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トランスパラント・フットプリント

ちはやブルーフィルム倉庫

パーペチュアル・テンペラチュア

短編小説 少女 百合 チハやぼん

           ――スノウズ――

 

 

 寒い日のことだった。

 

 その日も一年生だった。渋谷にも新宿にも寄り道しないまことつまらぬ私だった。ハンバーガーチェーンとコンビニと牛丼屋とベーカリーのある最寄り駅。本屋さんも魚屋さんも肉屋さんもとっくに泥の海に沈んでしまった街を抜けていく。

 二回乗り換えれば学校に着く。私は喧噪と静寂のミルフィーユでお腹をいっぱいにする。私は他になにもしていないのにくたくたになって家路に就く。泥の海に沈んだ商店街の代わりとばかりににょきにょき生えてきたパチンコ屋が私を出迎える。

 デジタルサウンドと真鍮玉、そしてコンクリートのずっと下、かつて駐車場だった空き地の隅に埋めた稚拙なラブレターは、もう二度と掘り返せない。ざまあみろなのだ。

 こうして往復時間を費やし、私は青春をすり減らして生きている。一体誰が、この塩っ気ばかりの無様なお茶会にお呼ばれしてくれるのだろう。

 空を見上げる。今日も見事な灰色だ。

 

 一月も終わろうとしていた。

 寒さが足の裏から凍みてくる。隣のユッコは右の上履きを脱いで、足をお尻の下に敷いていた。もう片方も同じようにして胡座をかいた。

「それ、あったかい?」

「あったかい!」

「あたまいい」

「でしょ。あたしあたまいい!」

 授業中だから、会話はそれ以上続かなかった。授業中だったけれど私たちはコートを肩から掛けていた。ユッコはにこっと笑おうとしたみたいだけれど、歯がカチカチと鳴っていた。私もユッコの真似をして口角を伸ばそうとしたら、唇が割れそうになったのでやめた。

 いつもは私もユッコも、くだらないことを朗々とうたいあげることにかけてはいかにも女子中学生だが、今は一応授業中だったし、なにより寒くて口なんか長く開いていたくはなかったのだ。

「せんせー、さむい」

 私の二つ前の席に座る渡辺公子さんが突然立ち上がってそう訴える。

「な、なんだね、ぼくの授業がサムいだって!」

「いえ教室が寒いのです」

「いいえ先生、この席は熱いです」

「相川くん、きみは正しく言葉を変換したまえ」「いいえ先生、これは正しい変換です。わたしたちは御覧の通りセーターすら脱いでいるのです」「そうですか」「そうです、夏服が恋しいくらいなのです」「では問題ありませんね、次回から夏服でおいでなさい」「なんですって」「自己管理ですよ、みなさん」「あんまりです。先生、廊下側は本当に寒いのです」「先生、ヒーター側は本当に熱いのです」「みなさんの意見はよくわかりました。ぼくは丁度いいので、授業を続けます」「それは横暴です!」「横暴です!」「では民主主義です。――ところでみなさん、これは全く関係のない話なのですが、そろそろ学期末試験ですね。それでは、教室の室温に問題があると考えるみなさんは挙手をしてください」「先生は汚い!」「ぼくは清潔です――ヘークショイッ!」「汚い!」「汚い!!」

 

 寒い日はいつのまにか、雪の日に変わっていた。私の視界には秘密のババシャツもろ出しになって下敷きで仰いでいるクラスメイトと、しんしんと降る雪がセットになって映っている。ユッコはというと体操着袋からジャージを引っ張り出して、教卓からの死角を見極めながら器用に履きはじめた。

 

「なんだろこれ、世紀末? 私たち死ぬの? もう駄目なの?」

「あと九十年くらい待てばいんじゃね? きっと先に氷河期が来るね! ぎゃっ!」

「ぎゃっ!」

 

 ユッコの冷たい手が油断した私の首筋に触れた。ジャージとユッコの足に生えた罪のない産毛たちの間に産まれた幼い静電気が流れてくる。黒板消しがホントに罪のない公子さんの顔面にストライクした。公子さんははしたなく机を蹴っ飛ばして教室を出て行ってしまう。

 

 にわかに静まった教室、視界の広くなった席で私は考える。十月の席替えホームルームの時に三番を引き当てておいて、移動するのが面倒だからと前期と同じ席にしてしまった私を恨む。恨めども寒いのには変わりない。寒いと眠くなるのは一体何故なのかしら。暖かくても眠くなるものだけど。たまらず欠伸がでてしまう。そして目端の利く懲りない教師が二本目の黒板消しを振りかぶった。

 その時、彼〔せんせい〕の上に鎮座するスピーカーがチャイムでなくハウリングを告げる。緊急校内放送を告げる。顔を洗った公子さんが教室に帰ってきてきょとんとしている。足下にささやかな温もりを得たユッコはさっそく寝入ってしまっている。黒板消しはもう飛んでこない。

 寒くても、眠くても、授業さえ終わってしまえばどうにでもなるもんだ。三時限目の途中で授業は打ち切られた。

 

 ――早く家に帰りましょう、大雪警報が出ています。この雪は明日まで降る予報です。電車が止まる恐れがあります。速やかに下校してください。すべての活動は中止となります。明日は休みとなります。明後日は通常登校となる見込みです。テレビなどの気象情報に注意してください。みなさん速やかに各自安全を心がけて下校してください。

 

 この校舎はとても古い、私のママとそのお母さんもここに通った。私は三代目。制服のデザインも変わらない。

 ――らしい、というのはママのお母さんのそれは、何もかも残っているはずがないものだから。ママのお母さんのお墓参りにこの制服を着て行ったら、ママはぽろぽろ泣いていたっけ。「パパには内緒ね」「自分のは?」「何でそういうこというの」番茶は出鼻を挫かれる、十八はまだまだ遠い。

 

 ママを泣かせたこのセーラー服、当時は知らないけれど、今となってはあまりにダサくて重苦しい紺色の塊だ。でも、ママの涙を見てしまったからには「まあ、これで良かったんだろうな」と思うのだ。この教室とちっちゃな世界はつまらなくて穏やかすぎるけれど、実際にそれで満足できるほどには不満のない日々だったから、いいのだ。明後日は毛布と座布団を持って来ようと思う。

 ジャージを脱いだユッコは勇んでカラオケに行った。名誉のために言っておくと私はハブられたわけでも、羨ましいわけでもない。お断りをしただけだ。

 こんな日に歌ったら、きっと風邪を引いてしまうから。窓側まで冷え切った教室を誰も彼もが後にする。

 

 

 まっすぐ帰ろうと教室から出るまでは思っていた。廊下の窓から見えるゆっくりと落ちていく大粒の雪が見える。天から落ちてくる無数のジンクが画用紙を塗りつぶしてしまう前に、やるべきことがあるような気がした。

 ――そうだ、私は校舎を探検するべきだ。

 そう決めたらむやみと胸が躍った。

 昔からやってみたかったのだ。この古い校舎は増築を繰り返して様々な顔を見せているのに、私はまだ全ての場所に足を踏み入れていない。それはどうしようもなく勿体ないことではないかと、予てより口惜しく思っていたのだ。

 私は男の子のように勇ましい足取りで新校舎へ向かった。

 校舎はとても静かになっていった。廊下のいちばん端にいるにも関わらず、廊下反対側の教室に残っている生徒の話し声が冷気を媒〔なかだち〕にして囁く。誰もいない廊下の床板は寒さに怯え、きいきいと鳴る。ダッフルコートの前ボタンを止めて、フードを被ると、わずかに暖かくなった。校舎の中にいるのにフードまで被っている自分は、とてもおかしい生き物のように思えた。

 新校舎と言われる向こう側の建物。それは全く新しいものではない。ただ、私たちが日々授業を受けている旧校舎よりは二十年ばかり妹分らしかった。ママが通っていた頃はなかったはずだ、ママはその頃の話をしてくれないから、良くはわからない。

 私はすぐ、連絡通路にやってきた。

 今立っている新校舎と旧校舎の間にかかる連絡通路は最近できたものだ。まだ石油の臭いがする床と、もうところどころ黒く汚れた白い壁。球をモチーフにした学校のイメージにおよそミスマッチな前衛デザインの窓は、女子ばかりの学舎〔まなびびや〕においては、さながら異界への門だった。

 ここを通ると不思議な気持ちになる。でもそんな気持ちにさせられるのはこの通路を通っている間だけだ。入口も出口もただの古い校舎。このトンネルを抜けても抜けなくても雪国なのだ。銀色の鋸歯ステンレスと、その間に流し込まれた真っ黒なゴム状の緩衝材が、板で出来た大地とリノリウムで出来た大地の国境になっている。私の足はぴょいと気軽に国境を越えることができる。

 フードを外し、通路中程の窓から別段広くもない中庭を見下ろす。いくつか並んだベンチと初代校長のいかめしい銅像の頭に雪が積もりはじめている。私はしばらくそのさまをぼうっと観察することにした。白くなりゆく窓の外を眺める。丸い窓に寄せた肘がコート越しに冷えていく。冷気が白昼夢にも似た妄想を呼び起す。

 明日になったら――茶色と緑と白がまだらなこの中庭も真っ白になってしまっているんだろうか――とか。――銅像の横にだけ多目に雪が降って雪だるまが完成してみたりはしないだろうか――とか。

 

「何を、見ていらっしゃるの?」

「はっ? ひゃい?」

 

 唐突に、まったく気配なく後ろからお声がかかった。素っ頓狂な声を出してしまった。振り返ると、私の肩より少しばかり高いとこにある肩に色素の薄い髪が広がっていた。

 その薄い髪の持ち主はコートを腕に掛け、セーラーの襟には花を咲かせ、縮こまりもせず凛と立っていらした。

「ごめんなさいね、驚かすつもりではなかったのだけど。見知った顔があったものだから」

 私を知っているらしき口ぶりで話すその方――おそらく先輩はくつくつと笑っていらっしゃった。私は「どちら様でおわしましたかしら」なんて決して口には出さずに、あははと愛想笑いをしながら引き出しの中身をひっくり返す――までもなかった。引き出しを開けてすぐにそれは見つけることができた。

 図書委員会だ。この人は各学期のはじめの委員会だけ顔を出す先輩だ。あと、文化祭の日にも顔を出しに来た覚えがあった。私はその時、なんの気なしにそのことについて尋ねた。すると「ずるくてもいいのよ、最上級生なのだから。それに、受験生なの、わたし」と返ってきた。そして続けて「冬は来るかもしれないわ、寒いから」と言った。その言い方は「冬に来る」のではなく「冬がやがて来る」とでも言いたげな口調でその時の私をほんの少し混乱させた。

 先輩と最後に会ったのは三学期のはじめの委員会。そういえば、三学期になってまで来てくれていた最上級生は、この方だけかもしれなかった。

 ――結局、名前は思い出せなかった。 

「――さん。これから図書室に行ってもだめよ。もう、閉めてしまったもの」

 その先輩は私の名前を呼んで、図書室に行っても本が借りられないことを教えてくれた。図書室に行くつもりはそんなになかったけれど、一応お礼を述べた。私はまだこの先輩の名前を思い出せないものだから「先輩」と呼んでお茶を濁した。先輩はまだ私のことを見ている。

「ね、あなた帰り道同じでしょう、一緒に帰らない?」

 なんだろうこれは、私はいつのまに目を逸らしたら負けてしまうゲームに参加させられているんだろう。否定する理由も見つからない私は、ほんの少しの沈黙をおいて頷いた。そうすれば自然に視線を外すことができるから。

 先輩はきっとそのチャンスを狙っていた。私が視界を先輩の顔から先輩の手に掛けられたコートに移動させようとした時だ。きゅっと私の左手の甲は暖かいものに掴まれた。空いていたわけではない。私の両手は制服の前で革鞄の取っ手を掴んでいたのに、この人は右手の上に軽く乗せてあった私の左手をほどいて、自分のものにしてしまった。

「あら、冷たいのね」

「あ、あの」

「ほら、早くしないと電車が止まってしまうかもしれないわ」

 私は通路から旧校舎へ引き戻された。先輩はそのまま私の手を握ったままだった。暖かい、そして、私の手は冷たい。嫌な気はしなかったけれど妙に気恥ずかしかった。自分の手の力を抜いてみたけれど、やっぱり先輩の右手が朗らかに私の左手を握っていた。

 私はこの羞恥が、体温のように伝わってしまわないことを祈るしかないと悟った。

「はい」

 観念した。

 

「……寒くないですか? コート」

 昇降口まで来てやっと、そう言った。しかも、その前にしばらくの沈黙があった、靴を履き替えたくとも、手が繋がったままでは自分の靴箱にたどり着くこともままならない。なんで、お手々つないで昇降口で二人立ち尽くしているのかわからなかった。

 もしここに至るまで誰かにこの傍目恥ずかしいお遊戯を目撃されてしまっていたら。薬局が閉まる前に毒薬を買って帰らなくてはならないところだった、文房具屋で可愛らしい便せんも買わなくてはいけないだろう。

「逃げない?」

 そう言って先輩は目を見てきた。なんだろう、この人なんかおかしい。おかしい人には逆らわないのが私の生き方。目を三回瞬かせてから、目を逸らさぬように頷いた。

「じゃあ、外して」

 繋がれた手と手が、私の目の高さまで持ち上げられた。

 私は恐れる。この人は「自分は外すつもりはないから、あなたが望むならそうなさい」そうおっしゃっている。全てを見越したように笑っている「せんぱーい。なんの冗談ですかー、はやく外してくださいよー」とでも言えばこの錠前は外れてくれるのだろうか。

 きっとこの錠は簡単に外れるようになっているのだろう。けど、そうしてしまったらとても悲しい思いをするような予感があった。だから、右手に持っていた鞄を足下に置いた。

 先輩の小指に触れる、まっすぐで、すべすべして、先端には角の丸い綺麗な長方形を備えている。なにより暖かい。小指のロックは拍子抜けするくらいするりと外れた。薬指、中指も同じように外していく。順調だ。なあんだ、簡単なことだった。

「もうすぐ、外れてしまうね」

 そこで冷たい声が届く。私の手が止まる。先輩の顔は見えない。私はいつのまにか目をそらしてしまっていた。そんなこと言われたらどうしたらいいのかわからなくなるから、やめて欲しかった。不誠実ねと責められているようで、呼吸が止まってしまいそうだった。

 ――そんなの考えすぎだ、関係ない。

 私はお構いなしを決め、人差し指のロックに触れる。

「あ」

 親指のロックは外すまでもなかった。先輩の人差し指を剥がすと私の意志とは関係なく、地球の大きな力が私の左手をも引き離した。

 もう、繋がってない。

 急激に私の手は冷えていく。

 けれど、私の視界にはさっきまで繋がっていたものが名残惜しそうに残っている。先輩の手が泣いているような気がしてならなかった。

 顔を上げると、先輩は掴むもののなくなった右手をじっと見つめて眼を細め微笑んでいた。泣いてもいないし、怒っているようでもない。なのに私の左手はぶらりと垂れ下がったままで、私の方がいまにも涙を浮かべてしまいそうだ。

「行きましょう」

 先輩はそう言うと踵を返して、三年の下足箱の方へ行ってしまった。私の心臓めがけてウニの形をしたゴムボールがぽろぽろ落ちてくるのがわかる。「なんてかわいそうなことをしてしまったんだろう」そう思っている自分を首を振って追い払った。

 靴を履きかえると、先輩は既に昇降口で待っていた。私はもう手を繋がれたりしないように、両手で鞄をしっかりと持って、先輩のところまで行った。先輩はゆっくり頷くと、校門に向って歩き出す。私はちょっと拍子抜けした。この人はきっとまた「さあ、手をつなぎましょう」くらいのことを言ってくるんじゃないかと危惧していたから。

 私がまだ立ち止まっているのに、先輩は振り返りもしない。すたすた歩いて行ってしまう。

 このまま、もう少し立ち止まっていたら、どうなるだろう。

 追いつけない距離まで離れてしまったら、私が付いていかないという意志を見せたら、先輩はどうするだろうか。決まっている。先輩はそのまま歩調を弱めもせずに歩いて行ってしまうのだ。そんな気がする。ではそうすればいいではないか。余計なことに気を紛らわされなくて済むではないか。でも、そうするわけにはいかないのだ。だって、鞄に添えられた私の左手は、まだ暖かいのだ。だから、私は急ぎ足で先輩の傍まで駆けていった。今度は先輩の左側に添えられた私は、左手で鞄を持った。

 手は繋がれなかった。ほんの少し考えればわかることだった。外は雪が降っているのだから。先輩は校門手前、クラス指定のアンブレラロッカーから成人男性用とおぼしき大きな傘を持ってくる。それは先輩には似つかわしくない無骨さに思えた。

「傘、忘れたの?」

 先輩と私の間には、冷たい風と二年分の距離がある。その距離を飛び越えて、先輩が私に声をかけている。

「え、あ――」

 ある。降雪確率七十%の今日、傘を持ってきていないなんてことはない。鞄の中にちいさく頼りない折り畳み傘だって備えてはある。

 でも、先輩の提案には余裕が見受けられた。なるほど、もしかしたら私が「傘、ないんです」と申告したら、あの無骨な傘の庇護を受けられるのだろうか。それとも、他の置き傘を「はい、ちゃんと返すのよ」と渡されてしまうのだろうか――。

 そんな打算の欠片をまとめようとして、顔を上げたら先輩の顔がどうしようもなく近くにあった。私が目をそらしている間も、ずっと見られていたに違いなかった。

「――あ、ありますよっ」

 私はそこで考えるのをやめてしまう。私は自分のクラスの傘置きまで走り、帰ってくる両手には、中一の時に買ったお気に入りのいまや子供じみた傘を掴んで、先輩に揚々と突きだしていた。

「そう」

 先輩は頷いて、風の吹き付ける方にその傘の先端を向ける。留め具を外して、くるっとまわす。めずらしくワンタッチでない先輩の傘は主骨が木製のようだった。黒い花が広がって先輩を包む。それは女子が入るにはとても大きな傘だった。

「もう一人、入れそうよ」

 三歩進んで雪の中。先輩はまだ傘を前につきだしたままの私にそう言って、いたずらっぽく笑う。私は開きかけの傘を閉じて、二秒間だけ雪を感じた。

 

 

「あ、あの、先輩のお名前って?」

 あれから全く会話はなかった。私はその静寂に耐えられずにふと浮かんだ疑問を投げる。そのまったくもって失礼な質問は、失礼ついでに「お名前お伺いしてもよろしいですか?」が省略された。わざと。でも、先輩が委員会で何て呼ばれてたかなんて覚えていないのだ。

 だから、先輩が私の名前を覚えていたのはとても不思議なことのように感じられた。

「――山田、花子」

 特に表情も変えず、こちらを見るわけでもなく、繋いだ手の力を強めたり緩めたりすることもなく、先輩は平然と答えた。

 からかわれた。私はそう思った。真面目に相手にされていないことに対して憤るべきか迷った。私は口をとがらせて「ペンネームかなにかですか?」と聞いてやる。なんて嫌な女だろう。でも、自分から一緒に帰ろうと誘ったのは先輩なのだ。だから、この扱いはなんだかわざと私を不愉快に、そして不安にさせるよう仕向けているような気がしたのだ。

「本当ですよ」

 繋いだままの左手を、私の右手ごと顔の傍まで持ってくる。そして、わずかに膨らましてあった頬のふくらみを中指で突いて、そんなことを言う。私の左手はふたつの鞄を持っているから抵抗なんか出来ない。それでも先輩の鞄は紙のように軽くて、負担ではなかった。

 会話はまた途切れる。でも、手は繋がれたままだった。

 そのまま駅に着いた。いつのまにか手が解かれて。黒い傘から白が落ちて、灰色に変わる。私は壁に掛けられたホックのように無機質に、先輩の鞄をぶら下げている。

「ありがとう」

「えっ、あ、私も、ありがとうございます。え」

「――じっとして」

 鞄を渡すつもりだったのに。

 先輩の手は鞄を受け取らず、私のコートのポケットにノックもせず忍び込んできた。その指はグリーンのパスケースを取り出す。その中には、私の電子定期が入っている。

「借りるわね」

「えっ!」

 言うがはやいが先輩は、私の定期で改札を通ってしまった。

「困りますよう」

 私は両手を制鞄にふさがれたまま、改札に駆け寄り、止まれマークの付いた鉄柵越しに声を乱す。難しい顔をした駅員が、私たちを一瞥してまた作業に戻って行く。

 先輩は黙って柵越しに、なにか指さしている。鞄がある。

「それ、使いなさい」

「え」

「定期」

 先輩の指がくるくる回っている。私は自分の鞄を腋に抱えて、先輩の鞄を裏返す。ポケットの中を覗くと、パスケースに入れられぬまま裸のままの電子定期があった。

「――じゃあ、使います」

 なんだか釈然としないけれど、本人の前だし、自分も勝手に使われたのだ。私は先輩のパスで、改札を抜ける。先輩のパスは裸のまま使い続けていたためか、印刷がひどく剥げていた。ふと、名前に目が行く。いや、私は意図的にその名前の部分を見たし、きっと先輩はこれを見せたかったのかもしれない。そんな風に思えたのだ。

「はい、ありがとう」

 改札を抜けて、先輩にパスと鞄を返す。

 積雪と遅延。まもなく来る電車のアナウンス。電光掲示板にいつも映っている次の電車か来る時間は空欄を示している。冷たそうな人々、冷たそうな学生、冷たそうな線路。スピーカーから冷たい声がする。電車がタイミング良くやってくる。先輩も一緒の方向だった。

 

 電車はいつもよりも混んでいた、加えて過剰な暖房で空気が悪かった。先輩は私の先に立ち、男性用の傘をモーゼの杖にして優先席の連結部分よりの方へすいすい進んでいく。そこにひとつ空席があった。こんなにも混んでいるのに、何故かたまたま席が空いていたようだった。

「ねえ、お座りになったら?」

「え?」

「ほら、先輩の言うこと聞きなさいな」

 先輩に背中から肩を掴まれ、私の体はこの狭い空間の中なにものにもぶつかることなく優雅に半回転。先輩の顔が一瞬至近にあったけれど、すぐに遠くなる。肩にぬっとかかったゆるい力が私を席に座らせた。

 座るときに乱れてしまったスカートの所在を直し、膝の上に鞄を置く先輩の傘を預かって手すりに架ける。座席が暖かい。

 先輩は私を座らせて満足したようだった。先輩は自分の鞄を網棚の上に置いてしまうと、両手をつり革に通して上半身を私の顔に近づけてきた。その傍目にもけして優雅ではない体勢は、よく他校の色のついたシャツをワイシャツの下に纏った男子生徒なんかがやっているものに似ていた。

 決して女子が、さっきまであんなに優雅だった先輩がやっていいような格好ではない。隣に座っているおばさんが、まさに眉を顰めている。 

 そして先輩は、駅までの道で少なかった口数を嘘にするかのように、饒舌に話をはじめた。あたりまえのように受験の話ではじまったそれは、部活の話と軽い恋の話を経て家族の話になった。そのころには私の降りるべき駅が、近づいていた。

「――そうなの。あなた、お母さまもここなの」

「そうです。祖母も」

「あら、すごいじゃない、三代も続いて同じ学校だなんて。よっぽどこの学校が好きなのね。二代ってのはよくいるけれど」

「誰かそういった方、ご存じなんですか?」

 話の流れだった。先輩は銃を撃つかのような人差し指のジェスチュアで先輩自身を指した。先輩、指で人をさしちゃいけないんですよ。

「え、――?」

「――――」

 先輩が人の名前を口にした。そしてドアが開いた。私は降りなければならなかった。だって、自分の降りる駅なのだ。しかし、足がすくんでいた。こんなに暖かい座席に座っていたのに、背筋が凍り付いて動かなかった。考え過ぎか、誤解だと思ったけれど、聞きなおすのは無理なことだった。ホームで列車の到着を知らせるメロディが鳴っている。とっくにこの駅で降りる人は降り、乗るべき人は乗ってしまった。私は早く降りなくてはならない。でも――「まもなくドア閉まります」

 その駅員のコールと、けたたましく響くベルの中で先輩が口を動かしている。その凛としているけれど細い声は、私の鼓膜にたどり着かず騒音にまぎれてしまう。薄いグロスを纏って強がる唇は「冗談よ」と動いたように、見えた。呪縛が解ける。

「すいません!」

 私はしかめっ面たちをかき分けてホームを目指し、たどり着く。背中でドアが閉まる。駅員が憮然とした目で私を一瞥した。列車を振り返っても先輩の顔は見えなかった。降り際に先輩が口にしたその人名は、私のママの名前に他ならない。調べればわかることには違いない、それに「冗談」だと確かに言った。それでも、寒さは残っていた。気味が悪かった。そう唇を動かした先輩の目は決して笑ってはいなかったから。先輩を乗せた電車はバックライトを雪に乱反射させて、次の駅へと去っていく。残されたホームで私の体が冷えていく。

 

 雪が本降りになっていた。ロータリーを数珠のように囲み繋がったタクシーに、雪の層が積もりはじめている。緑や黄色のペンキ色に塗された白い雪のコントラストは、センスのわるいケーキのように見える。あのクリームはきっとおいしくなんかない。きれいな砂糖を泥に変えながら先頭の一両が走っていく。まだ早い時間なのに、もう夜がはじまってしまったみたいだった。

 

 私は冷たいぬかるみで革靴を汚しながら、やっとのことで家につく。今日は私を迎える声のない、私にとってかわいそうな日だ。手袋を取って、鞄から鍵を漁る。感覚のない指に金属が触れて金属音がしてもきっとおかしくないくらい。どうしてこんなに疲れているのかわからない。小学校の遠足で山登りした時の次くらいに疲れてしまっている。

 重いドアが手を洗うのもうがいをするのも、スカーフを外すのだって億劫だ。冷たすぎて呼吸が苦しい。このまま玄関で呼吸を止めてしまいたいくらいだった。私は重い身体を引き摺って洗面所まで足を運ぶ。水道から流れる水に手を当てる、冷たくも感じない。

 

 私の手は、とっくに冷たい。

 

        

        ――スノウズ・オフ――

 

 先輩とはその後、接点はなかった。やがて来た卒業式で壇上に呼ばれた先輩の名字は「山田」ではなかった。

 私がどこかで期待していたようなこと――例えば式の前に体育館裏に呼び出されたり、壇上から在校生に礼をする際に目が合ったり、靴箱に真相を告げた手紙が入っていたり――ということは全くなかった。

 そのまま、先輩は私の世界から消えてしまった。私も追いかけたり、さがしたりすることを全く思いつきはしなかったのだ。

 

 そして、また雪の日が来た。

 

 顔も知らない親戚が死んだ。 

 顔も名前も一致しない親戚の群れは「今年は受験だったかい」「カレシはおるのか」「覚えてないかい、豆粒のようにちいさかったわい」と口々に聞きちらかしてくる。毎年のことなのに、私はむやみにイライラしていた。

 私は長い電車の旅による疲れを口実に庭へと逃げた。庭には蔵がある。私はフラフラと蔵へ導かれていく。身内なのだから、見つかったって叱られはしないだろう。

 蔵と言っても、私の目には改造された二世帯住宅の離れにしか見えない。けれど、それはもともと確かに蔵だった。今日の用意のためか、開け放たれたままでいた。

 中はこざっぱりと整理され、樟脳と埃の臭いが充満していた。辺りにはダンボールなどの箱をはじめ、年季の入った本の類が堆く積まれていた。

 この中から私の暇を潰せそうな面白いものを探すのはなかなか難儀な予感がした。辺りを見回し、足のいっぱいある虫の三匹目が出現したあたりでそろそろ諦めて母屋に帰ろうかと思った時だ。私はその箱を見つけ、箱は私を確かに呼んだ。横のラベルがマジック太字でママの名前を主張していた。 

 箱の中はより強く樟脳の臭いに満ちていた。もはや構造を砕かれてしまったかつてのパラフィン紙が、私の指の水分を吸い取り損ねて崩れていく。センスのかなり古い洋服が箱いっぱいに詰まっていた。それらを、一着ずつめくっていくと、見覚えのある紺色が目に入った。 

 私はそれをずるずると引き摺り出す。それの一つ上に他のと同じようにたたまれている着物の形が崩れていってしまうけど、お構いなしだ。それとは関係なしに、途中で手が止まった。膝の上に小さな蜘蛛が這い上がってきていた。私はその蜘蛛をつまんで、横に除けてやる。今箱を開けている間に小さな虫が入ってしまったら、その虫たちは中で服を食べながら繁殖してしまうのかしら。そんなことを考えながら手を突っ込み、続きを――お目当てのそれを引きずり出す。なんだ、ちゃんと制服取ってあったんじゃない。

 

 取り出せた。しかしそれは同時にどろりとした後悔じみたものまでくっついてきた。手にした途端に脇腹の筋肉が引きつけを起こす。悪い予感。「この先に入ってはいけません」と赤いペンキを血のように垂らし禍々しさを演出された看板のイメージだ。すぐに畳んで戻すべきなのだ。何も見ないことにして、蔵なんか入ってない何食わぬ顔で戻るべきなのだ。だって、私が今手にしているそれは、自分のそれと同じようでいて、確たる違いが、広げる前にしっかとわかってしまうのだ。

 それでも、好奇心旺盛な私の手は、袖をすべらせてしまう。かろうじて引っかかっていたドアのストッパーが外れて――。

 ――広がる。

 背中の皮膚、その内側に細かい虫がいっぱい産まれた。それは一斉に頭の方に、酒に浮かされたかのように上ってきて、それぞれが頸や頬の辺りで止まり、痺れを残して蒸発していく。

「――っ!」

 声にならない嗚咽が漏れた。なんだこれ。そんな言葉さえ言葉に出来ないくらい一瞬で精神が摩耗する。顔の全体を蔽っていた痺れが、熱にかたちを変えて蒸発していく。自分が今まさに纏っているものと殆ど同じ、二十数年ほど昔に纏われていたというだけのその制服には、深海に似た紺の地にあきらかに明るすぎる空色の糸が多足の虫のようにそこらじゅうに這っていた。夜の海に夜光塗料を零した如きだ。その制服は滑らかであるべきその肌を、無数の鉤裂きの痕で蹂躙されているのだ。

 頭全体を茹で上げるような熱が去ると、私はどうしようもない寒気を感じた。持ってきた懐炉を握って両手をあたため、腋の下に挟んだ。

 血が暖まって、いつのまにか歪んでいたらしい視界が正しいものへと戻っていく。気がつくと、私はそのかわいそうな制服をくしゃくしゃに抱いて柱の傍にへたり込んでいた。一本鉤裂きがあったくらいなら、そう言うこともあると思う。二本あったらママもずいぶんドジだったのね。で済もうというものだ。

 だがしかし、これはなんだ。

 なんなのですかこれは、ママ。

 紺色をしたフェルト地のカンバスには襟の裏までびっしりと、空色の蟲が蠢いている。妙ではないか。理由はどうあれ、ここまで無残に裂かれたものを、いくら物持ちの良いことが美徳の時代だったとて、わざわざ繕うものなのだろうか。あまりにも地と糸の色が合っていないのは、何かの呪いをも疑えるいびつさではないか。そもそも、ママの制服は、どうしてこんな無残なことになってしまっていたのか。顔と手が冷たく乾いていく。私は今どれくらい顔を引き攣らせているんだろう。その先を想像したくなんかない。自分の通う、あのつまらないけれど穏やかな校舎の中で、かつてそんな薄汚いことが行われていたことなど、知りたくもない!

 深呼吸をした。

 よく見るとデザインは今のそれと同じではなかった。襟の線はもっと細くてフラフラしてるし、ラインもゆったりとしている、なにより生地が重い。襟に差す線の脇に、花の刺繍がされている。今現在二年生である私の襟には枝と葉っぱだけが機械で刺繍されている。一年生は枝だけだ。三年生になるとそれに加えて花を刺繍する慣わしだ。昔――といってもわりと最近まで、この刺繍はこの制服がそうであるように生徒が手で行っていたそうだ。いつのまにか「自分の手で刺繍する」生徒はいなくなってしまった。今では売店でアイロン密着型のワッペンが売っているし、出入り業者にたのめばキレイに機械刺繍したものが出てくる。物持ちの良い――この学舎で身体の成長穏やかであった上級生の襟には、枝が太かったり三重にブレた桔梗が咲いているのだ。

 ばさり。

 肩を持って勢いよく広げる。自分の身体にかわいそうなそれをあててみる。風で巻き上がった埃の臭いにまた噎せる。なんだ、小さい。とても小さい。ああ、ママはこんなに小さい身体で。あの冷たい校舎のどこかでこれを着てちょこんと座っていたのだろうか。それで、こんなかわいそうなことになってしまったのだろうか。暗い狭い蔵の中で私はくるり、制服を羽に見立てて踊るように一回転――。

 

 ――嘘をつけ。

 

 喜びの舞踊を中断する。おかしい、ママは長身痩躯だ。私が脚立を使ってどうにか届く冷蔵庫の上に、背伸びもせずに背が届く便利バデーをお持ちだ。そりゃ今後成長はするだろうけど、まだまだ成長する余地のある私のサイズに比して、花の咲いた襟持つこの制服のサイズの方が明らかに小さいって何の冗談だ。これは本当に、ママの制服なのか?

 仮説をひとつ。母さん高校に入ってニョキニョキ急成長。きっと一番無理のない推理かもしれない。しかし、代わりに骨がバキバキ言ったろうに、昔話の好きなママがそんな面白い話をしないはずがない。

 では仮説をもうひとつ、ママのお母さんのそれが実は失われてなかったとしたら? 説得力がある推理だねワトソンくん。私は脳内ホームズになってワトソンに言い放つ。そこまで年月を経たものにしては、一緒に入っていた服は明らかにママが若い時のそれだし、この制服だって無数の鈎傷が痛々しいけれど、半世紀を経たものには見えないだろう?

 ワトソンが反論する。そうだ、ならば刺繍を見てみればいい。なんだいワトソンくん、刺繍って、花の刺繍のことかい? ちがうよホームズちゃん。もしかして知らなかったの? 袖の内側に金刺繍されたイニシャルのことを!

「――ああ、なんだって、本当かい?」

 本当は知っている、脳内ワトソンに言われるまでもなく。ちょっと忘れていただけだ。私の袖に入っているイニシャルは「A・M」だ。ママのそれは見たことはないけど「S・S」のはずだ。ママのお母さんはなんだっけ……あれ、なんだっけ、そうだ「おフユさん」だ。そこで私は愕然とする。私はママのお母さんの名字を知らない。すると刺繍されているのは「F・なんとか」なのだろうか――。

 

 袖をめくった。

 

 そこにあったのは「H・Y」だ。

 混乱した。空気を吸おうとしたけれど、喉の奥がべと付いていてうまく呼吸できなかった。私は噎せながらポケットの中をまさぐって、見つけたグレープフルーツ味の飴を口に放り入れた。少しずつ糖分が回って行くのがわかる。見た瞬間に思いついたイニシャルの主は「山田花子」だった。

 落ち着け。胸に手を当てる。「山田花子」って誰ですか、私は記憶の引き出しに手を掛ける。いいのよ、わかっているんでしょう、そんなことしなくったって覚えているんでしょう? そうだ「山田花子」はあの一年前の雪の日に出会ったあの先輩の自称だ。だから何? イニシャルがそれと同じなのが偶然でないとしたら? あの日まで、そしてあの後も特別な接点などなかったあの先輩が、私に接近して親の話をしたことに、意味が? 人の行動にはどこまで意味が? なんだか、鼻がむずむずしてくる。こめかみと耳の下がずきずきと痛んでくる。

 

「――くしゅん。へくち。へぶしゅっ!」

 

 

 くしゃみが三回でたので、あわれな制服を箱の中に積み上がった衣服の上から三番目に、隠すように戻して、できるだけ元通りになるように箱を閉めた。

 母屋に帰ると、青ざめた顔を心配された。熱があった。完璧に風邪を引いた私は、しばらく学校を休んだ。

 

 冬が終わる前に、やっておこうと思った。

 私は図書室の端で息を潜めながら、卒業アルバムのどこかにいるかもしれない「山田花子」を捜している。冬子さん〔ママ〕はすぐに見つかった。やっぱり背が高くて、緊張した風でもなく、この世の全てが敵だと言わんばかりのテロリストみたいな目をして映っていた。

 

 そこで思いもよらぬ邪魔が入った。住所などの個人情報が入った昔のアルバムはちゃんと管理しないといけない、目的をはっきりさせないといけない、先生にはそれを管理する義務が有って、だから一度に閲覧できるのは一冊までなんだ。理由があるなら、それを話して御覧。と言う。

 その老教師は明らかに去年よりも髪の色が不自然に黒く膨張していた。私は、予め用意しておいた必要性についての気の利いた言い訳を、そこに埋めてしまった。

 

 私は、諦めさせられたのかも知れないし、何かを察したのかもしれない。集合写真に残ったママの目はあまりにも獰猛で、この黴の臭いのするアルバムを見つけた全員に警告しているようにも見えた。

 ――これ以上踏み込むなかれ。

 その視線に私は怯えた。怖れた。そう思うことにした。「姉さんも昔はおっかなかったからなあ」と焼酎のストレートをあおりながらこぼした、叔父さんの声が思い浮かんだ。

 

 もし、私にもう少しだけ探求心があったら。もう少しだけ頭が回ったら。その年の周辺の入学者名簿をも調べていたんだと思う。そうすれば私は、小柄で、でも芯の通った目を隠さない「山田花子」を見つけることが出来ていたかもしれない。

 卒業できずに失われてしまった、自分と年の変わらぬ少女の残滓を知ることが出来ていたのかも、しれない。

  

 でも、それを知ることに意味なんてない。かわいそうな過去があったとしても、美しい過去があったとしても、私はそれを知ろうとは思わない。

 あの時電車を降りてしまった去年の私を、私は責めたりしたくない。だから、捨てられなかったあのかわいそうな制服はきっと、私に見つけられただけで充分なのだ。私は先輩と手を繋いだ。それでいいじゃないか。

 

 

 たぶん、この冬のどこかで。

 先輩と手を繋いでる。

 

 私の手は、暖かくなんかない。

 

          <パーペチュアル・テンペラチュア 了>