トランスパラント・フットプリント

ちはやブルーフィルム倉庫

アイシクル・サイクル

       アイシクル・サイクル

 

 石井孝親〔いしいたかちか〕の火曜と木曜と土曜の朝は早い。

 

 どれくらい早いかというと五時には起きている。そんな時間だとお袋も相手にするのがバカバカしいとばかりに昨日の夜の内に弁当の準備をしておいてくれている。孝親は朝起きてそれを弁当箱へとぐうぐうに圧縮していく。手に持った時に異常な質量を感じたら完成の合図。米が入っているとは思えないほどのずっしりとした一段目。野菜を無視し、タンパク質で構成された二段目。寄り弁の事など知らぬとばかりの重量兵器をスクールバッグの一番下に置き、二度と帰らぬ覚悟で玄関の戸を後ろ手に閉めるのが五時半。

 ガレージで幅を利かせる親父の愛車にもたれかかった銀色のチャリを起こす。ハンドルが叩きつけた丸い痕がくっきりと付いてしまっていた。「ヤっベ」と悪態吐いてマフラーで拭うと、それは簡単に消えた。ほっと胸をなで下ろす。

 孝親は見た目より重量を帯びたスクールバッグを前かごへ縦に放り込む。もちろん弁当箱が一番重いので天地を間違えないように。それと別に背負っていた道着も後部荷台に帯でひっかけた。前かごからにょっきりと生えたスクールバッグに視界をごそっともっていかれる。

 まだ冬には早い、秋には既に遅い木曜の朝。ガレージのコンクリ壁とステージを一緒に蹴っ飛ばして、今日も前に進んでいく。

 孝親はペダルに六十二キロの半分とちょっとを食い込ませる。きいと車体が悲鳴を上げる。「おら、キアイいれろうや」と主将の真似して気炎を吐いてみせる。車輪はゆっくりと慣性のリズムを捉えはじめた。

「――? 重ッ!」

 孝親は重すぎるペダルの原因に思い当たって、右足で前輪の泥よけ近辺を蹴ッ飛ばす。昨夜帰ってきてから前輪に噛みつきっ放しだったダイナモはしぶしぶ交流発電をやめた。

 孝親と自転車が、凍り付く前のアスファルトを滑っていく。

 

 街に出てもまだ登校の旅は終わらない。石井家から高校までは笑えるほど遠い。駅に行くのは遠回りになる上、うまいルートの電車は走っていない。かといって、朝練に間に合う直通のバスもない。

 地図上では近く見えても実際に通ってみると、どうしようもなく不便な道程だった。

 それでも、晴れてさえいればやってやれる。雨が降っても夏は傘をさして走らせる。帰りまでに服が乾かず、道着も濡れて部活もできず散々なことになった。だから、雨の日はふてくされながらカビ臭い口臭に充ちたバスに乗る。

 だが、こんな晴れの日。空が透き通っていなくても、吐く息が白くても、ハンドルを握る手が赤くなっていっても、かじかんで痺れても全くお構いなしなのだ。

 白い軽トラックに追い抜かれながら、銀色の自転車が田舎道を駆けていく。やがて町にさしかかる。この時間に開いているのは豆腐屋くらいのものだけれど。

「――ッ!?」

 左手ブレーキをかける余裕はなかった。強ばった両手に無理な指令を発して一気にぐー。前輪の胴体を握りしめる。前輪が孝親にグリスをよこせとばかりの甲高い悲鳴を上げたけれど、無生物の機嫌をとってやる余裕などないし、悲鳴なら孝親の随意筋がATPと一緒に垂れ流している。

 一拍おいて孝親は叫ぶ。

「ぶっっねえええッッ!!」

 なんたって、人がいた。

「あ」

 危うくひどい速力で突っ込むところだった。握りしめた両手には、さっき板挟みになった自転車からの腹いせが返ってくる。慣性とか名前がついたリキガクの化け物は日々鍛えた両手でも吸収しきる事は出来ず、ハンドルの真ん中に孝親の胴体は落ちていく。さっきようやく嚥下した握り飯が出てきそうになった。

 喉と脳に力を入れて、汚れた滝を誘致しようとする衝動をどうにか押しとどめた。代わりに声をあげた。人を轢かないで済んで良かったことと、握り飯だったものを粗相しないで良かったという二つの安堵。それに加えて、いきなり飛び出してきたその人物に対する怒りだった。

「~~っざっけんなよ!」

 母親が顔をしかめそうな腐れ文句がついて出る。グリップを握って更に赤く鳴った右手が、短く刈り込まれた頭に潜り込んだ。短い頭髪が寝ぼけかけていた掌に痒みにも似た刺激を与えている。

 そのあたりで孝親は衝突しかけたその人物が女だったと気づいた。彼女が着ていたのは派手なコート。そして、その下はオーソドックスなデザインのセーラー服だった。

 カラーは紺や臙脂〔えんじ〕ではなく、明るい夏の空の色。それはこの灰色の空とつめたい空気には似つかわしくない夏服に思えた。

 そんな制服の学校がここらにあったのか孝親は知らない。女子校ならお手上げだ。なんといっても興味がないからだ。

「――?」

 女はようやく、他人事のように孝親を見た。

 女は轢かれかけたことなんか知らないといわんばかりの態度でいた。のぼせたような顔で孝親を見上げていた。「あ」のあとになにか発しもしない。だから、その「あ」が本当に彼女が吐いたものかすらも定かでなかった。

 女は――孝親にはよくわからなかった。自転車の上から敵意をむき出しにして見ている孝親を煙たがるわけでもないし、鼻の頭を赤くしている割に寒そうにするでもなかった。

「なぁ?」

 孝親は焦れていた。これがオッサンだったらとっくに悪態か舌打ちを残して、自転車を走らせているところだ。

 けれど、そこにいるのは制服を纏った女子だったから、自分の都合を優先させてしまうのは後ろ暗いような、そんな気がした。まだ孝親の腹はハンドルの真ん中に乗っかっていて、右足はペダルをくるくる弄んでいる。

「――ケガ、ねぇか?」

 なにもぶつかっったわけでもないのに、女に甘すぎるんじゃないかって孝親は自分で思っている。譲ったあげくこうして声まで掛けてやるのだから。

 それでも女は返事をしない。ただ黙って孝親を見上げている。冬の風が首筋に差し込まれて、冷め始めた背中に鳥肌が立った。

 寒さは刃物と同様に毒となる。寒さは寒気になる。それは道場に満たされた緊張の一部である冷気とは別物で、健全ならざる恐怖を呼んでくる。

 孝親はこの寒気が苦手だった。

 すなわち、目の前にいる女は女学生らしきものに見えはするが、その実、人ならぬモノではあるまいか、と言う恐怖。

 そんな馬鹿な。そうだ。こんなものは妄想に違いないんだ。ただ何もしゃべらないのが、それでいて孝親に興味を持っているらしいそぶりをしているのが気色悪い。

 孝親は何も言わずにその場から逃げ出したくなった。だめだ、無言で去るのは負けではないか。しかし、唖〔おし〕と会話は出来やしない。日本語を解せぬガイジンとだってゴメンだ。

 勝負なんかどこでも始まっていない筈なのだけれど、孝親はこの勝負を引き分けにしてしまいたかった。だから、ぶっきらぼうに言葉を投げて、ペダルを踏み抜くつもりだった。どうせ、どんな言葉も返ってきやしないと思ったから。これは敗北ではなく転進と言い聞かせ、片手をあげて沈黙を殺す。

「――じゃ、行くわ」

 それで、痛み分けになるはずだった。

 

「――あ、待ってよ、きみ」

 

 ――まさか、呼び止められるとは。

 部活の活動開始時刻も迫っていた。女の声は透徹な冬の朝の空気の中にも関わらず濁って薄まって弱ってどうにか届いた程度のものだった。

 だから孝親はそれを聞こえないフリをして、ペダルを踏み込んでしまったって良かったんだ。

「……なんだよ」

 しかし孝親はそうしなかった。ペダルから欠けたモザイクタイルの上に片足を下ろして、彼女の声を聞くことにした。

 ――けれど、続いた言葉に孝親はひどく後悔した。

「ね、乗せてってーェ」

「……はァ?」

 コートを纏った季節外れの夏服は孝親にぴょんとその場で跳ねて見せた。両手を後ろで組んで、首を縮こまらせながら傾げるポーズ。コートから手を少しだけ出してみせている。明らかな猫なで声。甘えを含んだ鼻にかかったボイス。鳥肌ひとつも立てずに胸元を見せつける妖女。

 孝親は知っている。

 こういうのをキモいというのだ。

 

 寒気の代わりに、怖気が襲ってきた。

 ついでに、後悔も。

 

 ◇

 

 あれから、またほんのすこし冬が深くなっていた。

 あの日の交差点にはまた、あの女がいた。

「なんでよ、この前は乗せてくれたじゃん」

「……ありゃ、気まぐれ」

 孝親は掛け値無しに後悔している。

 そうだ、あの日止まるべきじゃなかった。あの日だってあれだけ自転車を重くしたじゃないか。荷台の女が言うまま、ひっちゃきになってペダル漕いで、結局感謝の言葉ひとつもらえなかったじゃないか。

 ――と言っても孝親は感謝の言葉とかそんなつまんねーものは欲しがらない男だ。けれど、あればあったで嬉しかないはずないのだ。

 それでなければ結局部長のクンジに間に合わず、セイサイまでもらったのが割に合いやしない。両足はガクガクで三回目のセイサイに耐えられなかった。それを理由に四回目のセイサイが降ってきた。

 もちろん孝親は、最後まで口を割らなかった。

 

「えー、だって。今日は待ってたのに、きみのことさあ!」

「待ったのかよ、急いでんなら歩きゃいい!」

 そうだいいぞ孝親、こんな怪しげな女は置いていけ。なにっしろ重くて仕方ねえし、時間は遅れるしでいいことなんかひとつだってありゃあしなかったじゃねーか。今度は部長だって手加減なんかしてくれやしねえぞ。

「三分待ったもーん。ほら、男子なら乗せてけ!」

「……なんだ、そりゃ。あ、おい」

 彼女はこのまえとは違う服だった。ちゃんと冬服を着ていた。と言っても、夏のそれとはずいぶん違う服のように見えた。その代わりとばかりに荷物を持っていた。そういえばこの前は手ぶらだったっけ、なんて孝親は思い出していた。

「へへ、ほらしゅっぱーつ。ほらほら、昨日とおなじとこまででいいからさーあ。なんだっけ? 水泳だっけ? そのれんしゅーめにゅーだと思ってさぁ!」

「……蹴っとばすぞ。水泳じゃねーし」

 孝親も、精一杯ドスを利かせたつもりだった。

「へっへー、むりじゃね? ほらきみ、ブシっぽいしさ」

 女は平然と言いはなって、リアキャリアのしっぽを掴む。

「……あ、おい!」

「駅までお願いッ! ね、このとおりだから」

「――ハァ? 俺急いでるんだけど」

 ――そんなこと言って、きみならよゆーっしょ? そんな軽口を叩いて、後ろの荷台にくくりつけた孝親の胴着の上に女はふわりと腰を下ろした。傾いたチャリに人ひとり分の重力が加わる。削れた細いタイヤの摩擦力はそれらすべてを繋ぎ止められるほどには若くなくて、孝親の腕にその分の負担がのしかかってきた。

「わっ」

「わあっ、なに。根性出せーおっとこのこー。わっしょ!」

「なに……勝手にッ!」

 腰を入れて自転車を起こす。女は一瞬地面に足をつけたけれど、それは孝親を気遣ってのものでも、自分の傍若無人さを悔やんだがゆえの気遣いでもなかった。最初揃えられていた女の足の片方は、いつの間にか向こう側にあった。女の足ははしたなく開き、荷台を挟んでいる。

 もう、降りる気なんてないからね。と主張していた。

「ね、早くゥ」

「重い。降りろよ」

「ええー、ヤダ、ケっチぃ。もう乗っちゃったんだし。最後まで責任もってよねえ」

「なんだよ、それ」

 憎まれ口を叩きながらも、孝親はすでに折れていた。いつもなら後ろから向こう側に通す足を、サドルとハンドルの間を通して送り、チャリにまたがった。

「へへっ」

 わかってましたよ。と、背中で女が笑っている。忌々しい。

「時間、あんまねーんだけど」

「そうなんだ、じゃあ急がなきゃね!」

「~~ッ!」

 孝親がしたたかに踏みつけたペダルはこの前よりも重かった。女の抱えた荷物の分と、乗らない気分のせいだと思った。こいつはハードだ。一度目のナイーブな踏み込みでは、返ってくる反作用に膝が先にやられて、慣性を得る前に自転車はつんのめってしまう。

「わっ! もー、ちゃんとやってよねー! 倒れる! ほーら倒れるぞー! へったくそー!」

 女は自分勝手に、しかも笑いながらなにをか言って、孝親の腰に手を回してきた。

「ひゃわ」

「ん、なに? 今のなーにー?」

「ンっでもねええよ!」

 声を出したのはくすぐったかったからだ、明らかに冷たいものが腹の周りの熱を奪っていく。骨ばったもの、レンジを入れる前の昨日の鶏肉。それに似た何かが巻き付く。

 すると背中までも冷たくなって、しばらくすると温もりが伝わってくる。その冷たさに急かされ、孝親はもう一度勢いよく踏み込んだ。

「おおっ。やるじゃん! 本気出せー! きみの本気をみせてみろー! いけいけー!」

「せッ! はなしッ、かけん、なっ!」

「駅までね!」

 そのやりとりは、なぜか心地よかった。

 

 根性で間に合った道場で着た胴着は、いつもより少し生温い。

 

            ◇

 

 彼女からは強い洗剤の臭いがすることを、意識し始めた頃。

 クラスが赤と緑と長い休みに浮かれようとしていた頃。

 

 その日、孝親は十五分早く家を出た。胴着の折り方を平らにしてリアキャリアにさりげなく広げておくのがうまくなったと思う。

 いつもの交差点で彼女を待った。数分して彼女はひょっこり現れた。

「あれ、待った?」

 驚いた、というよりは意外そうな顔で。

「……いや、そんなわけないし。大会近いし、俺だって朝練早くてメーワクしてんだし。なんとなく」

 ――火曜日はどこを見回しても彼女はいなかった。土曜日もだった。交差点で遅刻寸前まで粘っても、彼女はいなかった。

「ほーら、乗せてけよ色男。クリスマスだぞ! あたしにプレゼントくれー! よっこせよー!」

「ねーよ! 俺にくれよ!」

 何度目かの逢瀬だった。冬服になってもツクリっぽい制服のその女は、孝親を見つけると駆け寄ってきて無遠慮な尻を胴着の上にのっけて腕でベルトをしてくる。

 その時に孝親は毎度悪態を吐く〔つく〕ことにしていた。そうしなければ自分の矜恃が保てないような、そんな気がしたから。

 しかし、走り始めてしまえば二人乗りもそう苦ではなかった。たしかに止まりにくく曲がりにくいけれど。

「……おまえさぁ」

「――なーにィ?」

 風が強かった。孝親は流石に観念してコートを出した。お陰で、腹に回った腕の感触がずいぶん軽くなってしまった。

 ちらりと後部を見やると、スカートから生えた二本の生大根が車体をカニばさみしていた。いつものように。

 冬の女子は、タイツとか、なんかそういうもの履くんだと思っていた。

「寒くねえの? 足とか」

 声が大きくなる。殆ど前を向いたままだから、これでも彼女に届くかどうかはわからない。

「んー、寒いけど寒くないよ」

「わっ、なんだ。よせ」

 耳元で声をかけられた。湿った呼気が凍えた耳を驚かし、孝親のハンドル操作を惑わせる。

「きみ、暖かいしさ。カイロみたい」

「それ、よせよ。こそばいわ」

「でもさ、こうしないと叫ばなきゃ聞こえないでしょ。なあにー、それともはずかっしーの? ふぅーっ!」

 彼女がハンドルが揺れる。耳が湿る。耳の先に当たった寒風が、耳から体温を奪っていく。

「ひぁっ! やめっ、やめんか!」

「あー、耳弱いんだ。ふふふー」

「降ろすぞ! くそっ!」

「前のコートよりあったかいから、おっけー」

「あ、そう……」

 今彼女が着ているコートはダッフルコートだった。前はきちんと止められている。最初の日に着ていたコートはどんなんだったか。孝親はよく覚えていない。その内側に見えた夏服の蛍光色がちかちかしている。

「なあ」

「なあにー。新しいコート買ってくれるのー?」

「バッカじゃねーの。……なー、学校楽しいー?」

 孝親は口にしてしまってから、自分の口を抑える。本当は違うことを訊くつもりだった。だけど口をついてでたのはそんなばかげた質問だった。

「んー? ……楽しい、よ?」

「そうかー」

「なんでーぇ?」

「……や、……聞いてみたかっただけだ」

 言えるわけがない。

 この女が学校で授業を受けている様を想像できなかったからだなんて。孝親は自分で持ってきた話を逸らす。

「なー、もいっこさ、聞いてもいい?」

「なに?」

「名前」

 何度目かの逢瀬なのに、まだお互いに名前を知らなかった。

 孝親は女子を『おまえ』と呼ぶのは好きじゃなかった。だから、小学校の時から女子を呼ぶときは呼びやすい方で呼んでいた。例えば、田中が二人いて、それがサヤカとマリならば下の名前を恥ずかしげもなく呼んでしまうのだ。

 だから、孝親が名前を呼んで教室が響〔どよ〕めくこともあった。その時、孝親は自分が鈍感であったことと、教室の空気を感じてしまうほどには敏感であったことの両方を後悔し、慣れない舌打ちをする羽目になるのだ。

 孝親は名字を聞くよりも、女子なんかに関わらない方法を選んだ。それはもはや『おまえ』呼ばわりよりも確実なダンゼツだったのだけど。

「なーいしょー」

「いいじゃねーの、ケーチ」

 名前ぐらい簡単に教えてもらえると思っていたから、孝親は怯んだ。その怯みを気取られないように攻める。

「そんなんじゃ、俺の名前もおしえらんねーな!」

「なんで?」

 決死の一投は、あわれ、張り詰めた空の彼方へ飛んでいく。

「――なんでって俺のセリフだよ!」

「クリスマスプレゼントちょうだいよー、石井くーん」

「な、なんッ?」

 孝親は胸の中のレッテル用紙に『ストーカー』と薄墨で書き始めると、貼られかけの女は悪そうな笑みを湛えたまま指をさした。

 その先には。

「胴着」

「……ああ」

 そりゃそうだ。名字が刺繍してある。

「下は?」

「――タカチカ。親孝行のコウ、親しいのチカ」

「あはは、やっぱ武将じゃん!」

 まっすぐな冬の道の上で、会話が続いていく。結局孝親は、名前を教えて貰えずじまいだった。

 ――人に名乗らせておいてこれだ。まったく、女ってのはだからイヤだ、義理ってやつが足りないんだ。

「そうそう、タカくんもプレゼントほっしー?」

「……え、なんかくれんの? そんなよりさー、名前教えろよ。名前ー」

「やーだァ、なにきったいしてんだよー、こっちむけーェ!」

「はァ――? なにそれズルくねー?」

 

 ――おい聞いたか石井孝親。「タカくん」だってさ。

 

 孝親は降って沸いた幸福にハンドルを取られてバランスを崩す。それは、孝親が考えるよりも重いもので、鍛えはじめたばかりの細腕は、すぐに舵取りを誤った。

 冬の水が迫ってくる。

 

 ブランデーケーキみたいな、味がしたという。

 

              ☆

              ★

 

 それから。

 孝親は寝つきが悪くなった。最初は引いたことのない風邪でも引いたのかと思ったが、熱が出るわけでも咳がでるわけでもない。ただ、体のどこかが悲鳴を上げているのだ。それは練習にあけくれて、シゴキを受けた日のそれとは違う。もっと内側からのぼせ上がってくる危機だった。

 その気色のわるい悲鳴を中和しようと、実際に練習に明け暮れてみた。隣の駅までチャリを飛ばして体中に乳酸を溜め込んで煮込んだコンニャクのようになった。晩飯のことを考えたくなくなるくらい無心に達したつもりだった。

 それでもなお、疲労の奥底から雲霞〔うんか〕の如き波濤〔はとう〕の大軍で上ってくるものがあった。

「――なんだ、これ」

 思い悩む。昨日までの自分なら、そこに好奇心があったとしても――いや、きっとそんな仮定は無意味なのだ。知りたいと感じたすべては。アレだ、口に出すのもこっぱずかしい、アレだ。アレのせいなのだ。

「――――――――あ――――――――――ッ!」

「うるせえ! 早く寝ろ!」

 孝親はオヤジに殴られて、気絶するように寝た。

 

 ――気付いてしまえば、簡単な事だったのだ。

 だから、その次の木曜までは果てしなく長かった。毎週十分の逢瀬は短すぎたし、週一の飴と鞭が中毒患者を奈落にたたき落としていった。けして満足できない快楽。けだしの快楽〔けらく〕。それがもたらすものを自覚させる長い長い禁欲の百六十時間余が孝親を責め立てた。

 メアドを教えてもらうのでも良かっただろうに、それを聞くのはどうしても躊躇われた。煩悶する夜も、赤信号をわたろうとしながらも、ソース味の握り飯を気付かず食べ尽くしながらも「どうやったら、もっと誠実に忠実に話せるだろうか」なんて甘ったるい事を考えていた。孝親にとって他校の女子にメアドを聞くなんてのはズルに等しい行為のように思えた。そんなチャラい行為は、薄汚くあり、彼女と、彼女に好意を抱いてしまった自分への裏切りのように思えて仕方なかったんだ。

 

 それよりも、どうかしていることをしようとしている。

 

 禁欲期間を乗り越えて、いつものように彼女と風の中で言葉を交わした。何食わぬ顔で、でもきっと赤く染まった顔で。今が冬で良かったと思う。

 でも、どんな言葉を交わしたのか覚えていない。耳はずっと東京タワーに登った時のようにキーンとして、聞こえるのは自分の心臓の音ばかりだった。聞こえないのだから、自分がなにを話したのかすらも覚えていない。

 きっと、核心なんか触れられやしなかったんだろう。彼女はいつものとおり、駅を視界に入れたところで降りた。そして、駅と反対側に歩いて行った。振り返りもせずに。

 いつもの万倍は繊細にアスファルトを蹴って、孝親は彼女の後をつけていき。そして、見失った。

 

 知らぬ団地の下の公園に、孝親はいた。

 いつの間にかケータイには先輩からのメールと着信があった。『なにしてん、今日は雨じゃねーぞコラ』

 孝親はそこでようやく自分がサボったのを知る。今までサボったことなんてあっただろうか。そのくせ、サボってまで探しにきた目的のものは見つけられずに、こうして制服のままうろついている。

 あまりにも惨めで笑えてくる。もはや始業は訪れていた。孝親は諦念を踏みつける。年端も行かない子供たちがあそぶ声が聞こえる。その母親達が遠くで井戸端話に花を咲かせている。

 その後孝親は夢遊病者の如く、公園を二つ、駅を三つ、図書館を四つ、学校を五つ周り巡って、何も得ることなく家に帰った。

 不逞な息子にいきりたった親父が振り下ろす三番ドライバー〔スプーン〕を孝親は弁当箱で受け止め損ねる。その弁当箱は孝親が本日開ける機会を失していたものだ。つまり、中身は全く手つかずのままだった。

 最も怖ろしいのは、やはりお袋の雷であった。

 

 

 そして、彼女は来なくなった。

 荷台の軽い木曜の朝を三度繰り返したその昼――正しくは三時限目。物理はわからなさすぎたし、加速度という言葉は文字通り加速度的に孝親のイライラをつついていた。

 逃げたい会いたい抱きしめたいと陳腐なJ―POPの歌詞を自乗してみると、こんなことしてる場合じゃないにレベルアップ。孝親は冷たい風にとけ込んでいく彼女の言葉を、肩に置かれたあの手の冷たい熱の事を、湿りと乾きの関係式と曲線のことを授業も部活もそっちのけでずっとずっと考えていた。

 机に突っ伏して、耳を預けて不良のようにくたびれた姿勢でパラパラマンガすら書かれていない清潔な教科書を流す。熱量保存の法則。

 ――うそだ。あの熱はどこにいったんだ。保存されてなんかいないじゃないか。どこかにあるってのか。うそだ。あのときに噛まれた右の耳が覚えているだけじゃなくて、あの熱は、言葉は。あるのか。あるんじゃないのか。どっかにあるんだろ。だってニュートンさんが見つけたから、重力は存在したんだろ。

「――先生」

 ――発見って、どうやればいいんですか。

「なんだ」

 ――手がかりが消えてしまわないうちに、見つけるべきものですか。

「早退します」

 その時の担任の顔は面白かった。

 教室はざわめいた。それでも日基本品行方正な孝親に担任は視線を合わせず、どうしようも無い棒読みで「そうか、具合が悪いのか、なら。まっすぐ家に帰るんだぞ」と言った。

 

 

 孝親はまっすぐあの団地に馳せた。団地の下の公園。いない。いるはずがない。わかっていた。いや、本当は自転車を漕いでる間に気づいた。ケータイにはクラスメイトからのメールが何件か入っていた。はやしたてるメールのうちのひとつは今の孝親の心境を的確についたもので目眩がした。耳から血が流れているような、そんな気すらした。

 孝親はスタンドを立て、団地の下にある公園のベンチに腰掛ける。

 深呼吸をする。空は曇っている。

 子供の泣き声が聞こえる。黄色い声が聞こえる。そのうちのはっきりしたもののいくつかは「ママ、ママ」と泣いていた。

 その方向を見ると合点が行った。公園の日当たりのいい場所、砂場とシーソーのある周りでは団地のマダムたちが子供を肴に井戸端会議の真っ最中だった。立っている一人の母のジーンズに、泣きべそをかいた少年が一人寄り添っていく。自分の知らない世界を垣間見た気分だった。

 このままサボるだけでも、平和で、悪くないと思えた。

 でもそれは一瞬だった。孝親は次の瞬間にはもう、自分を衝きうごかした情動の原因を探していた。団地の上から下までを舐めるように見渡す。こっちじゃないかもしれない、隣かもしれない。この辺で見失っただけで界隈の団地だとは限らない。もしかしたら、空でも飛んでいるんじゃないか。じつはあいつも俺のことを探しているんじゃないか。高い声と埃の臭い、風に乗ってくる洗剤の臭いが孝親の妄想を加速させていく。

「――だから、いるはずねえし」

 孝親はひとりごちる。昼前に飛び出てきたのだ。そして今はまさに昼どきだ。マダムたちは安全な距離のベンチに座る学生服になど気にしないそぶりで、幼子に昼餉を食べさせる為に銘々が住まう白い箱の中へと帰っていくのだ。

 学生はこの世界にいるはずがない時間なんだ。

 静かになった。

「――ん」

 孝親は気づいた。

 広場にたったひとり、残っている。

「…………」

 いや、気づいていた。だからこのベンチに座ったのだ。その一人の幼い子供。女児とも男児とも判別がつかぬその子を孝親が気にした理由。砂場で何かを作ってたからだ。一人で。

 この日、たまたまその子が――というわけではないようだった。その子はいつもそうして遊んでいるのだろう。そんな気がした。泣くでもなく、叫ぶでもなくそこにいるのではないか。

 目があった。

「だれー?」

 

 少女だった。

 少女は青いスコップ片手に、物怖じもせず孝親に話しかけてきた。作る端から崩れていくハートのオブジェに嫌気がさして、気分転換よろしく話しかけてきたんだろう。

「高校生」

「っこーせ?」

「うん」

「ってなに?」

「学校にいくひと」

「がっこー!」

 その単語に少女は目を輝かせた。

「学校すきなのか」

「イチコさんさい!」

「そうなんだ……幼稚園、は?」

「いけなーい」

「そっか、小学校までまたなきゃな」

「いける?」

 ――三年後かな。

 その言葉を飲み込んだ。幼児と会話をするのは思ったよりも難しかった。それも、この子が賢いからなんとなく成り立っているのも、孝親には伝わってきた。

「たぶん」

 飲み込んだ言葉のかわりに、孝親はそんな曖昧な言葉をもらした。漏らした声が怯えに震えているのに気づく。

「ひるごはんは?」

 ――やめろ孝親、バイバイしろ。「おうちにかえんな子猫ちゃん」と言っておまえ自身もいるべき場所に帰るんだ。

「まだー」

 孝親は、内なる声を、警告を無視する。孝親もその先にイヤな予感はあった。だが同時に「そんなはずねーだろ」とも思っていた。

「ママは迎えにこないの?」

 少女が去らない。孝親はひどく居心地がわるかった。子供につまらない質問を繰り返す。それでも、少女はそんなつまらないはずの質問にも年相応に、そして賢く答える。

 少女はいつのまにか孝親の側、ベンチの上にちょこんと座っている。アップリケのいっぱい付いた古着。

「――ママいなァーい」

「あ」

 地雷がいた。しかし地雷というのは足を離した時に炸裂し、ターゲットを完膚無きまでに傷付け尽くすものと相場は決まっている。だから、ゆっくりとこの場を離れるべきだ。そう思った。それに良かったじゃないか孝親。少女の生まれながらの不幸と引き替えに、おまえの希望は守られたじゃないか――。

「おかあさんならねてる」

 また、孝親は揺れた。そんなことに気づくわけもなく少女は首のまわりがもこもことした服から生えた首を横にゆらす。ベンチに体を倒してよだれを垂らして寝ている少女の母の姿を模して笑う。足を下品に開いて、うれしそうに寝ているのだろう。

「――そうなんだ」

 どうしようもなく、似ていた。

「おかーぁさんね、夜の学校いそがしいの」

「お昼は?」

「ねてる。あのね、にちようはね、はやくおきて一緒にてれびみるの」

「パ……おとうさんは?」

「いないよ」

「――そっか」

「あとはねおかーぁさんがっこうとしごとなの。すいようはね、よるのがっこうでね。ひるのがっこうダメだったから。いくまえにはね、きりーつときをつけとれーいする。おかーぁさんだけ着てずるいんだ」

「……」

 知りたくなかったけれど、少女は人懐っこかった。もしかしたら何らかの理由で意図的に遠ざけられていた他人とのコミュニケーションを孝親で果たしているかのように三歳の少女は饒舌だった。

「でもねーおかーぁさんのイチコぶかぶかだから、はやく大きくなるー」

 そのことばはきっと親譲りの賢さだ。少女イチコはほんの少しの間でもたった一人の家族に話しかけることが尊いことで楽しくて、面白いことで、忌避すべきでないことだと教えられてきたようだった。

 だから、孝親は笑って聞いていた。

「もくようはねー、だからきょうはね。おきるとおかあさんがいるの。ごはんたべたら、おかあさんはねちゃうの。あのね、ごはんはイチコもつくるのダメなんだよ、ねたらダメなのふとるよって、自分でいってたのにね、ずるい。おかあさんはオトナだからいいんだよっていうの」

「あはは、おかあさん、ずるいな……」

「ないてる?」

 そこにいたのはきっと。

 手は震えていた。熱がそこに保存されていたはずなのだ。しかし、ずっと風にさらされてきたあの日の耳たぶは、頬は、とっくにさめて、乾いて、凍えてしまっていた。

「あ、耳、あかいー」

「わ」

 イチコにぎゅっと耳を握られた。砂混じりの小さな手は最初につめたさを、そして砂のざら付きで傷つけ、あたらしく作った傷口に幼児特有の高い体温を孝親の耳に送ってきた。

「あったきー?」

「……ああ」

「ぎゅー」

 ぎゅう。

 熱が沁みる。

 ゆっくりと熱が落ちてくる。

「ほらあ、こっちむけ――ぇ!」

 わるい熱が、頬から逃げる。

「なかないで、ね。しあわせがにげていくよ」

 

 小さな手に見守られて、わずかな恋が溶けていく。

 

アイシクル・サイクル 終 

 

 

 いくらなんでも、バランスを崩されすぎた。

 側溝の中で、アリサが笑っていた。

「なに笑ってんだよ。頭打ったか?」

「えー、ひどくなーい? だっておかしくない?」

「……見えっぞ」

「みたかったんでしょー?」

「バッカじゃねえええええの?」

「あはははははっ! タカくんさいっこー! さむい!」

 側溝にハマったのはアリサだけだった。この冬の日の冷たそうな泥水を頭から浴びてアリサは笑っていた。どうすればよかったのかわからない。

 悪態をつきながら上がってきたアリサは、そこで傍目も気にせず、びしょびしょに濡れた自分の下着を脱いで絞る。滴りがフカカチを得て、びたびたと音を立てて側溝へ戻って行く。

「ね、なんかフクロない?」

 孝親は濡れたスカートの裾が、白い腿に当たる度に涼しそうにするアリサをみていたから、彼女の声に気づかなかった。

「ねーえ!」

「え、あ、なに」

「袋、なーい?」

 アリサが焦れていた。

「えー?」

「パンツ入れっからぁー! ソックスもー!」

「~~っ」

 孝親は自転車を起こして冬のアスファルトにスタンドする。乾いた小石を払い、鞄を一旦大地に預ける。そして肩にかけたままのスポーツバッグの方を開けて、コンビニの袋でもありはしないかと探し始める。クラスの女子が手持ちぶさたにビニール袋をたたんで結んでバッグに入れるのをバカにしていたあの日の自分を愚かだと思った。鞄の底でカレーを入れた弁当箱が、ホームセンターのビニール袋に包まれて孝親を待っていた。

「あー、弁当入れてる袋しかない」

「透明じゃないのないー? ドラッグストアのとか黄色いの」

「なんで」

「だって、透明だとみえちゃうじゃん、はずかしーじゃん!」

「……ああ、そっか」

「やらしー、タカくんやーらしー」

「やらしくねーし……これでいいだろ、もう?」 

 アリサは頷いて、ありがとうと言ってビニール袋を受け取った。絞ったパンツと靴下をビニール袋に入れた。レントゲンのように内容物が映っている。

「どーしよっかな」

 じゅう。と音をさせて冷たい水を滲出させる靴を、裸足で履いてみようとしてアリサが苦い顔をする。

「あれ……?」

 そういえば、ヒールだったはずだ。片方が折れていた。素足にばかり目がいっていて、孝親はずっと靴なんか見ていやしなかった。

「あー、カカトどっか行っちゃったなあ……まあ、いっか」

「……なんで、学校ヒールなの」

「えっ、あっ? ああ? ――まぁ、いいじゃん?」

 アリサの顔が困惑から笑みに、そして初めて見るような顔になった。でも孝親は、その表情をどこかで見た気がした。優しい表情なのに、それでいてなんだかバカにされているような、そんな気持ちになるんだ。気分は悪くないのだけれど。

「なんだよ、どっかで換えんの? 怒られっだろ」

 孝親は記憶をたどる。そういや、アリサはいつもどんな靴を履いていたっけ。孝親が気づいていなかっただけで、いつも登校には不似合いな靴を履いていたのではなかったか。

「――校則、ユルいの」

「……そうかよ」

 ――んなわけネーだろ、だ。

 孝親はため息を吐いて、返しに冷たい空気を吸う。脳がきーんとする。庇った左手の手のひらに擦り傷ができていることに気づいた。転んだアリサのことと、転ぶ前に孝親がされたことを考えていたから、気づかなかった。

「あ、ケガしてる」

「たいしたことねーよ」

 それは謙遜でもなく本心だった。体育系の部活に生傷なんかは付きものだから。二年前に道場の床板から剥がれた長めのトゲがささった左足には、まだ痕が残っている。

「じゃあさ、消毒」

「わ」

 長い、赤い舌だった。

 誰もいない朝、しかし誰が来るかもわからないこの朝、駅にたどり着くための凍えるような道の上、冷たい水に浸された不思議な女が、孝親のこすれた手のひらにその舌をのばしていた。

「なに」

「――消毒、だって」

 縦長に開いたその口は赤で象られていたし、腕はもう片方の腕で捕まれていたし、孝親の足は本気で逃げる気などなかった。孝親の目は自分の手をみていた。わからない女がその傷口に舌をはわせ、その唾液を塗りたくっている。裸足の女の服からはまだ水が滴っている。

「なんだよ」

「イヤなの? でもマキロンとか、持ってないでしょ」

「ないけど……てッ!」

「学校に着くまで、がまん。ね、男の子でしょ!」

 ささくれに歯がたてられ、薄い皮膚がめくられる、傷口を押しつけられ、さらに掃除機をあてがわれたような吸引を感じた。

「んだっ……」

 背骨に直接つたわるような痛み。ぺっ。とアリサが吐き出したのは、どうやら、孝親の傷口に入り込んでいた小さな砂のようだった。

「ハショウフウになるかもしれないから、ちゃんと学校に着いたら手当しなさーい」

「いらねーよ……」

 ようやく解放された手を眺める、濡れた手のひらだ。ぐーぱーすると鈍い痛みを思いだす。そしてすぐに冷えた風が麻痺させていく。朝日を反射して光っている。この手でまたお世辞にもきれいとはいえない自転車のハンドルをグリップするのに。

 アリサは自分が落ちた側溝にぺっと唾を吐いていた。

「……さて、と」

「あれ」

 アリサは濡れたパンツとソックスの入ったビニール袋を結んでいた。寒そうに内腿同士をこすりあわせている。ストップ・ザ・二酸化炭素。

「ねえ、ジャージとかないのー」

「今、ねーなあ。胴着しか」

「じゃあそれ、貸して!」

「バっカいえ! 他はともかくこれはダメだ!」

「あーそうなんだ……んー、じゃあ、ここでバイバイかな」

「あれ、乗っていかんの?」

「うーん、でも、孝親のチャリ座れないからさ。歩くよ」

「なんで」

「スカートも濡れてっしーィ」

 アリサははにかみを作って、スカートの裾を摘んでみる。端から指二本ばかりのところが持ち上がる、水がはじにあつまって滴った。そしてまた、摘んだところから中心に向かっても水が集まり、丁度股のところから、水が滴っているように。孝親には見えてしまった。

 孝親は首を振る。

「どうしたの」

「なんでもない、すげー濡れてるな」

「すごいっしょ、びっしょびしょっしょー」

「なんでそんな楽しそうなんだよ、見えっぞ」

「あれ、タカくん見たいんだろー? しょうがないなあ……」

「……ばッ!」 

 そういや、いまのアリサのスカートの下はなにもはいていないのだった。というところに孝親は考えが及んで、おののく。顔に血が上っていくのがわかる。会話の途切れを訝しむアリサが視線を孝親に向けてすぐ、アリサは気付いた。

 みるみる笑みが拡がっていった。

「うっわ、期待してたっ! た、孝親のっ、エロ――――――ッ!」

「おい、何言ってんだよ! いいよ行っちまうからな!」

 孝親が地面を蹴っ飛ばす。小石がひとつ側溝へ帰って行く。さっきの転倒でどこか曲がったのか、両手に返る手応えに違和感があった。「風邪引くなよ!」を捨て台詞にして、行ってしまおうと思った。 

「あ、まってよ。冗談だってば、なにマジになってんのよぅ」

 アリサは笑って、孝親の自転車のケツを追いかける。

「うわ、おい」

「やっぱさ、ほら、乗ってくー!」

 リアキャリアのしっぽが長い指先につかまった。

 孝親は、リアキャリアにかかった横向きの力を中和しようと体重移動で醜く足掻く。けれど、ちょうどアリサは自転車を止めてしまおうと、同じ方向に力を入れはじめたところで、天秤は見事に逆方向へと傾いてしまう。

 止めるものがなくなった自転車は、瞬く間に二人ごと横転した。

 

 孝親が鼻の頭を抑えている。

 アリサが笑っている。

 後輪がからからと鳴いている。

 

 

 

 少女がずっと歌っている

 風邪を引きそうな冬のはだしで

 昭和の歌詞もおぼつかず

 

 

<アイシクル・サイクル 了>

(2010-12-05発行 同人誌「チハやぼん」に収録)