がトクをしたかった。あたしのわがままは無理難題だった。お姉ちゃんは、辻褄の合わないあたしのわがままを無謀にも理解しようとしたあげく癇癪を起こし、手元にあった雑誌を天井に床に投げつけた。折り目をつけられた占いのページが這いつくばってた。

 

 駐車場へ続く石の階段は真ん中の手すりだけが赤く錆びている。石材は端から欠けはじめていて足の踏み場が少ない。砂浜ほどでもないけれど。お姉ちゃんは足なんか普通の人より動くくせに危ない階段はカレシに渡らせてるんだ。

 ――あれ、お姉ちゃんのビーチサンダルはちゃんと回収したっけ。あれは、十年前に終わってしまったアニメのサンダルだった。あたしが捨てたと思ってたそれを、お姉ちゃんはいつの間にか履いていたんだ。

 

「キー、そっちに入っていますか?」

「たぶん」

 

 お姉ちゃんのタオルの中にカレシのキーホルダーが入っている。手作りパッチワークの昭和的なホルダー。その中からギラギラするナイフみたいなキーを取り出して、カレシに渡す。カレシはお姉ちゃんを背負ったまま、ワンタッチの魔法でトランクとドアのロックを外す。

 後部座席に座ると、お姉ちゃんがあたしのひざの上にアタマをのっけてきた。

「いたーい!」

「どうしました!?」

「お姉ちゃんのアタマ砂でザッラザラなんだけど……! ちょっと、やめて、お姉ちゃん! 座席も汚れるし!」

「構いませんよ、座席のことは」「甘ッ……で――どうすんの? もう帰る?」「それじゃ納得しないでしょう。移動中に寝てしまうようならいいですけど、さっき昼寝されていましたしね……」「そうだね」「できれば他にいらっしゃらないような静かな海がいいですね、――月じゃないですよ」「月?」「ああいえ、なんでもありません。すぐですよ」

 泳ぐのは難しいかもですが。と運転席のカレシは付け加える。そして車内は無言になった。疲労が蔓延していた。このまま帰ってたって、誰も責めやしないだろうに。

 Rvは深い海に沿った海岸線を走っている。あたしの隣、お姉ちゃんは窓越しに海へかぶりついていた。さっきまであんなに見ていたのに飽きはしないのか。――いや、きっと塩味の唇とわずかだけ日に焦がされた頬を窓に当てて冷やすのが気持ちいいのを発見したんだ。だから飲み物をねだらない。だから、車が道に沿って仕方なく体勢を変え、日が当たるポジションをとるとしきりにむずがりはじめるのだ。

「ほら、お姉ちゃん。さっきまでいたとこだよ」

 お姉ちゃんはあたしの声に耳を傾けない。

 

 

 やがてRVは海水浴場を離れ、港の近く切り立った崖の方へ。

「……なにここ」

 こんなところに海岸があるとは思えなかった。

「磯遊びなど、いかがですか」

 ゴツゴツしていた。確かに海岸へと降りる階段のようなものがあった。海水浴場の半分風化した階段よりも一層スリリングなアトラクションだ。薄くなってもう読めない「立ち入り禁止」の看板にはあたしたちの侵入を阻む力は残っていなかった。

「たしかに……しずかだろうけど……」

 クルマを路肩に止めて身軽なまま降りていくあたしたち。お姉ちゃんが真ん中だ。お姉ちゃんは臆病なあたしがしんがりであることが嬉しいのか、たまに後ろをむいてあたしを脅かした。

 その先を進むとかろうじてこぢんまりとした浅瀬。遊泳禁止って言ったってどう見たって泳げるような場所じゃない。小さく切り込みすぎて、地元の人がそう来ることもなさそうな役立たずの場所に見えた。

「ね、秘密基地みたいでしょう」

 カレシは楽しそうに言った。思わずあたしはカレシの顔を見てしまった。

 ――無邪気そうな顔をしているのかと思いきや、そうでもなかった。そりゃそうだろう。閑かな水辺といえば聞こえはいいけれど、ここは役立たずの場所。ほとんどゴミ捨て場みたいになっていたんだから。こんなところを素直に楽しめるのはきっとむかしの子供だけだ。

 お姉ちゃんは無作為に積み上げられた鉄屑の立体パズルに上半身から引き寄せられる。まだ新しそうな場所。。タテになってしまった黄色くて丸いかわいい車の中を覗き込んでいた。

 カレシがため息をついて、お姉ちゃんに声をかけようとしてやめた。

「運転、疲れたの?」

「いいえ? 疲れてるように見えますか?」

「じゃあ、他のに疲れちゃった?」

 ちらりと姉の方を見る。まだ車の中を覗いている。中に溜まった水の中に生命のスープでもあるのか、蚊柱が唸っている。注意しに近づくのだってごめんだ。

「危ないですよー」

 それに気付いたカレシはお姉ちゃんのほうへ歩いていく。あたしの目は海の方へ。浅いところは少しだけ。そこに腰をつけて船がいくつか見える。埠頭で糸を垂らしている人が見えるけれど、その顔までは覗えないし、向こうからこっちは岩とかに隠れて見えやしなさそうだった。

 

 

 きぃお――――! ぉー! ぅううる! ひ! ぎ!

 

 

 お姉ちゃんがまた、叫んでいた。

「なぁにー?」

「あ、ボートみたいです、わりと新しそうですね」

「へえ」

 カレシがお姉ちゃんに替わり、車の中から引っ張り出したそれは、たしかにビニールボートだった。

「きたなーい」

 言葉とは別に、あたしは「少し楽しそう」なんて思っていた。

 ビニールボートでなくてはダメなのだ。お姉ちゃんがバタアシエンジンであたしが船長さん。お姉ちゃんは「左足の方が強いから右に曲がっちゃう」のだ。

 何年前だっけ。何年前の夏の話だっけ。あたしが着ていた蛍光ピンクのおもちゃみたいな水着。ちっちゃかったあたしはカニだかウニだかが蠢くのに怯えて泣いていて、お姉ちゃんが笑ってる写真があった。

 あの時にも乗った。ふたりで遠くまで行った。遠くで正しかったお母さんが本当の笑顔で手を振っていた。隣に誰かいただろうか。いたのだろう。

「膨らませましょうか?」

「乗れるかな」

 あたしの声は、びっくりするほど弾んでいた。

「ここでは危ないでしょう」

「……そう、だよね。言ってたもんね」

 あたりは岩場で、ちゃんと泳げるように作られた海岸じゃない。それにあたしたちは砂浜には戻れないつまはじきものなんだ。カレシだってさっき言ってたじゃないか「泳げないと思って下さいね」って。

「……ああ、あそこなら、浮かべられそうじゃないですか?」

 カレシが指をさす。そこはやはり岩場だったけれど、水辺に降りていけそうで。おあつらえ向きに入り江状になっていた。

「……でもそれ、汚いし、病気とかうつりそうだし、いいよ」

 本当は、乗ってみたいクセに、あたしはそう言ってしまう。

「洗えば大丈夫でしょう、水ならありますから」

「海水で?」

 カレシはくしゃくしゃのゴムボートを海水につけ、引き上げる。そしてひとつだけ持ってきたビニールバッグから缶をとりだして、開ける。喉が渇いていたのだろう一口それをグビリとやると、小首を傾げながらの苦い顔で唇を舐めた。

 そして、空気口とそのまわりにに琥珀色のそれをかけて、自分のシャツで丁寧に拭う。綺麗になったでしょうと言わんばかりの顔をしてみせた。

「なにそれ、ビール?」

「さっきのと同じですよ、二本買ってあったので」

 そういうと躊躇無くボートを膨らませはじめた。空気が入って、楕円形を為していく。クリアとピンクが交互にあしらわれた女児用のボート。子供ならふたり乗れそうな大きさだ。

 わずかに膨らむ度に、お姉ちゃんは喜んで跳ねていた。でもまたすぐに飽きて、奇声をあげながら、より切り立った岩場の方へ駒を進めてしまう。

「あ、あれはいけない」

 カレシはゴムボートを投げ出し、すぐさまお姉ちゃんを追いかけていった。

「――待ってて下さいね! 危ないから」

 どっちに言ったのだろう。

 ともかく、あたしは八割弱膨らまされたビニールボートとともに取り残された。ボートの空気口を指で摘んでも、内圧はまだ弱くて空気が抜けていかない。

「…………」

 空気口を眺める。親指と人差し指で小さく輪を作って空気口に当てて、呼気を送り込んでみる。やっぱり少しずつ指の間から抜けていくけれど、少しずつ空気が入っていく。でもそのペースは本当にゆっくりとしたものだった。

 ゴムの臭いと塩の臭いを綯い交ぜにした邪悪な空気を込められた大きなビニール風船。ようやく九割方まで膨らんだところで、もうあたしの肺活量ではおっつかなくなってしまった。

 

 ぅぎぃお――――――ぶぉ―――――!  ―――ぅ!

 

 岩場を一周してきたらしきお姉ちゃんが奇声を上げ、ボートの上にダイブしてきた。

「~~~~ッ! もう! ちょっと! ちゃんとつかまえててよ! 危ないなあ」

「いや……ァ、面目ない……。膨らませてくれたんですか? ……けっこうちゃんとしていますね」

 カレシは気にした風もなく、あたしから空気風船を受け取ると、ためらいもせず空気口を咥える。一気に最後の空気を送り込むと張り詰めた、触れるときっと小気味いい音を立てるんだ。

 カレシはそれを海面に浮かべる。切り裂けば体育祭のポンポンにでもなりそうな頼りないロープを解き、うまい具合にカギ型をした岩に引っ掛ける。

「こんなあんばいでいかがでしょう、お姫様」

 それをきもち引っ張りながらカレシが言う。

「いいんじゃないですか、ほら」

 あたしがそういう間もなく、お姉ちゃんは飛び乗った。早速沖に出たいとばかりに、ロープを繋げられた岩を蹴ったり殴ったりしている。

「良かったですね、いいおもちゃが見つかって」

「……ですね。あ、そうだ、クルマを停めなおしてきたいのだけれど」

 お願いしていいですか。のポーズだ。

「じゃあ、喉渇いたんで、ジュースお願いね」

「そうですね、ぼくも水分を補給しておきたいところです。ついでにトイレに」

「……それ、持ってたまま追いかけたの? じゃあ水分それでいいじゃない」

 カレシの手には、さっき開けたビールの缶がある。

「はは、お恥ずかしい。これはもう美味しくないので、ご勘弁願いたいものですね。……置いていくので、なんでしたら飲んでも構いませんよ」

「……いらない」

 そんなものは飲まないって、前にも言ったじゃないか。

 カレシは「そうでした」と、眼を細めてわらって。

 空いた両手でバランスをとって。

 崩れかけた階段を軽快に上っていった。

 

                          ◇

 

 お姉ちゃんは無邪気にさっきまでゴミだったボートに乗ってはしゃいでいる。沖に出る野望は捨ててしまったらしい。小さな海の中で、澱んだ臭いのする岩場の水たまりで、チャプチャプと水をかきまぜている。

「はー……」

 しらず、ため息が出た。あたしはどっと疲れていた。息を吐くと、唇にゴムとビニールとビールの臭いがして、思い出して、気になって。疲れがひどくなる。

「どうして、よう」

 片手にもてあまされたビールと一緒に岩の上へ腰を下ろす。ひんやりしている。フジツボとカニが近くなる。日の当たっていた岩に背を預けると、わずかに熱が流れ込んでいる。前と、また背中の岩の中から波の音がしてくる。

「あー、なんだろ、マイナスイオンとか?」

 独りごちる。ババァくさいような妄言を吐く。すると、すこし楽になったような気がする。視界の向こう、すぐに手の届く場所。五メートルばかりの範囲でお姉ちゃんがボートでぐるぐるまわるあそびをはじめようとしている。

 ――外れたりはしないだろうか。

 口の中が渇いている、さっき拭いきったはずの砂粒がまだ残っていて、水分をどんどん吸い取ってしまったみたい。 

 外れたらどうなるのか、不吉な思考のその先。ボートは沖に流されるのか、沖に流されたら、お姉ちゃんはどうするのか、怯えて海に飛び込むのか。今のお姉ちゃんは泳げるのか。前のお姉ちゃんは果たして泳ぎがうまかったか。知らない。きっと二十五メートルくらいは平気で泳いでしまうんだろう。

 でもそれ以上は? わからない。

 杞憂だ。カレシがやったことだから大丈夫なはずなのだ。そんなことよりも、あたしはお姉ちゃんのせいで疲れているんだから。ホントだったら、ホントだったらさあ――。

 手に持ったままのぬるいビールじみたものを見る。ちょっとよりかは多く減ったそれは人肌のヌルさだった。あの人が口をつけていたビール。白いあの肌と体に取り込まれたもののきれはし。そのまがいもの、姉のもの、頭の悪い姉のもの。にせもの。鉄のような飲み物。これはきっと、毒にちがいない。

 

 気がつくと口にしていた。

 

 ――まずい。

 なんであの人は、こんなになってしまったものを大事そうに持っていた。なんだこんなものを、あたしに持たせたんだ。だれもかれもどうしてこんなもので、身を窶していってしまうんだ。ばかなのか、バカばかりなのか。

 えらそうな口をきいて、助けてくれなかったあいつもこいつもどいつもこいつも、お姉ちゃんもお母さんもカレシもあたしもただのバカなのか、たのしい、たのしいじゃありませんかお姉ちゃん。聞いていますか声が聞こえますか。海が青すぎてあたしは目眩がしてまいりました。空が青すぎてあたしもめまいがしてまいりました。たのしいねおねえちゃん、あのときみたいなきぶんだね。おねえちゃん、おねえちゃん、あたしもしかしてきがくるってしまったのではないかしら。あはは、たのしい、ざまあみろ。あたしをおねえちゃんをふたりにしてしまったんだ、あんたの彼女だろ、しっかりしろよ。あたまが熱い。目の下に熱が集まってくる。いたい。泣きたい。泣く前のあの、あの、あの日、夏、写真のあの夏、泣いたいっぱい泣いて、目玉から水分がなくなってひからびると言われもっと泣いたあの日。ずっと手を握っていたおねえちゃんとボートの上でなんで泣いていていて、みず、そら、うみ、あの手。いのち。どちらがそらでどちらがうみでどちらがあたしでだれがだれをころしたんだっけおかあさんふらりとくるふらりとどこかへいってしまったぐらりとぐらりとしずんでしずんでしずんでし

 ず

   ん

 

      で

 

                    しずみきっていく。

 

            ◇

 

 ――気がつくとお姉ちゃんがいなかった。ボートもだ。

 海、海にいる。なんで、あたしちょっと寝てしまっていたの、そうだ疲れていたからね。だって、なんですぐ帰ってくるんじゃなかったのカレシは。ジュースはまだなの。口の中が鉄の味がするの。どうしてトイレがそんなに長いの。なに、もしかして男子特有の病気ってやつなの。カレシさいてー。今何時、どのくらいあたしは。お姉ちゃん、どこ?

 お姉ちゃんは海の上にいる。背伸びした水着。まだあたまが確かな時に養ってあったスタイルの面影。今では自然の力に負けてしまっている。なによりも動きが逐一が人間ではなかった。

 海の上で踊っている。

「――!」

 呼んでる。きっとあたしのなまえだ。笑っているのがかろうじてわかる。なんだ、笑ってるのかよ。こっちは肝を冷やしたんだぞ。っていうか今だって冷えているんだ。冷凍庫の牛肉をおいしく解凍するのはむずかしいんだからね。お姉ちゃんは料理しないから、知らないだろうけどさ!

「あぶないよ――ッ! はやくもどってきなさい――ッ!? おこられるよぉっ!?」 

 誰に怒られるというのか。姉は漕いでいない。それなのに遠くに向かっている。これが潮なのか。目を覚ましたときよりも遠い。そしてじんじんと自分の声が頭に響いてくる。目を開けていられないくらいにツラい。ひどい風邪を引きはじめたときのような痛みだ。満ち引きする潮の如き波状の痛みだった。

「おね――ぇちゃ――――ん!」

 それでも我慢して叫ぶ。そんなことをしたって頭の悪いお姉ちゃんはきっと戻ってこれやしない。どうすればいい、飛び込んで追いついて、あたしがまたモーターになればいいのか。あの日と逆をすればいいのか。だめだよ、ここは海水浴場じゃないから、だれかが来る気配なんてないじゃないか。ふたりだけでは生きるのに足りないじゃないか。

 カレシ、どこにいるんだよお。

 米のようになった姉が飛び跳ねて落ちる。

 

「あッ」

 

 悲鳴のような自分の声は存外湿っていなかった。

 お姉ちゃんが頼りない紐をたぐっている。すべってすべってもういっかい上る。べそをかいているかもしれない。お姉ちゃんは泳げたっけ。あたまがいいころは泳げたっけ。なんでもよくできたお姉ちゃんだけど、体育だけは嫌いだったんじゃなかったっけ――。

 

「――あっ、ッ!」

 

 お姉ちゃんがまた落ちて、また這い上がる。イヌのように体を震わせて、水を切っている。太陽がいつのまにか、あんなに低いところにいて眩しい。お姉ちゃんの様子が見にくくてしょうがない。どんな顔をしているのかわからない。

 泣いていたら、どうしよう。

 

 ――カレシはまだ、帰ってこない。

 

 

         ◇

 

 車内にいた。

 カレシは長いトイレからやっと帰ってきていた。

「遅かったですね」

「いい駐車場が見つからなくて、結局ぐるっとまわっていたんだ」

 キーが刺さったままだった。

 いつもならこのできた人間は、なにはともあれ待たせてゴメンと謝るのではなかったか。こんな言い訳をして開き直るそぶりを見せたりしただろうか。

「――そうだ、ビール、捨てたから」

 正確に言うと忌まわしい缶はなくなっていた。きっとあ岩場の陰に落ちてしまったんだと思う。先客の鉄屑たちの中にアルミが混ざっていった。

「そう、ぬるかったからね。もう要らなかった」

 冷たく響くカレシの言葉。

「惜しくないの?」

「うん、だってぬるいビールはまずいでしょう。飲まなかったの?」

「――飲んでません」

 あたしは、どうでもいいウソをついた。

「そう、冷えたのをまた買えばいいからね」

 気にしないで。そう続けられた。

「悲しくないんですか?」

 答えはない。代わりに、質問が飛んでくる。

「――それ、痛くない? 大丈夫?」

 あたしはつられて、自分の痛む足の甲を見た。

 あたしはカレシに海の中から引きずりあげられた。岩と貝で切って血が滲んでいた。近くの家で消毒薬と抗生剤軟膏を借りた。大きい絆創膏のガーゼはとっくに茶色くなっている。

「クルマが汚れるかも知れない」

 イヤミを考え出さねばならなかったんだ。

「構わないよ、きみは座席にタオルを敷いてくれる子だから」

 こんなひどいカレシは、はじめてだった。あたしは無言になる。泣きそうになる。本当に座席を完膚無きまでによごしてやろうかと考えはじめた。はやくエンジンをかけてくれれば、ラジオのスイッチをオンににしてくれればいいのに。キーをひねるだけでいいのに、カレシはそれをしてくれない。

 かわりにまた、口を開いた。

「――よく、がんばったね」

「なにそれ」

 タオルが水を吸っていく。湿った水着が乾いていく。

 自分の水着は、どうしてこんなに子供っぽいんだろう。

 お姉ちゃんが着ていた白い水着は、ちゃんとおへそがでていた。たった二年前にお姉ちゃんが怒り狂いながら封印して、あたしにくれたあの水着だ。いくらなんでも水着はもらえないし。第一いろいろ足りてない。そんなものを着るわけにはいかなくてしまいこんでいたんだ。

 その水着だ。

 

「――ずるいな」

 

 バックミラーを覗いた。カレシはびっくりしている。あたしのほうを見ていたわけじゃない。そして唇を内側に巻き込んでバックミラーから覗えないところに表情をやって、またぽつり。

「きみは、気づいてた」

 しじまが充ちる。まだ家に電話はできていない。したところで仕方がないと思う。きっと、誰も悪くないんだ。悪いのは、お姉ちゃんのあたまだけなんだ。

「なにも、知らない」

「止めなかった」

 返事をせずに座席を蹴った。つよいつもりで。キズのひどい方の足で。

 

 

 びくともしなかった。

 

 

 

 

 酩酊か微睡みか綿のように軽い白昼夢か、そんなこと、もう覚えてなんかいない。

 ともかくその時、お姉ちゃんが立つ大地はひどく脆かった、画用紙に描いた一本の線より曖昧な確かさだった。穴でも空いたのか。わからない。膨らませているときはきっとそんなものはなかったんだから。多分。切り離された小さな世界が亡んでいく。

 お姉ちゃんが叫んでいる。バランスボールと戯れているときみたいな愉快なヤジロベエのごとく、両足で立っている。くるっと回ってあたしを見る。笑っている。

 ――笑っているように見えた。口が開いた。もういっかい。

 つづけて口がうごいた。イー。のくち。小さい頃のあたしの癖。だからきっと正しい。つぎはアー、いや、さっきより小さい。でも船が沈んだ。あれはきっとオーだ、またオー。誰かが声をかけてきた。

「おい、ここで泳いじゃダメだ」

「――おねえちゃん」

 そういったのかどうか、覚えていない。そんなやりとりがあったと、あたしは後で聞くことになる。

 だから、もういっかいオーだ。

 そしてイー。

 この時、お姉ちゃんがなにを言いたかったのか、結局、わからずじまいだった。

 

 お姉ちゃんは、海に似合うように大きく手を振った。

 

 あとはアーア、アーアの繰り返し。なんて言ってるのお姉ちゃん、もうどんな顔してるのか見えやしないよ。アラカタ? ちがうでしょ。ハラワタ? 遠ざかったぞ。よく考えろ半分融解した脳みその垂れ流す言葉だぞ。バカでも呼べる言葉。バカバカ。それだ。ばか。ばかばか。ばーか。そういっているに決まっている。でもなんで笑っているの。

 なんで、笑っているの、どこを見ているの。

 

 ――ちがう。

 

 

 二回目のアはオだ。

 

 

 

 隣の誰かが、誰かに電話している。

 

 

 あー! あー!

 

 

 転んだ。バランスを崩してひっくり返る。その拍子で泥で拵えられた船が決壊する。ノアは新世界で大陸を見つけることができなかった。ロビンソンさんの一家はオーストラリアにたどり着く前に日干しになった。

 

 あたしの膝も沈んでいく。せいいっぱいの頑張りも見つけてもらえなかったパレオスカート。それと石混じりの砂に挟まれる。錆びた麦の臭いがする。

 

 

あー    

 

 

 最後の母音が、だだっ広く青い溶鉱炉へ沈んでいく。

 

 

   ◇

 

 鎖に繋がれていても、花が咲いている間なら間に合うだろうなんて思ってた。なのに、海の広さと空の広さの中であたしは抜け殻を境界線に残し沈んでいく。

 

 

「――ねえ」

「なに?」

 あたしは返事をしなかった。

 あたしたちは。あたしとカレシは揺れの中にいる。

 すべてが終わって帰り道の上。空に浮かぶ土地が、白線が、赤い丸の中に描かれた二桁の数字が、灯が後ろに消えていく。人ひとり分軽くなったスッカスカのRVが湿っぽく走っている。あたしとカレシは容疑者のままなのに、こんなに平和に家に向かっている。

 あと一時間もすれば、悲しみの家にたどり着いてしまう。その前にあたしにはやるべきことがある。簡単なことだ。死体を引っ張り上げたりするよりも、電話口で半狂乱で笑い出すお母さんを宥めるよりも簡単な事だ。

 

 塩気に辟易した気管の粘膜が、さっき飲み込んだ言葉を漏らしてしまう。

 

 

「――ね、あたしとケッコンするの?」

 

 

 真似をするつもりなんかなかったけれど、似てしまった。

 

 運転席から返事はない。いつまで経っても返事はない。バックミラー越しに目が合ってしまうことに怯えたあたしは、返事を待つのをやめて外を見ることにした。

 

 右手の窓に、まだ海を見てる誰かがいる。

 しずみそこねた半分弱の月がいる。

 浮かびきれないクラゲのように穴が空いて、一番星を漏らしている。

 

 RVの窓、その内側はまるく曇っている。指で触れるとぬるく引っかかる。あたしがお願いしたから、後ろの窓も開くようになっていた。窓を少し開けると、夏の夜にいのちの混ざった臭いを運ぶ風と窓の隙間が擦れて音がした。

 あたしは檻の外に口を付けてこっそりと呟く。

 

 

 ――名前、もらうから。

 

 

「今、何か言った?」

「――ううん。シャワー浴びたい」

 

 

「はやくして」

 

 アクセルが踏まれる。

 広いバックシートにひとりで横たわった。

 

 

 涙が流れてないのを、悟られないように

 からだも髪もなにもかも、塩の味がするうちに

 

 

      <シンキング・シンク・ライク・クライシス 沈>