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シルクロジック・クロスゴシック

シルクロジック・クロスゴシック

 

 

「今度の連休に一緒に釣りでも行きませんか? 二人で!」

 

 ――と来たものだ。これはいわゆるデートのお誘いというものではないのでしょうか? さらに「――連休に」などといっているからには、そう「お泊まり」すらあちら様の視野に入っているに違いないでしょう。ああ、ここは奇しくも男子に生れ落ちたるこの身、遺伝子力に励起されミトコンドリア的な原初から滲出〔しんしゅつ〕して止まぬ喜びを、隠さず零さず表現するため「ブラヴォー!」とエキセントリックぎみの嬌声をあげ、それと共にコサックダンスばりの小躍りなどをふるまうのが筋というものではないでしょうか! 

 やがてダンスは興に乗り、両足がともに地面から浮きあがるも必至。やんごとなき摩擦係数から解放された世界に旅立った彼ら――というか僕の両足は、文字通り「天にも昇る心地」というやつを土踏まずで捕らえ、ひとつ隣駅の駅前ドラッグストア「アゼモリ」前までジャンプすることすらも可能にしそうじゃありませんか。

 そして僕は、心臓の音に邪魔され何度もレジでもたつき小銭をどこかありがたそうな外国の泉でもないのにやたらめたらにばらまきながらも、新品のデンタルフロスとメンタムリップとアレやコレをいそいそと購入することに成功せしめましょうや。

 ……しかし、何事も平穏無事に上手く行くのはそこまでなのです。ああ、詰めの甘い僕の油断と罵り誹る向きもあるかも知れない。しかし、好奇心旺盛な妹たちに見つかったら最後、キャアキャアと好奇の悲鳴をあげるに違いない。するとそれは瞬く間に家族すべての知るところとなり、僕は妹たちのそれから数えて四年遅れの赤飯料理フルコースを家族で囲むハメになってしまうに間違いありますまい。

 そのテーブルに着いた僕はひたすら無言のまま、茶碗の中身を箸の背でこねくりまわして赤いモチを生産するところの「やってみよう! ためしてみよう! おうちでできる楽しい化学の実験!」入門編トライアルマシーンになるでしょう。

 そんなことなら科学雑誌に生まれた方がマシだと己の不遇を呪う僕が見えます。しかし、そんな血と涙に塗れた個人授業のあとはもちろんご褒美が――。

 

「どう?」

 

 ――そんな先までを想像してしまう。現実に住まう平凡な男子高校生として当然の思考であるといえよう。なお、この想像は文字にすると若干長く感じられるきらいもあるだろうが、脳内調べでは一秒もかかっていない。日頃の積み重ねが今まさに『馬脚を現した』といったところか。

 手前味噌だが、先程までの一連の想像はキャッカンテキにも実に微笑ましく、また、ありそうな想像ではないだろうか。そう、春は万人に等しく訪れるものであったのだよ、ミスタースミス。かりにこれが想像に過ぎなかったとしても、この八割、いや、四割くらいの出来事は期待して罰は当たるまいなのだ。

 

「聞いて、おるかね?」

 

 ほらいけない、妄想に時間を費やしたようで現実からお呼びがかかった。こうみえても僕は若くして現実と妄想の区別を付けられるほどに成熟した男なのだから。現実の『彼女』を待たせてしまっては本末転倒ではないか。

 ――いやしかし諸君。逸る心を抑えてちょっとばかり深呼吸をしてみようではないか、「――かね?」とは一般的に女子が使う語尾として不適切ではなかろうか? 

 ではその疑問を念頭に置き、脈拍をいつもの調子に戻してみようですはないか。そこで改めて冒頭の科白を御覧いただきたい。そう、あろうことが「釣り」なのである。そうなると、この発言の主は、けして女の子のものなどではないということだ。

 

「息子ドノ?」

「――おいクソ兄貴。父さん呼んでる!」

 

 現実が、アルゼンチンバックブリーカーをブチかましてきた。

 我が家の茶の間だった。

 そこには最近やっと布団が取り去られた卓袱台が座しており、そこに座った妹たちは宿題を広げてやっつけあっている。学年の同じ双子は勉強も半分の労力で済むからラクそうで実に羨ましい。きっと授業中もテレパシーで得意分野を教え合っているに違いない。二卵性だからその可能性が低いことは重々承知の上。ああ、勿体ない!

 さておき。僕はそんな妹達の勉強を監督する役をしていた。といっても、兄に比べ元よりおできになる妹達はその殆どをお互いの目配せで済ませてしまうものだから、僕はかろうじて英語構文のテキストとラインマーカーの二刀流をウツラウツラと披露することでかろうじての威厳を保っていたのだった。

 本当だったら目覚ましにでもテレビを点けるところだが、そんなことをすればサラウンドキーンボイスの非難ゴーゴー刑が有無を言わさず執行されてしまう。結局、数分か数刻かはたまた数秒か前の僕はジャストフォールアスリープした。扉にかけておいたドントディスターブの札は、僕以外のおろかものたちには見えない世にも珍しいプレートだったのである。うかつ。

 そこに亡霊のごときタイミングで帰宅した僕らの威厳高き父親が、初夏の暑気に中てられじわり湿気ったネクタイをぬるり外しつつ、僕に冒頭の言葉を吐いたのであった。では満を持してもう一回どうぞ。

 

『今度の連休に一緒に釣りでも行きませんか? 二人で!』

 

 VTR再生の為、二重カギカッコに入っています。

 この言葉が女子のものでなかったのはまこと残念の極みだ。この時の僕はいますぐにでも夢の中に戻って行きたいところだったけれど、家長に声をかけられたからには意図に沿った返事をしなければならない。

 しかし、僕は目の前に開いてあった英語構文の参考書に巧みに混入された呪文「眠りの雲」〔ネクサス〕のおかげで、白昼夢にも似た夢うつつとそれに伴う前述のような妄想に蝕まれていた。そんな朦朧とした僕だけれど、そこらにいる妹達から「はやくこの加齢臭の用事を済ませてあげなさいよまったくなんでこの家の男どもはこんなに目障りで空気読めないの!」「そーだくちゃいぞー! 男子ばっちいぞー! げーろげろー」といった政治的な圧迫を受けているらしいことだけはハッキリわかっている。だが、まだ僕の目は春の午後の余韻を味わい尽くそうとして半開きだ。

「――なんですか父さん、その敬語」

 だから、あたかも起きていた風を装って、僕はのんびりと返事をした。これは僕にしてはこじゃれた、そして的を射たツッコミのつもりであった。

 ――つまり「どうしてお父さんなんぞと一緒に釣りになどいかなければならんのですか」という高校生特有の距離感というのが僕にだってそれなりにある。その上で「―っていうか、家族別に仲悪いわけじゃあるまいし、一緒に行きゃあ良いじゃありませんか」みたいな言い訳も拾い集めている。そのへんを全部先の返事に込めたのだから、現代文なら八十点はカタい。

 しかし親愛なる親父殿はまだ苦い顔をしておいでだ。

「――人に提案をするときは敬語であるべきではないかと父は考えますが、いけませんか」

「いえ、いけないということはないとおもいますが」

 正しいと思うけれど、おかしいと息子は伝えたかったのです。

「ねーちょっとあたしたちベンキョーチューなの、噛み合わない親子劇場は他でやってくんない!」「犬も食わないから、あたしたちのお口には合いませんので! ごよーしゃあ!」

 ところで、このあと出番の無さそうなこの二人の妹について。

 妹そのいち。普段なら「え、それどういうこと? ちょっと、あのね、あたし受験生なんだー。知ってるよね? で、それをさしおいてパパとクソ兄貴は旅行? バケーション? 優雅に田舎の山奥に? へー、それ本気で言ってる。あたしはクソ兄貴の受験のときはべつにあたしには関係ないのにどっ……ッこもいけなかったのに? へ――――っ!?」でなく「おかーさーん、あたしたち銀座いきたいいきたいいきたいいいでしょねえねえねえねえね――――――っ! 聞いてるの! ザ――――ギ――――――――ン――――!」であったこと。

 妹そのに。そのいちよりも温厚に見えて自分の欲求を適当なところで抑制することをしらない彼女の要求は姉よりもしばしばパワフルで、かつツカミ所のないものになる「ずるい、あたしも行く! 食べたい田舎そば! 山奥グルメしたい! ずるい! 」――普段ならこうなるところであったが「え、銀座行くの? ベーカリーオサカベのバニラレーズンフルーツクリームケーキ、ホール! あとハラジュクいきたいハ――――ラ――――ジュ――――――ッ! いぇーい!」となるくらい、平和な家族が演出されていた。

 夜勤に備えてか、喧噪が召喚のカギだったかは定かでないが、居間にのそり船幽霊が如く現れた母は、船を漕ぐ縁起の悪いリズムで納豆をかき混ぜつつ、その合間に「はい……はい……バイタル……正常……」とのたまい、思いだしたように奇声をあげる。「足抑えェ――――ッ!」「ひいッ!」

 よくわからないが、夫婦のじゃれあいのようだった。

「……じゃ、行っとく? 父は宿を予約してしまいますよ!」

「――はァ」

 実父におかれましてはベルト半脱のまま腰を入れ、まるで五月の新入社員を花街に誘うような若いポーズでサムズアップされてしまわれており、そこまでされてしまうと息子に断る理由など思い浮かびはしない。僕は黙って首を縦に振ったのである。

 親父はにんまり笑って頷き、そのままズボンを足から几帳面に揃えてゆく。すると、それに気付いた娘達はパンイチのオトーサンに黄色い声を浴びせかける。「ちょっとお父さんここで全部脱ぐつもりじゃないでしょーね勘弁してよここはコーキョーの空間なんだからね!」「おとーさんたばこくさい。このニコチン魔神めー!」「ここは俺の家だよう、いいだろ?」「私の家でもありますよパパ」「へへー!」「げらう! げらうひあ!」「でも別にいいのよ、パパのご自慢のたくましい肉を娘に披露していただいても」納豆が伸びていく「母さん?」「うむ……! おまえら今日はお父さんと一緒に風呂に入りましょう」「は――っざけんなよクソオヤジ! しねえええ!」「よ、四万でいいよー!」「それは四千円にまからんものかね」「おい、おっさん」「――いいんですよ修司さん、私はいつでも判子を衝いたって。はい」「え、判子? 本気で? ちょっとまって考え直してくれませんか櫻子さん、私なにかしましたか」「覚えがないのですか修司さん。本気? 気づいて居たけど言わなかっただけなんですよ。修司さん」「は、はい」「今更こんな事を言うのもバカバカしいのだけど、女という生き物は、男よりもはるかに目端が効くものなのです」「ひ、ひーッ!」「ああ、私はもう夜勤行きますから町内会の出欠調査にちゃんと判子ついて出しておいてくださいね修司さん。なにをびくびくしているんですか」「はい、口元に納豆がぶら下がっております」「朝は、ピカピカのお風呂に浸かりたいですね」「仰せのままに――――ィッ!」

 我が家は、この夜も平和だ。

 

             ◇

 

 そして、たちまち連休になった。妹たちは前述のとおり非番の母さんと一緒にデパ地下巡りすることですべての折り合いがついた「お父さんのこと宜しくねバカ兄貴!」「おみやげ! ブッサンテンで買えるようなものなんかサゲサゲノーユース! おとーさん何度言っても東京駅で売ってるようなの買ってくるから! ちゃんとお兄ちゃん選んでよね! 珍しくて、まだ雑誌に紹介されて無い奴ね!」「修司さんなんでそんな旅行が好きなのかねえ……母さん今日は寝たい……」「ちょっと! やめてよね! 寝るなら電車で寝て!」「そうだ財布置いてけー!」「寝る」ぎゃあぎゃあと続く女三人のかしましさから逃げるように父親と息子は家を出て、奥地へ。

 

 既に酸素が薄かった。

 電車をいくつも乗り継ぐというのに、父さんは時刻表を調べてすらいなかった。その上、目的地の手前の駅で無造作に降りた。なんだそれ。空気よりうすっぺらい電波をどうにかケータイで拾い集め、導き出された芳しくない結果を父さんに告げる。かつてペンキが塗られていたかどうかも定かでない薄汚いベンチに座って暢気にタバコをふかしていた。僕はここにきてようやく夢から醒めたような気がした。

「なんか、全然来ないみたいなんだけど――。あ、電波ねぇ」

「ああ、まあ。ゆっくりいきましょうぜ、息子ドノ。空気がうまいとこう……煙草も旨いし」

「吸えないし。――やめたんじゃなかったの、タバコ?」

「ああ、まあ空気が薄いから、ちょっとな。ちょっとだけな。そう言わずきみも吸う? これハッカだし」

 父さんは自分の持っていたそれを指先でくるりとまわして僕にむける。いらん。ハッカだからどうだというのだ。

「やめとく、未成年だし。……ハッカってなんだよ、メンソールのこと?」

「カタいなー、きみ、誰に似たの?」

 駅のベンチには僕ら以外だれもいない。ベンチどころか、ホームにもいない。駅員もどうやらいないようだ。これが無人駅ってやつだろうか。

「結構待つっぽいよ。なんで降りたの」

「夢だったんだ」

「……なにが」

 幸せそうな横顔だ。このままほっておいたら死んじまいそうな安らかさで、父さんが続ける。

「息子とこういう田舎来るの、が」

「へえ」

「――かな」

「は?」

 ――なんだそれ。いや、あごに手を当てて探偵風の所作をされても、父さん僕にはわかりませんが。それに、いつも土日は自分ばっかりどこかに行ってしまうじゃありませんか、あなた。だったら小学生だった頃の僕でも、そうでなくても妹達や、目の下のクマがとうとう定着してしまった愛しの奥様を一緒に連れて行ってあげれば良かったじゃないですか。

 父さんはそんな僕の脳内ツッコミどこ吹く風で、煙草に酔ったような言葉を吐き続ける。

 ある程度の年を過ぎると、こういう恥ずかしいことを言うのが、恥ずかしくなくなるのだろうか。

「――そうだ、あっち着いたら、渓流があるから一緒に釣りでもしましょうや。川魚なんてそうそう食うに足るもんは釣れやしないけど、海釣りよりはやかましくていいぞ」

「やかましい、って?」

「ああ、ありゃひどくやかましい。釣り糸が揺れるのもわからないくらいに、やかましいんだ」

「はあ」

 久しぶりに煙草なんて吸ったものだから脳をやられたのか。いや、もしかしたら、世代の隔たりを埋めようとして、口調をこねくりまわした結果がこれなのかもしれない。なんて思う。

 いつのまにか親子の会話は止まっていた。

 父さんの横顔はいつの間にか、平日の朝の何事かを考えていそうで実のところあまり考えてないらしい、難しいだけのあまり役に立たない顔に戻っている。

「……変な親子」

 聞こえないように呟く。そのつもりだった。

「ん?」

 唇が動いているのでも悟られたのか、父さんの視線が僕を向いた。手のひらを首に当てたままの、自然と申し訳なさそうに頭を垂れる、取りようによってはかなりの情けない仕草。どこかで見た――というよりは馴染みのあるその格好。

 なんのことはない、自分も学校で人と話すときに同じ所作をしているんだ。ああ父さん、あなたはその年になって、息子の前でまでそうやって自分の首を守っているのですか――?

 

 電車は、あと四十分はこない。

 会話の続きを、周りの樹々と虫たちが引き継いでいく。

 

 

 宿に着いたのはもう日が沈んだ後だった。

 やっとのことで着いた目的駅だったけれど、周りには殆ど何も無かった。その日の最終バスは既に出てしまっており、ドリンク剤の名前をデコレーションされた、ダサい色のベンチだけが親子を迎えてくれた。――しかし捨てる神あれば拾う神あり。ブリキのベンチで錆に喰い殺されてしまいそうな広告がそれ。聞いたこともないタクシーの番号を解読して、三度目でアタリを引いた。

 ――四十七分後。県境から呼び出された地元民でないタクシーの相槌のタイミングが異様に下手な運転手は、同じ道をぐるぐる回り数時間ばかりのロスを僕らに食らわせたあげく規定の料金をせびった。汚れた尻のナンバープレートが薄笑いを浮かべたまま山に帰っていく。

 薄暗い玄関、染みのついたエプロンの老婆、ざらついた灰色のカベの四隅には惜しみなく蜘蛛の巣が張られている。靴箱の影に拵えられたひとつには白い繭のようなものが真ん中に鎮座している。あの中にはいったい何が隠されているんだろう。

 ここは「大変、じつに、まったくリーズナブル」らしい民宿らしかったが、ここに来るまでの道のりの長さもこの民宿のしみったれた感じも、天秤の向こう側に来るのがどんなに格安で愛想のいいサービスだったとしても――釣り合いがとれるようなものに思えなかった。正直、速攻帰りたい。

 僕にとって少しばかりの慰めとなったのは、部屋に案内される時にすれ違った子のことだ。僕は前後不覚の唐変木だが、あちらは器量よしって感じ。会釈されちゃったので顔はよく見えなかった。きっとあれはここの子なんだろう。

 部屋の中も布団も電気ポットも予想通りカビ臭かった。父さんは「気の利いた料理」に舌鼓を打ちながら熱燗を追加している。その一方僕は――これって「気が利いている」んじゃなくて「大したことないから珍しいような気がする」料理なんじゃないかなあ――なんて失礼なこと考えつつ新技表面張力酌を編み出していた。

 料理もあらかた食い終わり、特に楽しみも終わってしまった僕は熱燗のアルコール蒸気に当てられて妄想の世界へ羽を伸ばす。さっきの子がさ、喩えば、家の手伝いなんかを良くするような子で――同年代の僕のことを気に、気になっちゃったりなんかしちゃったりして、さあ――お燗の代わりを持ってきてくれはしないだろうか――。

 いつもなら、適当なところで留めておく酌を、止める力が弱くなる。父さんはしたたかに呑んでいた。

「ねえ、酒は別料金じゃないの?」

「いいんだよカタいことは! ほらおまえも飲めよ!」

「いや、いいよ、俺はやめとくよ。み」

「未成年だしィ――か? またそれか! つまらん! おまえはつまらん! 見ろ、この刺身のツマですらもっと面白い! つまんねえええええええ! タカジャスタッゼッ!」

 ――これはなんだ、自分ツッコミってやつなのか。

 さっきまで我が父だったものは着々と日々のストレスを飽和させたアセトアルデヒド溶液袋と化していく。そして、どちらからともなくいつの間にか寝てしまっていた。結局、僕がこれだけ苦労していたのに、こっそり待っていたご褒美は襖を開けやしなかったんだ。

 

 朝だった。窓を開ければ緑の臭いがしたし、年季の入ったクルマのエンジン音は聞こえるし、鳥の鳴き声は煩いくらいだし、鳥というかニワトリだってどっかで鳴いている。葉緑素の濃厚な空気だけがひたすらうまい。花粉症でなくて良かったと思う。

「……あたまいたいよー」

 父さんが見知らぬ布団の上で転がっている。布団の前では憮然とした表情で正座し、ため息を吐いている息子がいる。認めたくないことだが言うなら、敢えて言うならこの僕だ。せめて端から見れば病床の父を看取る健気な息子のワンシーンにみえはしないだろうかと淡い期待を抱かずにはいられない。祈り空しく、布団の中からは四十代とは思えぬ親父の実に情けない呻き声が聞こえてくる。

 そういや、酒に弱い父の姿を見るのは初めてかもしれない。社会人戦士もヤマを超え、負いたくもない他人の責任の分とばかりに体重と肝脂肪を増やし、疲れることもあるのだろう。そこは同情すべき点だ。……だからこそ薄情な奥方や娘達の代わりに、この健気な息子がその気まぐれに付き合っているのだ。

 ――だが、しかし、そうだとはいえ、遊び盛りの息子をこんな田舎に引っ張りだしておいて、自分ばかりグロッキーになってしまうのはいくらなんでも無責任ではあるまいか。

「――なあ、今日、どうしようか」

 沈黙とみすぼらしい現状に耐えかねて口を開くと、わりとトゲトゲしくなってしまい自分でも驚く。もっと呆れたような声が出ると思っていたのだけれど。窓サッシに積もった黴のような声だった。

「せっかく来たんだから、さ、どっか――っつっても若者が好きそうなものなんてないかもだけどさ。行ってこいよ。どっか。ここのおばちゃんが釣り竿一式貸してくれる手筈になってるからさあ」

「はあ……じゃあ、そうしようかな」

 僕は若干ほっとしていた。目的もなくこの不案内な土地を歩いたりするのは苦痛だと思っていたから。父さんのことは全く嫌いでもないけれど、昨日の駅のホームでみたいに、何を話せばいいのかわからないままじっと時間を過ごすのはどうしていいかわからなくなる。

 いっそのこと、成績とか『――す、す、好きな子とかおらんのかァッ? フヒィ!』とか聞かれた方がマシ――いや、最後のはあまりにもひどいのでやっぱパス。さておき――一応の目的さえあれば――それが例え退屈きわまりない一人きりの釣りでも、畳数畳のなかで酔っぱらいの看病よりはマシに思えるのではないだろうか。

「じゃ、俺のかわりにいいサカナを手に入れて来いよ」

 父さんなりに自分の無様を自覚していたのか、それとも意外と乗り気になった息子の姿に心打たれでもしたか、布団の中から手だけを出し、くいっと猪口を傾ける仕草なんかしてる。

 なあんだ、余裕そうじゃないか。冗談にしても今夜もまた酒を呑む気のようだ。ならば、せっかく来たのに今回は釣りを楽しめないだろう親父の遺志――いや、縁起でもない。意志を継ぐのか息子の役目かもしれないし。

「――まかせろ」

 僕は立て付けの悪い襖を開けて、女将を呼んだ。

 

 

 旅館の女将さんは昨日対応してくれた老婆とは違った。母と同じくらいかもう少し若いように思われた。すると昨夜の子はこの人の娘だろうか――なんて僕は考えている。

 この民宿には他に客もいないようだったし、民宿はついでで生計はそれ以外の――おそらく農業あたりでまかなわれているんだろうと思われた。

「古くて御免なさいねえ」

「あ、はい、あ、いえいえ、そんな」

「いいのよ、お客さんなんだから、気いなんか使わないでも」

「あーもう、なんかもう、何もかも新鮮なんではい」

 口を開かない方がいいのは、自分でもよくわかっている。

 借りた竿はかなりの年代ものだった。と言っても竹で出来ているほどのアンティークではなく、リールもちゃんとついたカーボンロッドだった。

 これは亡くなった夫の愛用品であり、なくなったりすると悲しいけれど道具なんてものは使われてこそのものだから。なーんて話を聞かされてしまったものだから、プラケースに入れられた釣り餌、弁当なんかの入れられた旧時代的なクーラーボックスは大変肩にずしりとくるものになってしまった。実際重くてしょうがない。

「穴場だから、釣れますよぉ」

 女将はきっと笑って、僕を送り出してくれた。

 

 

 山道を進んでいたら、道を見失った。

 ――というのは言い過ぎだが、人とその創造物の気配はどこへやら。教えられた道は合っているはずなのに、ほとんど獣道のようになってしまっていた。

「これ、さぁ、穴場過ぎじゃない――?」

 足を踏み外さないように、転んだ拍子でロッドを自分の身体に突き刺して風化していく悲劇――みたいな碌でもない妄想で気を紛らわせながら、足下だけは外さぬように「安全第一注意一秒ケア一生」で――なんだっけこの言葉。ああ、これは駅に建っていた唯一の近代的な建物のシルバーパラダイスなる高齢者用マンションが入居者募集垂れ幕に掲げていたことばではないか。そりゃ、そんな不吉な標語を掲げたマンションになんざ、誰が入りたがるものか。ありゃ体のいい隔離施設じゃないか。もっとも、入れる方としてはその方が都合がいいものかもしれないけれど。

 母方の祖父母のことを思いだす。あの母親にしてその祖父母ありとばかりに矍鑠〔かくしゃく〕としている。母さんにすら薄情と評されるその二人は「孫の顔も娘の顔も五年に一度くらい見ることが出来ればよろしい、我々がようやく手に入れた静かな蜜月を崩さんでくれ。――しかし、年賀状はよこせ」「液晶テレビ欲しいですね、あなたの顔を見なくて済む時間が増えますからね」「カカカ! 金は遺さんからな!」で済む老年ラブラブカップルだ。暑くて死ぬ。

 あの二人が――もし、たったひとりになってしまったら。互いに支えていたからこその孤高の人々が支えを失ったとき、竹のようにゆっくりと斃れる〔たおれる〕までの間はどこで過ごすのだろう。

 それは、あの駅前に堆く〔うずたかく〕聳え〔そびえ〕立っていたあの棺桶の中なのではあるまいか――。

 僕としては珍しく益体もないことを考えながら、ゆっくり草を踏みしめていく。踏む度に青い臭いが鼻を攻める。道は道でないがなぜか進むべき方向がわかる。高い草に半袖で来たことを後悔する。帰りたい。

「めんどくさいよー」

 足を持ち上げるのは惰性だった「父さんに空のクーラーボックス見せるのちょっと癪じゃない?」はその後ろに控えめに隠れている。当初あったなけなしのやる気は、道中の柄にもない妄想のせいで三百歩あたり手前で拳銃自殺をキメてしまった。

「やめようよー」

 誰にともなく零すひとりぼっちの愚痴は、遅効性の毒のように回ってくる。草が高くなってきたから虫だって寄ってきて気分が悪い。それでも帰らないのは、なんとなくどことなく、そこにだれかがたまに通っていると推理される踏みしめられた土が続いていたからだ。

 ――あの樹の幹まで行ったら、休もう。拵えてもらった弁当を食べてグダグダと昼寝をしようとして虫に辟易して帰ってしまおう。きっと「川まではいったんだけど」でいいじゃないか。もうクーラーボックスをケツに敷いて休もう。金具を腐らせかけた蝶番が耐えられるようなら、きっといいアイデアだ。

 辿り着くと水音がした。どうやら目的地に着いたらしかった。息は上がっているが、着いてしまえばたいして遠い距離でもないような気がした。戻る道だってはっきりと思い出せる。なんにせよ疲れていた僕はシートも敷かず尻を付いた。

 そこは川と言うには細く、谷川というよりいっそ硲〔はざま〕に近い場所だった。きっと校舎の二階よりは低いけれど、下を見ると肌より先に肝が冷えるほどの高さと、険しさ。

「――――ッ」

 せっかくだから、深呼吸なんかしてみる。

 木漏れ日、せせらぎ、鳥獣の声、肌寒さとぬるさ、土と水と木々の間を通り抜ける緑色の風。それらの中では、明らかに異質な水面に釣り糸を垂らす自分の存在すらも溶け込んでしまうようだ。

 苔むした岩は座ると土よりもひんやりとしてした。蝶番がバカになっていたクーラーボックスを脇に置く。道具を出していそいそと並べていく。釣り餌として渡された透明のプラパックの中は線虫が蠢き、透明な壁に頭をぶつけている。

 慣れずともやりかたはわかる。くすんだ蛍光色のロッドの先に、錆のしみてきた針がある。持ち手のスポンジは腐食して摩擦を期待できないような剥き出しの芯になってしまっている。

 錆びた針は変えておきたかった。魚だって錆臭い餌など食べはしないだろうと思えたし、それにクーラーボックスのポケットには替えの針くらいは入っていると思ったんだ。

 意外と、楽しめるな。なんて思っていた。

 

             ◆

 

 まったく釣れやしなかった。

 口の両端を上げて、だらしなく開けて、目を細めて挑んだこの遊びなのに、いつのまには口は三角になってしまったし、眉間には皺が刻み込まれていた。水面を覗き込んだり、竿をぐるぐる回してみても、ただ気分がくさっていく。

 

 ――――。

 

 そんなとき、音がした。下流の、僕の背にあたる茂みから聞こえてきたようだった。咄嗟に振り向いてみても、見回してみても、警戒して見ても何も見つからない。

 だけど、確かに音がしたんだと思う。それは小動物が草むらに隠れるたぐいの物音でなく――大きい獣が獲物にその捕食行動を覚られぬように息を潜めているような――音。

 いつの間にかこめかみが鳴っている。これは家庭内で最も立場の弱い僕が、自然に身につけていたレーダーなのだ。これが反応しているということは。何かがあるはずなのだ。

「――だれかいるの?」

 作為的な静寂に耐えられず、僕は口で石を投げてみる。まさか自分が言うとは思わなかったセリフ。だってほら「もし本当に害獣だったら」「いやでも、人なんかいそうにもないし」そんな事言って刺激する前に逃げろよと、ニュースやそういった安いドラマを見る度に思っていたことだったから。

 

 そして、獣は現れた。

 

「――――――え?」

 

 おもわず声が漏れた。それは山に棲む獣ではなかった。この声は安堵が漏れたりしたわけじゃない。その時の僕の顔をもし写真に撮られていたらと思うとぞっとしない。

 だって――獣のほうが、なんぼかマシだ。

 目の前に現れたのは、あろうことか「ゴスロリ」だったんだ。

 あれ――あの衣装には色々と種類があるらしいことを聞きかじったけれど目の前の「獣」がどれに分類されるかなんてことを僕は知らない。知ったところでこの窮地は揺るぎやしないだろう。

 ともかく、緑色と茶色と水色の世界に出現した黒と白のまだら模様は「ゴスロリ」と形容する以上になにか言葉は要らないと信じたかった。

 ――警戒色。そんな言葉がかすめた。

 目の前の「獣」を理解するのに時間が必要だった。足に黒く光る先の丸く膨らんだ革靴。スカートから生えているのはわずかな肌色を根本に備えた白と黒のボーダーソックス。その切れ目は同じく白と黒を基調としたフリフリヒラヒラのスカートの裾に隠されていた。そして、病院用だってきっとそんなに清潔そうな白じゃあるまいと思える手袋は肘までを隠している。首にはチョーカーが中心を主張する黒。そこから視線を下に逃がすと、白と黒の色彩の中で鎖骨がこれ見よがしに浮かび、チョーカーを飛び越えて上に逃げれば唇が控えてもなお主張する赤を際立たせていた。

 まるごと理解しようとして、竿を落としそうになった。

 

「――ぁれ?」

 

 その声は、どっちが発したものだったろう。

 悪い事をして見つかってしまったときのような背徳感が、僕の下着と肌の間をもぞもぞと這っている。水辺にいるはずの肌が重力で渇いていくようだった。

 静寂は全部足しても、そんなには長くなかったんだろう。

 僕は渇いた唇で「もしかして、邪魔だった?」とでも言うべきか考えていた。釣竿を構えたまま、石に尻を貼り付かせたまま、そんな言葉を吐けば無難なのか。それはこの静かなせせらぎとざわめきの中で確かな信号として相手に伝わって行ってしまうだろう。そういえば冷たい石に触れてじっとりと尻が湿っている。

 ピンチになった時には、妹達の声が聞こえるものだ。

「兄貴のさ、そういう自分を責めておけばとりあえず世の中なんとかなるよねって生き方はほんとクソ甘いよね、甘いどころが傲慢だよね、柏木洋菓子店のクロミツバチの巣みたいなクイニーアマンより甘ったるくて吐き気がする。百万年後とかにハチミツの中で化石になったのを発掘されればいいのに」

「おにいちゃん気を落とさないで、あれはお菓子だから許されるんだよ。全然まったく決してこれっぽっちも金輪際未来永劫お兄ちゃんにはそんなしっちゅえーしょん無縁バターだから! じぶんのモーソーをぐるぐるまわってクコドンロウだね! コドクでローンでおにいちゃんにピッタリじゃない? きゃははははははははははは」

 そんな妹達の声が聞こえる。正しい。しかしくたばれ。

 

 ――逃げてくれないかな。

 

 僕はゴスロリに向かって口には出さずそう願う。顔には出てると思う。だってそうだろう。落ち着いて考えたら向こうにとって僕こそ猛獣に見えるかも知れない。このひ弱そうな体躯で? もしも! もしもそうなったら、僕は悲しいけれど追うはずなんかありゃしない。何事もなく、何事もなかった水面の泡のように水面を見つめ続けようじゃないか。

 精神感応能力者〔テレパシスト〕でもないくせに、僕はひとしきりの電波を送りながら逡巡と、羞恥と、期待と、絶望を北極点で七周半くらいかきまぜ終えた。その辺りだった。

 

「――ね、釣れる?」

 

 あろうことか、逃げも隠れもせずその子は僕に口をきいた。

 その声は姿から想像されるものとは違って、甘くはないものだった。僕はゴスロリの声を砂糖の飽和した紅茶みたいなものだと決めつけていたからぎょっとした。

 その声は、まるで涸れてしまっていた。だから一瞬、自然の英気にやられていた僕のアタマは「確かに、喉をやられてしまった妖精が清水に癒しを求めて来るなんてのはありそうじゃないか」なんて納得の仕方をした挙げ句。警戒色に酔っぱらいはじめた頭はこんな返事を零す。

 

「――や、い、いま、きたふょこ」

 

 ――ぅわ! なにそのセリフ、アタマわいてんの?

 そんな妹そのいちの声が聞こえる。ほっとけ、僕だってそう思う。これではまるでデートの待ち合わせの第一声のようではないか。それも一番陳腐な。しかも噛んだ。サイアクだ。

 

「――ね、隣いいかな?」

 

 片手を微動だにしない竿に縛られた僕の心臓に、掠れ声がするりと刺さってくる。涸れた、掠れた静かな声が、キンキンと響くうちの妹たちと同じ人種の声とは思えないほどたしかに、このざわめく谷の喧噪にやがて同化し抜けていくんだろう。まるで、砂混じりのラジオのチューニングがぴったり合ったような快感を伴って僕の鼓膜まで届く。

「――え、うん」

 僕はそう答えることが出来たか。声はちゃんと出ていたか。わからない。けれど、その子は僕の横に、僕の座っているのと少し離れた岩に座ろうとする。イスの代わりになりそうなおあつらえむきのそれに、ポシェットからハンカチを出して敷くと、尻からスカートを巻き込まぬように裾をそろえながら腰を下ろしていく。僕はそのさまをたちんぼうで見ている。人半分の距離で。

 無意識だった。なんとなくだった。思い返せばもったいない。首をすこし横にするだけでそれを見ることができたのに――。

「――えっち」

「――え?」

 沁み入るような声に詰られた。

 そこで気付く。僕の目は、イケナイ視線は彼女の胸元に行っていた。なんてことだ。僕はその声の元を今更のように探る。蔑むような目で見られてしまっているのだと思った。よくわからないまま、いきなり嫌われて慰謝料を請求されてしまうんだ。そんな悲劇は家の中だけで充分だ。まずは、まずは話し合って、誤解を――。

 そうではなかった。その子はうすく笑っていた。

「え、ええっ? い、いや、どうやって座るのかなって、あの、知的好奇心というか! その! ごめんなさい……」

 僕はともかく謝ることにした。実にカッコワルイ。

「――ね、いくつ?」

 急に話題が変わる。彼女は気にしていないようだった。

 このあたりで僕は、やっとこの子の顔を認識する余裕ができた。白と黒のコントラストに惑わされずに見れば、彼女は獣でも魑魅魍魎でもなければ、妖精でもなかった――それどころか、昨夜宿ですれ違った宿の子ではないかというところに、ようやく思い至った。

 一度会釈をしただけだから確かにそうだと言える根拠はないし、訊いて確かめる気概も僕にはないけれど。正しい予感に思えた。

「――じゅ、じゅうろく」

 年を言うのは、恥ずかしがるようなことでもない筈だ。しかし、何故だか恥ずかしかった。僕は、せめてこの子が自分より年上であることを祈った。恥ずかしがっている自分が見透かされているようで、僕はしきりに水面を気にするようにして、少しずつ彼女の方を向いたままの体を、河の方向に戻して行った。

「わあ。同じだ、ね、学年も同じかな?」

 にんまり。そんな音がでそうな笑い方だった。その声に誘われて振り向くと、彼女は僕を見ていた。目が木漏れ日を反射して光っている。目をそらすと、座った彼女の足を守る白黒格子の内側になにをか見つけてしまいそうになって、また河の方に顔を戻す。

「か、かなぁ……」

「そっかぁ…………」

 ああ。ダメだ。もう、沈黙が来た。耐えられない。都合よく魚でもかかってくれないかと願う。そうしたら会話なんていくらでも続きそうなものなのに。ああ畜生、いくら払えば針に掛かってくれるんだ。こんな時になんて言えばいいんだ。黙っていたら怒られるんじゃないか。ほら、今の会話の流れだったら「あ、俺高一、名前も浩一。出会うのが来年じゃなくてよかったよ、そしたらこのギャグ使えなかったからね! ハハハ」とでも言えばよかったんじゃないだろうか。――僕、名前は浩一じゃないけど。

 僕の心配を余所に、彼女は話を続けてくれる。

「地元の人? 違うよね、都会っぽい」

「――あ、うん。わかる? りょ、旅行中」

「一人旅?」

「え、な、なんで?」

 質問に、質問を重ねてしまう。しかし齢十六と申告してしまった以上「今日はね、パパと旅行としゃれこんでいるんだ、優雅だろ? ムフ」はなんだか気恥ずかしくて言いにくい気がした。かといって「あ、パパは今旅館で酒飲んで寝てるんだ、せっかく旅行に来たのにしまらないよね! そんなわけで俺は、一人で渓流釣りとしゃれこんでいるというわけ! ま、釣果はあったけどね。クーラーボックスがからっぽだって? なにをいうんだ、きみという大きな魚がかかったじゃないか!」

 ――とでも言えばいいのだろうか。そんなのはバカまるだしだ。第一、想像できても、喋れるかはまた別の問題だ。

「えー、だってさ友達と来たら一人じゃないでしょー?」

 冷静なツッコミだった。

「……だよね。僕もそう思う」

「あたしも好きなんだ、ひとり旅」

「へえ」

「まだ、したこと無いけど! いつかね」

 ――その、格好で? 

 とでも笑って返せば、話は繋がるのだろうか。試す勇気はいくらクーラーボックスを探っても持ち合わせがなかった。

「ね、もしかして興味ない?」

「え、え?」

「じゃまだった? 釣りも旅も一人でやりたいタイプ?」

 いつの間にか距離が縮まっている。彼女は立ちあがって、一歩だけ僕に近づいていた。致死量の距離まで、あと半歩。

「そんなことない。だって一人だと、え、さみしい、じゃん」

 そもそもひとり旅だなどと、言ってはいないのだけど。彼女はいつのまにか僕をそうだと決めつけていたみたいだった。

 しかし、僕はひとり旅をするようなワイルドさなんてものは持ち合わせていないし、辺りに散らばっているのも釣り道具ばかり、格好は旅をするには無謀なラフさ。聡明そうな――これは僕が勝手にそう期待しているだけだけど――彼女がどうしてそんな推理に至ったのかは疑問だった。

「そっか、よかったあ」

「き、きみ。地元の人、でしょ?」

 ――宿にいたでしょ? と訊けば早かったのだけど、彼女が覚えていないなら、もしかして違うのならいいと思った。

 彼女はにまっと笑った。すると纏った衣装に似つかわしい白い歯が見えた。僕は下の方からのぞき込まれていく。

 いつの間にか、半歩の生命線は侵されていた。「だめ」と怯えている僕と、なにをか期待をしている僕がいて。下から僕を覗き込んでいる彼女はそれすら見越しているような気がした。僕は遥か下の方にある水面に視点をおくようにしながら、顔を少し引いて、彼女の表情を視界の中に納める場所におく。いまにも彼女の顔のどこかがくっついてしまいそうだったから。

「ほんとはひとり旅じゃないよね――?」

「なんで?」

 ひとり旅だなんて、言ってないけど。

「だって、さみしがりやなんでしょ? ひとりで旅なんかしないでしょ。友達じゃなければ誰ときたのかなあ? 恋人? ホントは家族ときたのかな。あー、なんかワケアリ?」

「……いや、フツーに家族とだよ」

 誤魔化しているみたいになった。

「そうなんだ、両親と?」

「うーん、そ、そんな感じ」

 父親とだけ。と言うのは憚られた。なんだかそこにありもしない家族の不和みたいなものや、彼女の言うワケアリみたいなものを産み出されてしまうような気がしたから。

 そこに、また彼女が近づいてきて僕は一歩下がった。三度目。

「――そんなにおびえなくたっていいじゃない、傷つくぅ」

 彼女が膨れてみせた。

「あ、ご、ごめん。えっとほら――」

 僕が油断させられていた。

「――わかるよ。だってほら。こんなだもんね。でもさ、町中でこんな格好できないじゃん? 恥ずかしいし」

「そ、そんなもんなの?」

「だから着替えも森の中でしたの、いつもはふつうの格好なんだよ。でも、しょうがないよ。しなくちゃいけなかったから」

 ――いつもは普通の。

 ああ。やっぱり宿の子だ。あの時はどんな格好をしていただろうか、ハンテンみたいなものを被っていたっけ? 思い出せない。後ろからせっついた父さんの浮かれたピンクのジャケットばかりが思い出されてしまう。恨むぞ。

「――いけなかったって?」

「うん。今日は誰もいないって思ってたから。勝手に」

 また、にまりと笑う。両方にえくぼができる。

 話の流れが読めない。この子はいつもはもっとふつうの格好でいるんだけど、今日はなにかしらの理由があって、わざわざ森の中でこんなゴスロリ衣装に着替えて散策していた――と。

 ――なんだそれは。しかも「こんな格好」と自分で唱えているからには、彼女の中でゴスロリは常用されるべき衣服ではなく、何か理由があって纏う「羞恥を感じさせられる」衣装だということだ。それって――。

「あ、引いてる」

「えっ? ヒいてなんかないよ」

「――いや、引いてるって。軽く」

「あ」

 軽い勘違いは気付かれなかった。そして僕も水面を見ていなかったから――気づかなかった。言われれば確かに竿に振動は来ていた。この魚はどうすればいいのだろう、放っておいて食いつくのを待つべきなのか、それとも引き上げるべきなのか。

「ほんとだ」

「引かないの?」

「――あれ?」

 もっと強い引きがあるんだと期待したのに、竿の振動は止まってしまっていた。糸の先で針が揺れている。「残念」と彼女が言う。僕はガイジンがやるみたいに肩をすくめてみせる。生き餌の虫はまだ残っていたけれど、岩の上に腰を下ろす。

「ひとやすみする」

「ん、釣れないね」

「いいんだ。釣れるなんて思ってもみなかったから」

「え、そうなんだ。釣れないでもいいの? 楽しいの?」

「……楽しいんじゃないかな。――ほかにやることもないし」

 言ってから、僕は自分の科白になにかくらいものを感じた。舌から滑らせた瞬間は、普通の返しだと思った。ここから「ねえ、いつもはどんなことしてるの?」とか「このへんは遊ぶところないの?」とか。陳腐であろうと話は繋がる。だから――。

 ――違うだろ。

 ぬるり、と水面が揺れる。現実の水面はなんの変化も起こしはいない。変化が起きたのは僕の視界だけ。内側から濁った声が響く「――だからさ、今のネタフリはさ。そういうことだろ?」「なんだよ」「おまえ、トボけんなよ。いいよ、ナイスだよ男の子。どうせ後腐れなんかない相手なんだから、まずは脈を測るくらいのことはしてもいいよなァ?」「だから、なんだよそれ」「マジかボーイ、とんだバンビーノじゃんか。いいかァ? 地元の娘ッ子がこんな格好して、お前みたいなよそ者にキョーミしめしてんだぜ。なに引いてんだよ、押せよ!」

「――うっせ」

 僕は彼女には聞こえないくらいのわずかな呟きで、内なる声を封殺した。その矢先。

 

「――ね、ほかにやることがあったら。ほかのこと、する?」

 

 ――はい?

 

 なんか、爆弾が落ちてきた。国営放送日曜夜八時の近代史を振り返るスペシャル番組のごとき神経繊維で作ったストリングス基調のBGMをバックに落ちてきた。彼女はさっきよりずっと近くにいた。白黒のスカートが土に触れるのも構わないそぶりをつけて、僕の耳元でそうささやいた。

 体温が下がり、BGMは転調したあげくフェードアウト。涙のでそうなくらい激しい心臓の音だけが響く。「なんだいそれ」といなすべきか、それとももう一歩踏み込んで「誘ってるの、それ」と聞いてしまうのが礼儀なのか。

 ――いやいや、こんな時こそ僕は他人の経験値に頼るべきではないか! そう、我が高の1ーCが誇るマダムハンタームロオカさんが持ってきた必勝本「女子をハントする15の方法」の事を思い出すんだ。とりあえず思いだした条文を片っ端から提出だ「十二条……とりあえず抱いてから考えろ!」――。

 僕はちらり、彼女の方に目をやる。黒と白の隙間から覗く肌色、その下にある青の筋。そこまでを認識して限界。呼吸が苦しくなって、ピンポンダッシュをはじめてやった低学年男子の如く視線を水面に戻した。酸素がとてもおいしい。

「――ハードル、高ッ!」

「どしたの?」

「――いや、なんでもない」

「なんだ、思いだし笑い? きもいぞ!」

「きびしーなー」

 脳内召還されっぱなしのムロオカさんはこんな僕にもアドバイスをくれる。「そうだな、いきなりやるのは素人の所行! 時に望まれることもあるがそれは上級。まずははじめの一歩! 臆病な子リスちゃんは第一条を思い出すんだ!」――なるほど、しょうがない、なにを書いてあったか思いだそうか、ちょっとやそっと役に立たなくとも話題の足しにはなるだろう。ああ、思いだしてきた――女子ハント第一条は「吸え! むしゃぶりつくように!」

 

 ――なにを。

 

 脳内会議からムロオカ人形を傍聴席に投擲する。まったく脳の無駄遣いきわまれり。有限のリソースは有効に使われねばならない。

 ともかく、あんな品のない雑誌の付録本は、昼休みの話のネタにしかならなかったではないか。ハードルだってやりっ放し投げっぱなしの十二条と高さ――いや、程度の低さ的にはドッコイだ。

 ああ、考えろ、考えろ、魚が釣れてしまう前に考えろ。なぜか自分の側で笑顔をふるまってくれているこの子を楽しませたりするうまい方法を! では第一条から。だからさあムロオカさん! 吸うとかむしゃぶるとかそういうんじゃなくてェっ!

 

 ――ところで、吸うってナニを? 

 

 ちらりと、唇に目がいく。その唇は、動く。

 赤く染められた唇の奥。作り物の色で着飾ったゼリービーンズ。その深淵で奥底で蠢いているものは、呼吸の合間に正負の力を釣り合わせ、無重力の海に浮いている邪悪なピンク色。

 それが這い出てきて、ひとを酔わせる為に生まれたような赤の周りをめぐり、また深淵へ帰って行った。

 きっと、その動作は乾いた唇を湿したかっただけなのだ。ずれた紅を直したかっただけなのだ。リップを行き渡らせるような動作とともに、フィリピン海プレートと太平洋プレートが互いにめり込みあっているんだ。するとその間に空いていた黒い穴はマリアナ海溝かなにかそういう、僕なんかではとても理解出来ない地球の神秘なんだ。

 その奥には図鑑で見たような生命の神秘が這いずり回っていて、やんちゃな僕らの好奇心を刺激したりするに違いない。そして生命の奇跡をひとつ解明したら、貪欲な人類は次の好奇心を満たすために新しい海溝や、海底火山を見つけに行かなければならないんだ。

 そうだ、火山はきっと似たような大きさで二つ並んでいるるし、まだ見たことの無い海溝は恐るべきガードの内側に、楽園を秘めて、僕を待っているのかもしれないじゃないか。

 それはさておき、僕の体では意識とずいぶん遠く離れたところで地震が起こって、地盤がしきりに隆起を繰り返してしまっており、津波警報が発令されています。警戒して下さい。

「きびしーなー……」

 足下に釣り竿は転がったまま。沈黙の前に転がった言葉を拾って、噛んで、もう一回吐き出しただけ。味なんてしない。味なんてしたのかどうかもわからなかった。こんなんじゃ「ほかのこと」なんてどうしたって叶いやしない。

 それはそれでいいのかなと思う。余計な事を口走って雰囲気を壊してもうまくない。きっと地元の民である彼女は、余所者〔ストレンジャー〕である僕に飽きれば、家に帰るのだろうし――。

「――もう、しないの?」

 見透かしたように、彼女は僕を揺さぶってきた。それも全身で。手は後ろに組んで貞淑を装ったまま、僕の安全を侵す。領空も領土も、関係ない。

「――なに、を」

 唇が動いた。「キマッテルジャナイ」と言ったようだった。視界に踊る白と黒と赤とピンク。唾液を飲み込むこともままならない。重心はとっくに背中側にあるのに、摩擦のなさそうな白い両腕が僕を掴み殺してしまいそうに思えて――。

「危なッ!」

「――――ッ!」

 河を背にしていたのに、油断しすぎていた。道の前に足を踏み外した。落下予測点は崖の下。重心と地球を結ぶ線の間に佇む残酷な空気〔エア〕。なんだ、死ぬのか――。

 そう思うまでもなく、僕は此岸に引き戻される。彼女が僕を引っ張る力が勝った。整列したシルクの起毛すら気にさせない逞しさで、さっき座っていた岩のそばにくるりと回転して軟着陸させられたんだ。

 アタマの上のほうからせせらぎが聞こえる。 

「あ――と、っと」

 彼女の靴はきっと踏ん張りが効かない。中空で姿勢を立て直せなかった白黒は、僕を木漏れ日から守る傘に変わり――僕の上に落ちてしまった。意外に重いものだと思った。

「――ぐぇ」

 彼女と僕は、腹同士で触れあう体勢になった。

「――動かないで。こそば――あっ!」

 立ち上がろうとしてもがいていた僕の上の彼女は、差し迫った声をあげて、体を伸ばした。腹のあたりが僕の顔に当たった。あたたかく、呼吸がしにくかった。体が伸びたとき、白と黒のウロコが僕の顔を逆撫でしていく。その下にある骨が少し痛かった。遅れて、彼女と宿がまじった臭いがした。まずい。

「んグっ! なに」

「釣竿――、あ」

 すぐに彼女は体を起こした。僕の胴体は黒と白でできた不思議空間の中に消えていっている。そこから目を彼女へと逸らす。呆けたような目で右手を見ていた。指先と腕がきらきらと木漏れ日に反射している。宝石なんか付いていないシンプルなもののはずだったのに。きれいだと思えた。

「――落としちゃった」

 僕を見ずに言った。光っているのはテグスだとわかった。彼女はきっと糸から先に手繰ったけれど、糸は切れてしまったんだろう。魚だって釣り上げられる筈の糸は、自分のあるじすら支えきれなかったんだ。

「――興奮してる?」

 彼女は僕を見て、作ったような驚きを含めてそう訊いてきた。

「う、うぇ?」

 ――なんのことだか。

 わかっている。自分でもまさに「痛いくらい」わかっている。

ふわりとしたスカートの下には、僕の下半身が隠されているんだ。いっそのこと騙し絵みたいなその色調のなかで消えてしまえばいいのにと思った。

「よかったねえ、落ちなくて」

 彼女の上半身が迫ってくる。同時に彼女のからだも動く。するとどうなるか。大変な事だ。痛いくらいにわかっているその部分が――もしかしたら確実なことになってしまう。それってサイアクかケイベツじゃないか。

「ほらぁ」

 扇情の滴るかすれ声に合わせて、彼女の体はじわりと動く。風に吹かれるそこらの雑草のはやさには追いつけないくらいの鈍さ。しかし、その鈍さが、僕には――。

「やめ――」

 理性が、声を絞りだした。もったいない。

「うそ」

 顔が近くなった。彼女の片手が耳の傍の地面に付けられた。

僕の反応を楽しんでいるイタズラな目をしていた。見透かされるのが怖くて、目をそらす。その下はイタズラにしては度が過ぎた唇だ。僕は八方塞がりだ。目をつぶればいいじゃないか。それはこわいじゃないか。見ていてはいけないようなものばかりがあふれているじゃないか。

 だから視線を下へ。胸元に――見える、アイボリー。

「みれた?」

「っご、ごめん」

「――なんで、あやまるの?」

「え、えっと、ブラ」

「――みれたの。みたんだ、良かったねえ?」

「う、うん」

「あはははははは! すごい、ねえ、めくって見せようか?」

 こんなに涼しいのに、脳が髄まで沸騰しそうだった。河の中に飛び込んで冷やすことができたら、生き延びられるような気がしたけれど、彼女はそんなことお見通しで許さないとばかりに、脚で僕の胴体を逃がさないように掴み込んでいるんだ。見えないけれど、土の上に拡がるスカートの中で。

「あはは……ふふ……くくくっ」

 彼女は白い片手を唇に当てて笑っている。テグスがまだきらきら光っている。もう片方はまだ土の上。口にあてられている指の先も、さっきまでやわらかい土に触れていたから、きっと土の臭いを嗅いでいるんだ。

 彼女は僕の上に天蓋のように覆い被さったまま、まだ笑いの余韻を噛みしめている。その度に僕の視界の下で白と黒が揺れる。目がチカチカする。さっき見せてやろうとからかわれたあの中には、一体何かあるのだろうか。

 それを見たいと思って――実際に見られるものなら、見てみたくもあって――そう思って、僕が動いたらなにが起こるんだろう。目の前の油断しきった生意気な腰。僕をバカにした笑い声と唇にささやかな復讐を試みてもいいんじゃないか――。

 ――バカな。僕はよこしまな想いを打ち消したくて、頸に入れていた力を抜く。草の上に落ちた後頭部に小石がめり込んだ。

「てっ」

「どうしたの、なんか噛まれた?」

「……いや――石。――服、汚れるよ。立たないの?」

「あは、気づいた? あれ、元気なくなっちゃった?」

「――ね、僕はいつまで寝ていたらいいのかな。虫は嫌いだし、きみも汚れるでしょ――自慢の服が」

「――汚したい?」

「――冗談」

 まだからかわれている。僕はもうその挑発に乗るつもりはない。アタマを打った痛みは僕の目を覚ましてくれた。これは周到な罠か、気まぐれのお遊びなんだって。ほんの少しだって脈なんか無いんだって。悲しいけれど、当然だ。

「――そうかな? でも、逆だったらいいのに、とか、考えてるんでしょ? ――さっきだって、ちょっと、期待してたんだ。反対だったらあたしは、抵抗しないかもしれないものね……こんな、深い森の中だし……ほら、ほらほら、タメしてみない?」

 彼女が手を離し上半身を垂直にする。布にくるまれた深淵を僕の腰に打ちつけるようなフリ。

「――か、考えてないっ」

「ほんと? うーん、それはそれで傷つくかなぁ。じゃあさ、逆だったら、きみはどうしたい?」

「ど、どうもしないよッ!」

「――しないんだァ」

 掠れているのに甘い声。木漏れ日の逆光。なんで、なんで僕の感覚はこんなにも敏感になってしまったのか。土の音が聞こえる。地下を流れる水の音すら聞こえる。一体どのくらいの時間、僕は彼女の支配下にあるんだろう。短いようで長くて、近いようでまったくもって遠い蜜月とスッポン。虫と葉がこすれる音も、風と枝がこすれる音も、ゴス服のひらひらと草がこすれる音も、互いの吐息が唇の境目を擦る音も、ぜんぶ聞こえてきてしまう。

 ついさっき諦めたはずなのに。

 だからかもしれないし、白と黒の催眠術にかかってしまったからかも知れない。なんにせよ、チキンレースに負けるのは、きっといつも男の方なんだ。

「――ケイタロウ」

 偽名のことは、思いつかなかった。

「名前?」

「うん」

「ずるいな」

「な、なんで?」

「だって、先にいわれちゃったら。言わないわけにいかないじゃない、ね?」

 笑っていた。さっきみたいな邪悪なものじゃなかった。名前を教えてもらえそうな流れに、横たえられた時間が長すぎて蟻の集った〔たかった〕上半身を起こしてしまいそうになった。

「――でも、内緒」

 充分堪能したとばかりに、口ずさむ。

「なんでさ」

「なんでもさあ」

 名前を隠すことには意味があるのだろうか。名前に意味があるのか。訊いてはいけない気がした。もう一言言うと、にんまりと笑った唇の隙間から正解がこぼれ落ちてきてしまいそうな予感があった。そうなると、この体勢も、今この瞬間を包むすべての音すらも失われていってしまいそうな。そんな、悲しい確信を抱いた。

「もうすこし、前に出たっていいよ」

 前に出たら? ってなんだ。どうなるんだ。彼女の言う前とはなんだ。

「え、なに」

「こう」

 片腕を掴まれる。僕は今まで通り、されるがままになっていたんだ。

「で、こう」

 そして僕のでくのぼうな腕は、中空へ。どんどんと乳酸が溜まって重力に捕まってしまいたくなる。腕に付着していた湿った土が代わりに落ちていく。そして僕の腕は、白い山の上でホバリングせよとの命令を受けた。あと、二センチ。

「――こうすると、どうなる?」

「またからかってんでしょ」

 僕は憮然として言った。

 決まっている。この布の先には行けない。もしももう一歩踏み込めばこの山は崩れる。崩れると言うより凹むんだ。知ってる。なんにせよ僕に与えられるご褒美は偽物まで。フェイクを掴んで喜ぶ僕をテレビの前で笑おうって魂胆なんだ。

「――性格悪い」

「なによ。じゃあ、さあ、もっとはっきり確かめてみる?」

 きいん、と一瞬耳が遠くなる。なんだ、確かめてみるって、なんだ。彼女はそう言うと掴んでいた僕の手を土の上に倒す。油断していたもう片方の腕も捕まって、半分のひねりをくわえられたきれいな回転を描いて僕の頭上に着地する。そこにはもう片方の僕の手首が土の上に無様に斃れて〔たおれて〕いる。僕は押し倒されたような格好になってしまっていた。彼岸でムロオカが絶頂前みたいな情けない形相で叫んでる。――お、おれ、ヤング誌のマンガで見たことあるぞ、こんな展開! 卑怯だ、クソッ! これは敵だ! 俺と代われ!

 ――黙ってろ、ムロオカ。

「なんのつもり」

 彼女は答えなかった。その方が僕の怯えが殖えることを知っているんだ。そして、ものすごい力で――いくら僕が都会のモヤシだからって、マウントポジション取られているからって、それにしたって揺るがなすぎる握力をもって僕の両腕をたった一本の腕でまとめてしまった。

「なん――ッ!」

 僕は身に迫る危機を察知する。第二準備室に呼ばれた次の月に転校した志倉昌樹くんのことが閃光の如くよぎる。不自由な体と、自由な足を精一杯ばたつかせた。

 けれど、微動しかしない。

「――しずかに、なさい」

 ぴしり。と自由になった彼女の右手がズボン越しに僕の尻をしたたかに叩く。僕はそのいち打擲〔ちょうちゃく〕で自分でも驚くほど大人しくなってしまった。画用紙で作った剣が折れてしまって、言うことを聞くしかなくなった幼稚園児のように。

「――はい」

 だからといって、わざわざ口で従順を示すことも無かったんじゃないかと思う。でも、彼女は満足そうに頷いた。その表情を飴と思ってしまったとき、僕の周りに兵隊はいなかった。

 彼女は勝ち戦でも手を緩めたりはしない。従順を主張する僕の腕を解放する油断など見せず、彼女は自由な片腕で自分のカチューシャと髪留めを外す。髪が乱れ流れた。服を除いて髪から上が樹に伝っていくような、そんな錯覚を覚える。

 脳から上を自然に任せた彼女は今度はゴス服に手をかける。襟にほど近い点ファスナーを一つ外し、二つめも外す。鎖骨の面積が拡がり、さっき襟元から見えてしまった肩紐と同じ色をした下着の本体がちらり。

 

「――ほら、来ていいんだよ」

 

 僕は「まて」と「おあずけ」を数十回繰り返された後のイヌのように暴れた。でも、彼女はやさしい言葉とは裏腹に、僕の両腕を頭の上で戒めたままだ。腰の上に乗ったスカートの中身も、僕の自由にさせてくれそうじゃなかった。言葉と裏腹の行動に、どうにかなってしまいそうだった。

「――うぅ」

 みじめな、掠れた鳴き声が出てきた。

「……なんで」

「シたい?」

 

 僕は返事をしたんだろうか。しなかったような気もする。舌としてもそうと言わない気がする。なんだっていいや、さっきは生意気な事を言ってごめんなムロオカさん。僕は先に行けそうもありません。

 

 ――あ、うで、疲れた。

 

 するっと抜けていた。力が抜けていた。腕はどうやら自由になっていて、起き上がればきっとパラダイス的なものに辿り着くことができるようになっていたんだろう。

 しかし、それを認識する前に、白と黒は落ちてきた。

「――――ふあ」

 胸と全身に衝撃があった。そして、そんないたずらを含んだ声を聞いた。さっき落ちそうになったときの接触よりも深い。

 きっと『ふにょん』とか、そんな蜜を与えてもらえるのを僕はどこかで期待していたんだ。そんなものはなかった。紗〔うすぎぬ〕の向こうにあるそれはマシマロとかメレンゲとかスポンジじゃなかった。でも――呼吸がリアルに苦しかった。

 

 意外と、柔らかくなかった。

 意外と、重かった。 

 意外ではないけれど、暖かかった。

 

 リップの味は期待はずれで、感触は素敵で、すごかった。

 いつの間にか呼吸はできていた。

 やわらかくて、固かった。

 

 耳がもう聞こえなかった。心臓の音だけが振動でわかる、隠しきれないし聞こえているだろうし、もうお構いなしだ。僕はずっと口や目から流れてしまいそうだっただらしない物を垂れ流し始めた。きっとドウブツのようなんだろう。漏れた吐息すら嚥下されていくんだ。甘い香りがするから、そうだ。

 やがて全身の穴にハッカ水を流し込まれたような痺れが、じわじわと僕の輪郭を象ってゆっくりと引き戻されていく。

 唇と唇の間に橋が渡った。すぐに橋は崩れて、唇の上に落ちる。この僅かな間に冷えた、さっきまできらきらひかる橋だったものが唇から熱を奪っていく。

「ふーん」

 今度は上半身が擦りあわせられた。さっきの服と服が擦れあったような児戯とは違う。肋骨と肋骨が服の上からお互いの上に乗り上げ、こりこりと音を立てる。「ひ」と情けない声が出てしまう、やっぱり聞きのがしはしなかったと見えて、笑みを浮かべている。

「ほら、変な声だして、やらしいんだあ」

 せせらぎにかき消されそうな、密やかな声。

 さっき自分の内側にいたものが奏でる。ことば。

「ち、ちがう。くすぐったいんだ!」

「へえ、でも、きみさあ。あたしの下にされたときからずっと興奮しっぱなしじゃん。オトナはいいこと言うもんだよね――きみの体は正直、だな」

「なっ!」

 羞恥で顔が赤くなる、思わず体を横に傾ける。

「逃げないで。ね、なんで焦らすの。もう、いいでしょ――」

 僕は作り上げられた限界が迫ってくるのを感じていた。さっきの橋渡しがスイッチだった。ゴシックの檻に閉じ込められた生き別れの僕が泣いている。出してくれって泣いているんだ。

 だから、さあ。もういいでしょう――?

「――そだそだ、名前聞いたのにさ、まだ言ってなかったね」

 さっきよりもずいぶんと遠くなった。また表情の見えない場所だ。首をあげれば見えそうな。

「う、うん、教えてよ」

 名前なんて、どうでもいいから。と、檻の中でむずがっているドウブツがいる。その檻の管理をしているきみは知っているはずでしょう? どうしてさっきから知らないふりをして虐めるんだ、よくないよ。と啼いている。

「そうだなあ。上の名前と、下の名前どっちがいい?」

「え、上って名字?」

 ドウブツが僕の考える力を奪って行ってしまっていた。脊髄が言うまま、素っ頓狂に聞き返す。

「うん、もちろん。下は名前だよ。……町には教会があるらしいけど、ミドルネーム持ってる人なんてみたことないよね。都会にはそう言う人、フツーにいるのかな」

 それは、試すような笑みだった。――というより、訊かれたら困ることを選択肢の中に入れている。なんだそれ。どんな困ることがあるんだ。女子ってのは面倒だね。

「ほら、どっち?」

 下の名前の方を聞きたいと望むのが、正しいルートのように思えた。だって名字を知ったところで「ヘァア、この辺はどったらおんなじナメエだしよ」てなもんじゃあるまいか。アノコもコノコもヤマダだったら、聞いてみたところで悲しくなってしまうかも知れない。だったら、下の名前がいい、可愛らしい名前だとなおいい。最後に「子」とかついてたりしてても構わないけれど「おハナ」とかだったらとりあえずタイムスリップを疑ってみようじゃないか――。

「した」

「そ。じゃかじゃーん、発表。あたしの名前は――」

 すっ。と彼女は息を吸った。いたずらな甘い息を胸の奥に溜めて、そのよくできた鞴〔ふいご〕を僕の耳元に近づけ。そして、花壇の繊細な花に霧吹きで水を吹き付けるように囁いた。

 

「――シュウイチ」

 

 耳の粘膜が次々と死んでいった。

 

 そして、 彼女 は未練なく僕の上から退いた。

「は?」

「――じょうだん、だよ」

 跳ねて人半分離れたところに着地、モノクロの鱗が捲き起こる風になびく。彼女はドレスが重力に惹かれきる前に、端を摘み、僅かに持ち上げて、僕に一礼をした。

 その顔には恍惚が宿っていた。酷薄さすら感じ取れるあの微笑みだ。ああいった表情を「上気している」とでも言うのかも知れないなんて、小数点以下残った冷静な自分が提言して、消えていく。

 お辞儀を終えた目の前のそいつは、鎖骨と肩紐が覗く肩口に細い指をやり、アイボリーの紐を隠していく。もとに戻していく。なのに、目だけは爛々と輝かせたまま僕を見ている。夜の中に棲む獣か妖魔のたぐいが、捕食する相手が逃げぬよう、その影を視線ひとつでつなぎとめている。もう、上に乗られてなんかいないのに。逃げることも、さっき考えたように今度は逆に押し倒して――こんなところじゃとても言えないようなことをすることだって、やってやれないことはないはずなのに―――――。

「――――」

 とっくに、捕食されていた。

 完膚無き敗北を喫していた。

 その明らかな男名前を「じょうだん」と否定したその口調すら本当の事を告げている。中性的な顔立ちも、うすいヤニの臭いも、力強い細腕も、透徹なハスキーボイスも、薄っぺらい胸板も、外さずじまいだった喉もとを隠すチョーカーも――なにもかも「じょうだん」に思わせてはくれなかった。

 でも、この口元はまだ震えている。生まれたての鹿のように足に力が入らなくて、立っているのがやっとなんだ。

「――ごめんね、なんかいろいろ意地悪しちゃったみたい。なんだろ、羨ましかったんじゃないかな。うん、あたしが」

「なにが?」

「えっと、都会とか?」

 シュウイチは半笑いだった。ちらちらと僕の来た方を見ている。そっちにはきっと、宿がある。シュウイチの家がある。

「帰り道、わかる?」

 やさしい言葉だった。

「うん」

 僕は素直に頷いた。その言葉が本心から出てきたことがわかってしまったから。

「――でも、もうちょっとだけ、いたほうがいいかもね。でも、きみのひ弱な足なら大丈夫かな」

「はは、なんだよそれ」

 僕はこの期に及んで冗談だと信じていたかったらしい。地声を聞いても、自分とそう違わぬ身体の凹凸を目の当たりにしても油断をしていたんだと思う。それとも、自分の身に起こったことを「事故」とか「不幸」とかそんななまっちょろい言葉で誤魔化そうとしていたんだ。

「なんでかなぁ。あたしもさ、ほっとけばいいと思うんだよ」

 シュウイチはもうカチューシャをつけて、背中の釦〔ボタン〕も止め終わって、登場したときの姿そっくりになっていた。

「でもさぁ、なんか幸せそうだしさあ、なんていうかそんなことしてやる義理みたいなのまったくないんだけど、でも、なんか――なんだろうね。……わかっちゃいるんだけどね、スジ違いだって」

 腕を組んで、一人で頷く。

「かわいそう?」

「だって、さ。家族のこと、好きでしょ?」

「いや――べつに」

 なんだこの質問は。とまず思った。しかしその質問の異様さ、気恥ずかしさを堪能したあとに違和感に気付いた。シュウイチの表情は「かわいそう」と僕を憐れんで――もちろん僕は、一体何を憐れまれているのかわからないのだけど――そうしているその表情はどうにも楽しげで、いまにも笑い出してしまいそうなくらいだったから。

「好きでしょ?」

「いや、きらいじゃない――けど」

 シュウイチがふらり退がった。腕がきらめいた。あるじのないテグスがまだくっついていた。シュウイチもそれに気付いたのか白い手袋を脱いでゆっくりと解いていく。少し焼けた確かな腕にテグスの痕が残っているのがわかった。

「それはさぁ――、好きってことじゃないかぁ」

 シュウイチは表を下げ、また上げてそう言う。手元でテグスが綺麗に巻かれていく。どことなく悲しそうな、なにかを諦めたりしたような表情を一瞬見せたけれど、すぐに沈んでいって、まがまがしい笑顔だけが顕れたままになっている。

 締めそびれた蛇口のように、ゆっくりと、とめどなくシュウイチは続ける。

「――わるいことは言わないから。あともう十分くらい待ってから帰るといい。それでも見てしまったらしょうがないねえ。そのときはあたしを責めないでね」

「きみは――どうするの」

 意味のない質問だと思った。彼は僕を、僕は彼を名前を知ってもそうとは呼ばなかった。それでもそんな問いしか、話をつづけられる言葉がわいてこなかった。

「――」

 シュウイチは何をか言おうとして言いよどんだ。

「なに?」

 僕は気付いてしまった。だから、聞いた。

「――あたしはまだ家に帰らないよ。お客さんが来ているからね。お客さんは都会から来るんだ。きみと同じ。その人は、きみの身体に染みついたのと同じタバコの臭いがするんだ。奇遇だよね。あたしも、あのひとも同じのを吸っているんだ。いつからか、急に。あたしは最近だけどね。同じの吸ってるのはさ、バレないために」

 あのキスの中に感じた郷愁と既視感。

「でもさ、タバコの臭いってつよいからきっとバレているんだ。似たような臭いがしてもきっとバレてる。でもあのひとは黙ってるよ。あたしになにをか言うシカクなんて、ありはしないんだもの。でもハッカの味がするタバコの臭いなんてさせているから――おれは、さあ、嫌われてしまったんだ――」

 途中から僕にむけた言葉ではなくなった。

 シュウイチは誰にともなく、強いて言うのなら――。

 

 

 よろめくばかりの風が吹き、少年の言葉をかき消していく。

 

 

 ――だから、同じ事をしてやるんだ。

 

 

 そしてすぐに、凪いだ。

 はたして、彼がそう言ったのかは僕の耳はちゃんと捉えてくれなかった。唇は今までと同じ調子で、違わず動いていた。けれど、その顔は、言葉と口調に満ちた空しさや怨恨や嫌悪みたいなネガティブたちと裏腹に、愉しみに満ちたものに見えた。

 だから、ちゃんと聞き取ることが出来なかった。まるで、その瞬間だけ世界を真空に変えてしまったがゆえに起きたような突風だった。

 細く、華奢な腕に被せられた手が、僕の腕を袖越しに掴む。僕はそれを追って掴む。女子のものではあり得ない圧倒的なエネルギーがレースの向こうから伝わってくる。その下では伸縮に富まぬ繊維とかたい肉が張り詰めているんだ。

 握手が終わる。

「――ほら、やっぱり都会の子はひ弱だ。あたしなんてこんな細いのに――、ね。なんかさ、肉とかつきにくい身体みたいなんだ。おあつらえ向きに肩も細いんだよ。すごいよね、でもやっぱり脱いだらわかっちゃう。だからこの服は黒いんだ。……逆に言うと、脱ぐまで本当かどうかわからない。なんだっけ……バームクーヘン? ――の猫みたいだよね。剥いても剥いても死なないんだっけ? わ、ザンコク」

 

 ――バームクーヘン、ザッハトルテツベルクリン、ブッシュドノエル、シュバルツバルト、ジンジャーエール、マイスタージンガー

 

 ――シュレーディンガー。の、猫。

 

 そうか、猫だったのか。

「――ほら、きみも箱を開けてあたしを殺してみる?」

 猫がどうして、そんなに悲しい顔をしてみせるんだろう。

「そしたら、ガス室に送られるのは僕じゃないか」

 釣り竿はどこにいってしまうんだろう。

「でも、虎穴に入るんでしょ、男の子は。猫も虎も大して変わらないもん。――ねえ、きっとさっきやろうとしてたみたいに、あたしを脱がせる勇気はまだある? あたしを愉しませて、自分をたすける算段が、きみにできる?」

 僕はしばらく答えられなかった。

 だって、もとより持ち合わせているはずがないものだったから。僕が持っているのは昼休みのバカ話のネタにしか役に立たないムロオカ十二条だけなんだ。それには逃げ方なんて書いてなかった。釣った魚に食われたときは黙って腕を差し出すしかない。その方がきっと傷は浅くて済む。

 沈黙は答えとして受け付けられなかった。きっと無言で上げたら、焼かれて目が見えなくなる。

「――かわんないよ」

「うそ」

 それは確かで静かな一言だった。静かすぎて、目を離していた僕は彼の方を向いた。顔をゆらめかせて怒っていた。でもその目は僕の目より後ろを見ているような気がした。

 掴まれた腕が、そのまま胸に導かれる。さっきの空白を埋めてみろと言っている。不敵な笑みが画面の端に映っている。僕の息と心臓は荒くなっている。意志を失った中指の先が、ふわり、左の山へ登頂する。布に触れている。摩擦。振動。脈動。

 ――この指先がものすごい敏感な器官だったら、僕は感電して死んだだろう。布にくるまれた山の頂上は、魔術めいた胞子を産み続けるキノコが化けていたんだ。人を魅了して殺し、その養分を根から吸う、お化けキノコの類。

「ほらっ!」

 僕の掌はその柔らかい山を押しつぶす。感触なんてない。自分の胸板と触ったときと同じ胸板の感触だった。ただ、そこからはじくじくと毒を帯びた電気が沁みてくる。

「――ああ、きょとんとしちゃってさァ。おれだってそうさ、おれだってこっちに来るんだとばっかり――思ってたのになァ。そうなんだあ。じゃあさあ。なんで、おまえなんかを連れてきたんだろう……」

 もう隠されないボーイソプラノが遠くに聞こえる。砂漠のように渇いた声で僕を殺していく。脅かされた僕の水が逃げ場を探して出て行ってしまう。

「――泣けんだ」

 風が凪いでいく。土の臭いがする。

 覆われていない空を求めて這い出した線虫が、故郷とは違う土に潜っていく。

 

 頭の中で仮死状態のように動きを止めていたいくつかの灰色の点が、ゆっくりと起き出しそれぞれが自信なさげに繋がり、線になっていく。それらは絡み合い、はっきりと黒さを主張する糸になり、文字を描いていく。

 たとえば不安、恐怖。そして疑念、怨恨。やがて煩悶や情動と呼ばれる名前を授かった。赤子たちはまるで四十代中年男性のメタボな血流のように弾まぬ壁や無様な仲間にぶつかり、たくさんの死骸を道の上に積み上げ、ずるずると流れ、円環を描き、光に似た速度で全身を巡る。それぞれの文字は「きみはじぶんの嘘で死ぬの?」と小さな声で囁いた。

 けれど、そんなものが通れるような隙間はもう、少年のどこにも空いてなどいない。

 

 

 帰る道が、思い出せない。

 

 

 

 

 おろかな少年が、死んだ猫を見つけてしまった頃。

 

 もうひとりの少年が、ぽろぽろと涙を流している。

 流れてしまった釣竿のことを、ずっと惜しんでいる。

 

 

 少女のように。

 

         <シルクロジック・クロスゴシック 了>