トランスパラント・フットプリント

ちはやブルーフィルム倉庫

テルミット・ルミネセンス

           ■1■

 

 ――「納涼十三里半浜大花火大会」

 

 ブロック塀に貼られたポスターだった。近くの中学生が描いたらしきそれは、花火そのものよりも浴衣を纏った少女が真ん中に配置されていた。下の方には日時と場所と注意事項が大きく赤字で印刷されている。その情報の群れは、少女が手を引いている小さな少年の存在を隠してしまっていた。

 ぼくは指先から零れそうなアイスの雫を舐めとった。冷気を溜め込んだ胴体の霜が、一瞬舌を吸い込んでぺったりと貼り付いた。ぼくは舌とアイスの間で熱のやりとりを続けさせたまま足を止め、ぼおっとそのポスターに見入る。汗でメガネが鼻からずり落ちる。

 ――納涼というのは、納豆と何か関係があるのだろうか。

 ぼくは「涼しい」という字が使われていることにそれくらい実感が沸かなかった。だって今日はとてつもなく――きちがいみたいに暑っくるしいじゃないか。このままどんどん暑くなるってテレビは言ってた。だから、何日もあとにやってくるこの花火大会の日だってこの上なく暑いに決まっているのだ。

 アサガオは花を咲かす前に枯れたし、アスファルトに棲んでる妖怪はスニーカーの底に貼り付いてぼくらを転ばせようとする。生きもの当番で誰もいない教室の扉を開けると水色のはずの水槽がどうしようもなく緑色になっていた。そこでは赤いものが浮いていて、白いものだけが生きていて、そのことを主張するかのように教室中に異臭をまき散らしていた。

 誰が悲鳴と一緒にそのキショいのをトイレに流したのかは覚えていない。

 こんなものが教室にほったらかしになっていたのはいったい誰のせいなのですか。登校日、みんながいそいそと帰りたがる中で担任は続ける「生きものをたいせつにしましょう。誰のせいでもなくこれはみなさんのセキニンです。みなさんももうすぐ高学年なのですから自覚と責任を持って行動しましょう。目的を持って行動をしましょう。宿題は終わらせることだけではなく、考えることに、その過程にこそ意義があります! 改めて言っておきますが、おうちの方に手伝って貰ったようなものは再提出を命じます。先生にはわかりますからね。一学期の終りにちゃあんと先生言っておきましたよね? よろしい、それでは残り少ない夏休みを有意義に」これは矛盾点を探す抜き打ちテストに違いないと思った。担任の公平さ溢れる物言いに、一学期の学級委員長であったユカちゃんの正義が沸点を迎えた。

「いいえせんせい、私は納得いきません。これは私たちの責任ではありません。きちんと世話をしなかった誰かの責任ではないのですか」

 うんざりが教室に充ちる。男子から「えー、いいじゃんもうかえろうぜ」と言葉になりきれないくらいの薄い意志のかたまりが漏れる。ユカちゃんを慕う女子の何人かが「そう、そう!」と三国志武将の名前を挙げる。ところで、ぼくらの学級文庫に備えられた三国志のまんがは特別なもので、そもそも毛の薄そうな武将ですら関羽のようなヒゲを蓄えさせられていたり、張飛が少女漫画ばりのキラキラ瞳にさせられていたりする。この教室に代々受け継がれた、他に類を見ない三国志は三十四巻が二冊あって、四十七巻が欠巻だ。

 結成されたユカちゃん応援団に与さない他の女子たちは、ひそひそと関係ない話を始めたりしている。ジァスコの三階に入ったクララ・メイ・クラブが開店セールだから観に行きましょう、昨日岩場のコンビニで補導された六年の不良、海岸から岩場のむこうに夜の二時になると見える奇妙な緑色の灯、ファッション雑誌の早売を手に入れたので一緒に見ましょう、クリームぜんざいたべたーい、ちょっと丸沢さん達きいてるの? 真面目に話しているんですからね! いいんちょうざくねー、もういいんちょじゃないのになんか勘違いだよね。えーいいんちょうはいいんちょうっていわれていい気になっているんだもんねー。なにそれなにそれヒック。新委員長、丸沢さんたちがいいんちょーなかしました。ないてまーせーん! 男子てきとーなこといわないで!

 ぼくはその様を見て、ユカちゃんは何も言ってないのにかわいそうじゃないのそれ、って思う。そもそも委員長の役だって彼女はやりたくてなったわけじゃないことも知っている。でも、ぼくは何も言う術を持たない。言ったところでいいことなんてないし、そんな義理もないもんだ。ヒーローのような正義感なんか、持ち合わせちゃいないから。

 生温い風が入ってきてカーテンを揺らし、窓際一番後ろのゴンちゃんの顔を包み込む。ノリのいいゴンちゃんはそのまま「くそう! 俺はこの程度では屈しないぞ! 勢いを殺さず、生かして仕留めるのだァー! 必殺暗黒グルグルローリンモガモガモガモガ!」とさけびながらカーテンの中に自分から飲み込まれていった。男子はそれを見てげらげら笑い出す。その隙をついて先生は、学級委員にではなく、教卓の前を指定席にする西村くんに号令を頼む。西村くんの気に障るくらい高い声の号令は、教室の海の底のように重く湿った空気の中でもよく通った。

 ――はいそれではまたにがっきにみなさんげんきでさよならさよなら、さいごのひとはせんぷうきのでんげんをきってくださいね。いつもよりめかしこんだ担任は、金属でできた紐みたいに頼りなさそうな時計をしきりに気にしながら教室を逃げ出していく。

 夏休みがまた動き出した。

 ユカちゃんの周りにとりまきの女子が集まる、斉藤、うらら、甘木。「なにあれーひどくなーい」「西村マジないわー」そんな声が聞こえる。教室からはどんどんと生徒が消えていく。ユカちゃんは首を横に振る、取り巻きはお互いの顔を見回すと、魂の入っていないような目で、口に不吉な三日月を浮かべてユカちゃんに手を振る。そして去っていった。

 

 ぼくはというと、それを片目に見ながら机の整理なんかしていた。持って帰っていなかったリコーダーを手提げの中に入れる「あんた夏の間に雑菌がいっぱい繁殖したリコーダーを新学期に使うつもりなの? 死ぬわよ! 夜更かしで荒れた剃刀みたいな唇の皮が、唇を切って、そっから菌が入ってハショーフーにかかってあんたの血液がハショーフーに負けてハイケッショーで死んじゃうのよ! いいからつべこべ言わず持って帰っていらっしゃい!」ママが家庭の医学を片手にそう叫んだ。

 吸うわけじゃないんだからそんなことでビョーキになんかなるはずがない。でも、ぼくは言われるがまま、律儀に笛を持って帰る。怖いから中は見ていない。これで新学期にはプールの臭いがする笛を吹くことになるに違いないんだ。

 どうせママは消毒のことを夏休みの終わりまで忘れてるだろうから。

 今日はクラスの殆どがランドセルじゃなかった。教科書もノートも必要ないのに持って来る意味はないからだけど、手提げバッグを片手に持っただけのクラスメイトたちは思いの外身軽に見えた。

 ぼくは工作をする時やっぱり見あたらなくて困ったハサミとのりと長定規を手提げに入れる。居間から持ち出すと、ママがいちいちうるさいし、居間のハサミはどうも大きすぎて使いにくかったのだ。

「――――」

 ぼくのうえに影が降りた。呼吸の気配がした。ぼくはいやな予感を覚えたけれど、それは顔を上げた後に気付いた。

 それは平静を装っているけれど、明らかに怒っているらしきユカちゃんの影だった。

 ユカちゃんは帰り支度をして、ランドセルを丁寧に背負っていた。さすがだなあと思う。何がさすがなのかは、ぼくにもよくわからないけどそう思った。そんなこと考えている間もずっとユカちゃんの視線が、身体が、ぼくの前から岩のように動かない。ぼくは窒息する前にかすれた声で助けを求める。

 

「――なに?」

「死んでたの?」

 

 ユカちゃんの視線がやっとぼくを外れた。代わりに教室の後ろ、夏の空気だけが入った水槽を射ている。つられてぼくもそれを見る。きれいに洗われた水槽は十日前の惨憺たる状態など全く覚えていないかのようにそこにいる。潔癖症気味の担任が新しく買わせたものだと言われてもこの距離なら信じてしまうかも知れない。ガラスに映る鮮やかな模様は、ユカちゃんの纏っている夏色ワンピースのものだ。いつのまにか教室には、ぼくとユカちゃんだけが残っていた。

 教室を照らす蛍光灯は、こんなにも暗かったろうか。

「ねえ」

 ユカちゃんが促した。ぼくは水槽から視線を戻して頷いた。「ぜんぶ」と付け加える。

「あなたが、第一発見者なんでしょ?」

 その言いように違和感を覚える。「あなたが犯人なんでしょう?」と言われているような気がした。裁判はいつの間にか始まって、滞りなく継続する。被告人がぼくで、後はぜんぶユカちゃんがやる。ボウチョウニンはイスと机と黒板と扇風機。

「あなたが見たときは、まだ中身が入ってたんでしょ? あたし、あれに大事なものを入れておいたの。どこにやったの?」

 ぼくは眉をしかめる。ユカちゃんの顔が迫って来る、汗と石鹸の混じった女子の匂いがする。

「校舎裏の花壇、二年の時にヒマワリ育てたでしょ、あそこ」

「……あたし、こっち来たのそのあとだから。知らない」

「焼却炉のそばだよ」

「――それも。えっと、そこにどうなってるの?」

「埋まってる」

「……そんなことしたら、死んじゃうじゃない!」

「――そりゃ」

 ぼくはうんざりした。死んでいるから埋めてしまったのだ。死んでないものを埋めたりなんかしないって決まってる。

 それに、さっきのユカちゃんの言い方は、まるで何かのアクセサリーでも水槽に隠しておいたかのような言いぐさではなかったか。ぼくは少なくとも、埋める時にそんな「大事そうなもの」は見ていなかった。

 ぼくは、返事をせずバッグを担いで立ち上がる。

「どこいくの」

 帰る。と言うつもりだった。思い込みとありもしない正義に付き合いたくなかった。これはエンザイってやつだ。暑いし、ウザいし、面倒くさかった。でも――。

「埋めたとこ」

 ――じゃあなんで、二人きりになるまで教室に残ったりなんかしたんだよ? そう言われてしまうことから逃れたくて、臆病なぼくはそう言った。ユカちゃんが望んでいることは、それに違いないのはわかったから。

「――まって」

「なに?」

「後ろの扇風機、切って。あたし、前をやるから」

 なんで、こんな悪いことをして叱られる前のような気分にならなきゃいけないんだろう。胸の間がしくしくと痛む。赤いランドセルが、先に教室を出た。

 

 

 埋めたのは、十日前のことだ。

 その土は元々平らで、十日前には一瞬穴だった。ぼくらは穴にホットケーキさながらに水槽の中身をどろどろ流し込んだ。赤茶色の土は黒くなって、沼になって、染み込んで、土と死骸になった。土の臭いを腐った水の臭いが上書きしていった。

 大人がふたり、ぼくの後ろでわざとらしくこう呟く「土にかえるから」「バクテリアがこいつらを土に戻すんだ」ぼくはたまたまそのことを知ってる。「へえ、すごい」土をかける。

 この日は普段ならありえない昼過ぎの登校をした。授業があるわけではないから、それでよかった。コンビニでアイスを買った。わくわくしながら道すがらアイスを舐めてきた。途中で花火大会のポスターに目を止めた。昼過ぎに学校に来たことを咎められるいわれはないけれど、買い食いはきっと見つかったら怒られるのではないかと言う気がした。

 すると、上手い具合に学校に着く頃、棒にはソーダの残滓だけが残るのだ。そして、はずれ。その棒はがっかりとやっぱりを含ませたまま、ぼくの尻ポケットにしまわれていた。

 それを盛り土の上に立てようとした、いいアイデアだと思った。墓には墓標が要るものだと思ったし、今のままではショウコにならないと思った。用務員さんは首を振って図工の授業で見覚えのある合板の切れ端を持ち出して、マジックと一緒にぼくへ渡した。キャップを開けると石油の臭いがした。

「四年二組の暮」

 用務員さんと大橋先生が苦笑いしながら首を横に振る。ああ、たしかにこれじゃぼくらが死んでしまったみたいだ。でも、こんな小さな花壇の中にぼくらのうちの一人だって入るものか。それは考えればわかることだ。

 ぼくは「の」と「暮」の間にパックマンの口を滑り込ませた。ぱっくりあいた口の中に「動物たちの」と書き込む。二人はそれを見てちょっと首を傾げながらも頷いた。大橋先生はタバコに火をつけて一口だけ吸ったものをそこに立てて拝んでくれた。それが、つい十日ばかり前のことだ。

 

 十日前の暮前に、ぼくとユカちゃんがいる。

「――ここに埋めた」

 焼却炉の傍、夏の下。そこには花壇――だったものがある。かつてぼくらがヒマワリの種を撒いた場所には、今、特に華やかな草花や作物が植えられている様子はない。去年、新しく拵えられた赤煉瓦の花壇が校舎の中庭にできたものだから、この花壇はとっくに用済みになっていたのだ。

 木片は十日前と変わらず、悠然とその土の下にいのちだったものが埋まっているのを教えてくれている。変化したところと言えば、最後の一文字の下の方が少し焦げたようになっていて、文字を曖昧なものにしていた。ユカちゃんが口を開く。

「これ、なんて書いたの」「――は、はか」「字、わからなかったの? ……ぐじゃってる」「――わかるよ、書きにくくて」「そう、ふぅん。で、なにを埋めたの」「ザリガニとか、サワガニとか。あとは藻となんかちいさい巻き貝とか、沸いてたやつ――なんかちっちゃい白いのとか」

 「ちっちゃい白いの」のところでお互いの顔が歪む、そういえばあれらは生きていた、のかもしれない、動いていたから、多分。それに加えて、巻き貝は死んでなかったのかもしれない。「かいごろし」なんて単語のシャボン玉が脳裏に膨らんで弾けてどこかへ行った。多分関係ない言葉だと思った。

 ユカちゃんはぼくの次の言葉を待っているようだった。「とか」で終わらせたから次を待っているのかもしれないけれど、たぶんそれで全部だ。ミジンコとかシーモンキーはいたかもしれないけれど。ぼくの目には見えないものだ。見えないものはいなかったんだ。

「……熱帯魚は?」

「…………え?」

 そういえばユカちゃんが探していたのは「大事なもの」とやらではなかったか。ユカちゃんが待っていたのは、彼女にとって関係のない有象無象が埋葬される様子なんかではなかった。そこにあるべき生物の名前をぼくがまだ口にしていなかったから、ぼくの言葉が続く先を待っていたのだ。ぼくの逡巡を押し退けて、ユカちゃんが続ける。

「ザリガニ? サワガニ?」

 何の話をしているのかわからない。そんな顔だった。ぼくとユカちゃんは本当に同じ水槽についての話をしているのか、わからなくなった。ぼくは別クラスが見殺しにした水槽を勝手に弔ってしまったのではあるまいか。そうでなければこのクラスメイトが顕わにしている疑念のどこに説明をつくというのだろうか。

「ねえ、一学期の水槽見たことあるの?」

 ユカちゃんは、話の方向を変えたようだった。

 知らない。そもそも水槽に興味なんて無かった。そういえば水槽はもっときれいだった気がするし、中になんかキラキラしたものが泳いでいた気もする。でもぼくは生き物係じゃないから、わからないし、知る必要もないのではないかと思った。

 十日前だって、当番になったのは「一学期の間、生き物の世話をしてくれていたのは一部のみなさんだけでした。クラスの生き物は、みんなが世話すべきです、夏休みは公平に自発的に生き物の世話をしましょう」って決まりが「いつのまにか」当然のようにあったからだ。その結果がこれなんだけど、きっと担任は自分のせいだと思っちゃいない。

 ユカちゃんの震えた声がする。

「あんなにきれいなのに、知らないの? 六月からずっといたんだよ?」

「――うん」

 少なくとも確かなことは十日前のあの日。水槽の中に熱帯魚なんて一匹も見ていないと言うこと。

 確かだと思うのは、熱帯魚は本当にいて、ザリガニなんて本当はいるはずがなかったのではないかということ。熱帯魚のほかにもその水槽がキレイだった時期が確かにあったということ。夏休みの始まった日から十日前までのその長い時間のどこかで、ザリガニが入り込んで、サワガニが入り込んで、藻が繁殖して、熱帯魚が水に溶けたのだ。

「ねえ、女子みんなで大切にしてたんだよ」

 ――みんな? みんなって十五人中の四人かそこらではないのか。それでも「みんな」と呼ぶのだろうか。

「ひどいと思わない? こんなのザンコク」

 泣きそうな声だった。ぼくは祈る他に、何が起こったのか、何が本当の事なのかを想像することで、その涙を堰き止めようとした。

 ひとつ確かなのは、この盛り土の下にあるもの。三年生が埋めたジャガイモの残りと、そんなに大きくない黒アリの巣、蛍光グリーン色した液体肥料の空容器は注射器に充填する薬剤を入れるガラスびんの形に似ている。あとは七夕の回収され損ねた短冊、そして十日前にぼくが埋めたザリガニと汚水。きっとそんなものが入っている。

 美しい熱帯魚はどこにもいない。

「ねえっ! 聞いてるの」

 返事もせずに夏の日に歪む墓場を眺めるぼくにキツイ言葉が飛んで来た。

「――ううん、あんまり」

「――えっ」

 素直な反応にぼくはもっていた無関心をそのままぶつけてしまう。ぼくは面倒になって拗ねたような口調で余計な一言を付け加えてしまう。

「――ごめんな、死ぬ前に見つけられなくてさ」

 なに言ってるんだろ、なんてことだろう。ぼくは悪くなかったのに、そのはずなのに、自分のせいで目の前の女の子を今にも泣かしてしまいそうだ。そうでなければぼくのほうが怒られてしまうのだ。サイアクなのはその両方を食らうことだ。

 そうだ、ぼくは今からやってもいないコロシのケジメをつけさせられる。そんなのはごめんだ。目の前に黒い頭のてっぺんがある、そのつむじからミサイルが発射されてぼくは殺されてしまうかもしれないんだ。

「ね」

 そのつむじから冷たい声がする。警戒警報だ! いまからダンザイがはじまりハンケツがくだるのだ。ぼくは一歩後ろに下がる。逃げよう。逃げていいんじゃないか。逃げない理由があるのか。ぼくはここに居るべきじゃない。でもクラスメイトが困っているんだよ。だけど帰ってゲームしたいし。いや、遊びたいなんて理由じゃダメだ。何がダメなんだよ、ぼくの大事な時間を夏の日射しの下のたちんぼうで奪わないでくれよ。えっと、ぼくはまだドリルを終わらせちゃいないんだから。それも終業式のヒマな時間にやった3ページしかやっつけちゃいないんだから! だから逃げてもいい。そうだ逃げよう。逃げて逃げてクーラーの効いた部屋でふるえて眠って風邪引いてママに怒られよう。泣きそうな女子を置いて! はやくしろ! ママより先に目の前の女子が角を生やす前に! ミサイルが発射されるその前に! ほら、ユカちゃんのオモテがじわじわと上がってきてしまったぞ。泣かせたら怒らせたらそのセキニンを取れるのか? セキニンをとれないぼくは逃げるしかないじゃないか。ほらあきらめろ。「逃げることは負けじゃない!」だろ? スタートダッシュの右足を強く深くチャージするんだ。スタートしたら校門まで一目散、息継ぎに気をつけろこの夏の空気で喉を灼いてしまわぬように、舞い上がったスモッグ混じりの砂埃で目をやられてしまわぬように! 逃げ遅れたら、殺される――。

 

「――ありがとう、ね」

 

 結論としては、逃げ遅れた。

 

 逃げるはずだった。

 少なくともぼくの体は直前までそのつもりだったので、拍子抜けした。だから右足は重力のトスを左足に任せて、力強く大地を蹴った。そこまではよかった。だけど左足に遅れてムジュンした命令が届く「様子がおかしいからちょっと待って」そうだ。ぼくは今、泣かれても、怒られてもいない――。混乱した命令系統は、絶望のダンスを踊る左足に着地場所の指示をしなかった。

 必然の結果として、ぼくは夏の日に熱せられた硬い地面に柔らかく尻もちをついた。見上げるとユカちゃんがぼくを見下ろしている。逆光で表情が見えない。ありがとうって言った。そう聞こえた。

「どうしたの? 何もないのに転んだりして、おかしいんだあ」

 感謝される理由はないじゃないか。だって、ぼくが弔った生きものたちの中には、彼女の「大切なもの」は入っていなかったではないか。ぼくのトリ頭は一学期に水槽の中に入っていたキラキラしたその生きもののことをすっかりわすれていたんだから。

 カーテンを閉め忘れられ、空気の対流をも禁じられた真夏の密室、そこに放置されたどうしようもなく不幸な水槽の中で二匹のザリガニが真っ赤に茹であがっていたことを不思議にも思わなかったんだから。恨まれる理由を納得できないまでも、こんなにぼくの罪状は掘り起こすことができる。

 けれど、ありがとうと言われた。

「どうしたの、座ったままで。はい」

 しりもちをついたままのぼくに手が差し延べられた。ぼくはその手を掴んだ。汗でひっついてきたアスファルトの欠片を挟んだまま引っ張った。ユカちゃんは最初の力にびっくりして一歩だけ動いたけれど、そのあとは安定してぼくの身体を引っ張ってくれた。はしゃいだ男子がやるように中ひざのタイミングで「はい引っかかったァー!」と手を離されることもなかった。

 立ち上がったぼくに、ユカちゃんは「疑ってごめんなさい」とまで言った。そしてもう一回ありがとうを口にした。

 墓の前で、ぼくらは一緒に手を合わせた。

 

 そして、ぼくらは途中まで一緒に帰ることにした。水槽とは全く関わりのない話をした。隣のクラス担任の悪口を言い合った。夏休みの思い出を共有し合った。ぼくはアイスの買い食いにユカちゃんを誘った。どうせ乗ってこないと思ったら、ユカちゃんはぼくのより四十円も高いイチゴミゾレを躊躇無く選んだ。

電子マネー使います」

 大人に向けた子供の声だ。ランドセルのサイドに付けられたパスケースがタッチされる。数字がやりとりされる。ぼくはそのあとに小銭でやりとりをする。一円玉を八枚出しているのを、ユカちゃんが横でじっと見ていた。

 なぜだか、恥ずかしかった。

 おじいちゃん譲りの小汚いがま口も、八枚使ってまだ残っている一円玉も、熱帯魚も、レジに表示された一目では読みきれなかった緑色の数字も、イチゴミゾレも、ザリガニも、気付くとずり下がってしまっているメガネも、リコーダーも、扇風機のスイッチも、赤いランドセルも。ありがとうも。何もかも全部恥ずかしくて恥ずかしくてしょうがなかった。

 ぼくらはコンビニのゴミ箱の傍で、青くなった舌と、赤くなった舌を見せ合って。どちらがよりあたまがキンキンしているかということを自慢し合った。しばらくしてぼくが、さらに手を汚しながらユカちゃんがそれぞれのアイスを食べ終わる。べと付く手に難儀しながら、ハンカチを取り出して手を拭う。今日はもう解散。ぼくらふたりはそれぞれに手を振った。

 

 ぼくはひとりになり、自分の家路をゆく。

 

 何歩目だったか。

 空を見上げるとまだ陽は高かった。中途半端な昼下がりだった。ソーダアイスのじんじんがまだ舌に残ってる。雲が白くて空が青くて、その途中では電柱と電線があやとりしている。生温い空気がソーダの残りをまとって、肺の中に降りていく途中で消えていく。さっきまではっきりしなかった蝉の声が責め立てるように大合唱をはじめる。ソーダの破片だったものが胃の中で溜まってぐるぐるしだす。それは声になろうとする。いつのまにかぼくの足は止まっている。アスファルトに貼り付いて動かなくなる。地面から生えた制限速度30がぐにゃぐにゃに歪んで、腹の中の粘つきを吐き出すスイッチになった。

 

「っ、ぁっきゃ――――――――――――――ッ!」

 

 咆吼した。

 そのつもりだった。

 ぼくは、プレイ中のRPGの主人公のように、自分の力ではどうしようも無かった悲劇を前に地に這いつくばりながら叫んだあのシーンのように、うまくやりたかった。

 カッコよく「ばかやろー」と叫んで、サマになるはずだった。

 でも、ぼくの声はどうしても高くて、軽かった。お子様のそれだった。電線の一本も揺れはしなかったし、空の色は変わらなかったし、蝉の声が止むわけでもなかった。残響が羞恥と一緒にブロック塀から跳ね返って来る。「なあに今のヘンな声!」どこかの窓からオバサンの声がする。口の奥で「うるせえ」と呟いてみる。

 なんてかっこうわるいのだろう。

 なんで、今日は暑いのだろう。

 

 どこかで、下級生たちがクスクス笑っている。きっとぼくのことを笑っている。

 

 

 泣きそうになる。また恥ずかしい声で叫んでしまいそうになって歯を食いしばる。

 口の中に、まだわずかに残っている苦みをこぼさないように。

 

 

 

 

 ゆっくりと、夏が降りていく。

 

 

           ■2■

 

 豪邸だった。

 

 帰ってママに話をしたら、そういうことになった。ユカちゃんちの話だ。その大きなベランダには埃まみれの物干し竿や、バネのダメになった洗濯ばさみが雑然と転がっていたりしなかった。代わりに手入れされた南国っぽい植木と、ミニトマトのみのるプランター、そして伊豆に海水浴に行った時に海の家で見たような即席のテーブルとパラソルが「いつもはないんだけれど、ね」設けられていた。

 ――ねえ、花火を見に来ませんか、うちからよく見えるのです。

 その言葉の通り、ぼくは夜空に咲いた大輪の花を見ることができた。キレイでしょキレイでしょとユカちゃんとおばさんは口々にうっとりとした喝采をあげていた。ユカちゃんが「キレイ」そう口にする度に、ぼくはあの熱帯魚の日のことを思い出させられた。

 夜空に咲くそれがキレイなのはわかる。スゲエのもわかる。テレビの特集番組でやっていた気むずかしそうな花火職人の顔が浮かんで消える。みんなが騒いでるからそれだけの価値があるんだろう。そこまでは、ぼくでもわかる。

 でも、わからない。なんでユカちゃんがわざわざぼくを呼んだのかわからない。斉藤でも、うららでも、甘木でもなく、なんでかこのお嬢様はぼくを、花火大会の夜にぼくひとりを呼んだのだろう。

 

             ◆

 

 あの登校日から事態は加速度的に進行した、連絡網は他の枝にいるのに、彼女はぼくの家にまでなんやかやの理由を付けて電話をかけてきた。

 三度目にぼくは取り次ぎされる時の「母さん」の心なくも面白くない冷やかしを嫌って、メールのアドレスを彼女に教えた。学校の授業で取ったアドレスをパソコンでつかえるようにしたものだ。これで家には電話がかかってこなくなったけれど、メールの返事をしないと三十分きっかりで家も電話がかかって来るようになってしまった。なんたってユカちゃんはもうケータイを持っているのだ。

「ねえ、どうしたの? 何かあったの?」

 ――やめてよ、たった三十分返事をしなかったくらいでそういうのやめてよ、出られないことだってあるよ。迷惑だよ。そう文句を言おうとしたのに、聞こえてきた声のトーンが余りに悲しそうだった。

 だからその言葉は送話口の手前で固まって、味のなくなってしまったガムみたいにぼくの口の中を転がり続ける。それは舌先を転がって別のものになろうとする。そして「心配してくれたの? ごめんね」にその姿を変えて、排泄された。

 これはなんだ。誰の口だ。電話口の向こうでユカちゃんの声はいかにも喜んでいるようだった。なんで喜んだりしているの。そこは「なに気持ち悪いこと言ってるの」と返して笑うところでしょ「思ってもいないことをいってどうしたの」とぼくをなじるべきところでしょう。あんなきれいに「ありがとう」を言ってのけたユカちゃんなら、ぼくを笑いものにして百点をとることなんて、あまりに簡単なことでしょう!

 そんなぼくの疑問とか、罪の意識をよそに会話は進んでいく。宿題のこと。登校日に女子が話していたこと。女子同士のお泊まり会でのこと。家族での海水浴のこと。ぼくは相手に見えないのを知っていながら頷き、相槌をうち続けている。

 そうしないと、話を聞いていないのを見透かされている気がして。

 でも、ぼくはさっきからずっと、この電話をかけてきたであろうユカちゃんの電話料金とか、こんな話をするユカちゃんの意図とか、見てる途中だったお笑い番組のコントのオチとか、いつの間にか蚊に食われていた左すねとか、そんなのが気になって仕方なかった。キンカンを置いてある場所を思い出しながら、ずっと、生返事をしていた。

 ――うん。うん。すごい。へえ。ぼくはできそうにないな。すごいね。やるじゃん。「じゃあ明日の五時に駅前浜ベル前で待ち合わせね!」いいとおもうよ。すばらしい。やったね。ええいちきしょーかゆいなあ。

 

 ツ――――――――――――――――。

 

 鳴り続ける音に目が醒める。頼りになるぼくの耳は「じゃあね明日ねきっとよ! バイバイ!」という最後の言葉をはっきりと覚えていた。

 電話はどうやら終わったらしい。ぼくは彼岸に持っていかれていた思考をそこからたぐり寄せていく。受話器から聞こえるのは何度確かめてもツー音。だからほっとして、受話器を置いた。めんどくさくておもしろくもない宿題を、形だけでもどうにか終わらせた時の達成感が駆けぬけていく。

 チーン。

 受話器を置く音が、レベルアップの音に聞こえる。

 階段を上り、自分の部屋に戻る。ずっと耳の中の迷路〔ダンジョン〕で迷子になっていた会話部分がようやく発掘〔サルベージ〕されて脳に提出され――じゃあ、明日の五時に駅前浜ベル前で――心臓へ届く。

「え、明日ってなに? 待ち合わせって何のこと!?」

 いつのはなし? 「明日ね」どこで? 「駅前の浜ベルで」なんで? 「あのね、明日花火見たくない?」なんで? 「あのね、明日花火大会やるでしょう? 浜で! あたしのうちからとてもよく見えるの!」ぼくは、どうすればいいの? 

 記録が、電話中に左の耳から右の耳に素通ししていた言葉を引きずってきてきちんと絵になった記憶にしてしまう。

 その度に言葉はいちいち耳と脳をこすって、神経のメッキを削って剥がして、ふれるだけで気絶してしまいそうなくらい敏感に仕立てあげて。やることやった顔だけして去っていく。

「え――――――――?」

 さっきの音はレベルアップしたんじゃなくて、呪われた装備を高い防御力にだまされて付けてしまった音だったんだ。

 部屋のドアが開いてぼくの体がベッドに落ちていく。居間で父さんが騒いでいる「おい、あいつ女の子から電話あったぞ! すごいな! すごいな! そんな年なのな!」

 頭に来るくらいでかい声で。

 

 九日目の誰かが、八日目の誰かが、七日目の誰かがそうしたように。あんな、汚い水槽なんて、見なかったことにすればよかった。きっと、そうなんだ。

 

 

 三十分前には、待ち合わせ場所にいた。

 

 そしてこうして、特等席で花火を見ているのだ。

 ユカちゃんの家族は優しかった。一見気むずかしそうなおじさんも、すすめられた枝豆のうまさをぼくが褒めると途端に態度が柔らかくなった。「ユカ、この子にしなさい。ビール飲むかい? ほら、泡のでるジュースみたいなもんだから、大丈夫、もし酔ってしまったら夏休みなんだから泊まっていきなさ」「パパ!」おばさんが怒った。おじさんが肩をすくめながら笑う。ユカちゃんもおばさんも笑顔でいる。どんな顔をしていればいいのか、さっぱりわからなかった。

 楽しくないわけではなかった。でも、花火がキレイだとしきりに繰り返すユカちゃんは、ちらちらとぼくのほうばかりを見ている。おかしい、きちんとした格好をしてきたはずなのに。

 出かける時ママは何も言ってないのに、ニヤニヤ笑っていた。「ちゃんと立ててあげなきゃだめよ」なんだ、それ。

「髪――おかしいかな?」

 髪には櫛が入れられていた。

 ユカちゃんはぼくの顔をじっと見ている気がしたから。訊いた。

「え、いや、ううん? そんなことないよ? ほら、花火キレイだよ、見よう?」

 その「花火キレイ」はきっと十回目を越えている。花火は確かに面白いものだった。「ごらんなさいな、ナイアガラの滝だよお!」とおばさんが叫ぶ。母娘が隣でキャアキャア言い出した。

 おじさんは遠慮がちに煙草へ火をつけて、遠慮がちにゆっくりと風下に向かって煙を吐いている。

 ぼくは大きな仕掛けの花火よりも、自分の家では吸われないその小さな火が少し気になった。あの煙草の先に点った灯りと、あの空で色を付けられているのはほんとうに同じ火と名前の付けられたものだろうか。

 その横で、赤と緑と黄色の炎が水のように天上から地上へ流れ落ちていく。見たことはないけど、きっとナイアガラのようなんだろう。ナイアガラってなんだ。駅前のパチンコ屋がそんな名前だったかもしれない。ではパチンコに関係があるのだろうか。たまたま前を通った時、自動ドアがあいてしまい暴力的に流し込まれる音と光の奔流のことをぼくは思いだしていた。

 なるほど、似ているような気もした。

 

 首が痛かった。

 

 夏休みが終わっていく。夏だけが続いている。

 

 

 始業式も終えて間もない日。夏休みのロスタイムがおわってところどころでホイッスルが吹かれ始める頃。うしろの扇風機にやたらに差し込まれたがる定規のせいで、教室の後ろがやたらに暑くなってしまう頃。

 件〔くだん〕の水槽の中にはいつの間にかミドリガメと金魚が泳いでいる。クラスの誇る頭脳派メガネウラは雑誌の付録から孵した〔かえした〕カブトガニをそこにウキウキと放流する。ぼくが、ユカちゃんとのメールのやりとりを、朝と晩にチェックすることでどうにか折り合いを付けようとしている頃だ。

 登校したら黒板に相合い傘が一つあった。よくある。そういうのみんな好きだなーと思った。席に着いてから違和感に気づいた。この日のぼくはちょっと寝起きが悪くてぼおっとしていたんだ。「よお」の声に笑い声が含まれていた。

 ――なんだよ。

 眉を顰め、ランドセルを机の金具にかけて、引き出しを引く。入れた覚えのないものが目に飛び込んで来る。ジャポニカノートを一枚破ったそれには「結婚おめでとうございます!」と書かれていた。

 夏休みボケしてたのだと思う。

「――なにこれ」

 そう、口にしてしまった。

 途端に哄笑が起こる。周りを見渡す。大量の口笛に襲われる。誰かと誰かと誰かが「こっくばん! こっくばん!」と囃し立てている。いやな予感にしびれはじめた腹の下をさりげなく押さえ、黒板に目をやる。

 案の定だ。ぼくの名前と、女の子の名前が仲良くハートマークのついた傘の下にある。くらくらする。クラスメイトは容赦がない。どうなんですか本当のところを教えてください、ナレソメはいつどこですか、挙式のご予定はいつでしょうか、お子さんは何人ほしいんですかげらげらげらげらげらきゃあきゃあきゃあげらげらげらきゃあきゃあピュ――――――――ッ!

 

 その下品な口笛の音から先はシャットアウトした。よくあることだ、自分の身にふりかかるとは思ってなかったけれど。

 でも、かつて自分も小林くんと佐藤さんをはやし立てた。五月だ。火元のない煙だった。佐藤さんは泣きわめきながら小林くんをこっぴどく侮辱する言葉をいくつも吐いた。

 そして女子の殆どは佐藤さんを表だって擁護し、罪もない小林君の罪状をどこからともなく持ってきて彼をおとしめた。かわいそうな小林君は夏が始まるまで謂われ〔いわれ〕のない好奇の視線に晒されることになった。

 小林君は今でもあだ名は「パンかぶ」すなわち「妖怪パンツかぶり」の略である。ぼくは断じてそんな汚名をひっかぶって二学期を過ごすわけにはいかなかった。

 彼の失敗は騒いだことだ。佐藤さんの自尊心を損ねたことだ。騒いではいけない。否定も肯定もはっきりと口にしてはしてはいけない。自分の一挙手一投足をお笑いのようにしてはいけない。首を振る。手元に残っている無邪気な悪意の切れ端を女子がするようにきれいに畳む。深呼吸をひとつすると、つかつかと教卓に歩み寄り、その相合い傘を丁寧に消した。ブーイングが巻き起こる。

「先生、来たぜ」

 うまい具合に担任が教室へ入るところだった。ぼくはちゃんと時計を見てタイミングを計算して、喧噪の奥によく知った足音がいることに気付いたんだ。ぼくは声を震わせずにいることができたと思う。

 うまくやった。「なーんだつまんねー」どうせ、みんなすぐに忘れる。

 ユカちゃんだけがずっと、教卓から席へ戻りゆくぼくを睨みつけている。そんな気がした。

 

             ◆

 

 絵に題名なんているのだろうか。でも必要だと言われたからその時の気分をそのまま題名にした。何かいわれたら「夏休みの思い出」に変えるつもりだった。

「キレイに描けたかなー?」

 図工の先生はキンキン声を図工室にあまねくふるまう。ヨシズミが小声でキンキン声の真似をするものだから五班のあたりで笑いが起きた。「キレイ」のイを強く発音するのがコツだ。先生は不愉快さを若干表に出しつつ、パンと手を打ちならす。

「はい、授業時間はあと三分ですから、お片づけをしてください。絵の具はちゃんと流して、水道の蛇口は譲り合って――ヨシズミくんはもう筆洗いの水を女子にかけちゃだめですよ!」

 ぼくの画用紙には白地に花火が描かれている。この紙は実は二枚目だ。一枚目は先に紙を真っ黒に塗ってしまった。真っ黒に塗った後で気づいた、あの夜の空は別に黒くなんか無かったのだ。絵の具を探す、そうだ、あい色、これはとても近い。もう少し黒いけどこれに黒を足せばいいのだろうか。その時先生は言うのだ。

「あら、あらあら、先に黒く塗っちゃだめですから。これは花火、花火なのね? みんな途中でも聞いてください見てください。先生言うの忘れたけれど、最初に黒や濃い色で全体を塗っちゃだめですよ、あとで薄い色が乗らなくなりますからね! きみには次回新しい画用紙をあげますからね」

 自由に描け。と言っていたくせに。

 面倒なのでどうすればいいかを全部聞いた。粘土の時は教えてくれなかったのに、うって変わって嬉しそうにどう描けばいいか教えてくれた。

 ――何かいいことあったんですか?

 そう聞くのはやめておいた。もういいやと思った。この教師の話は長い。ナントカ派とか技法とかそんなのぼくにはどうだっていい。わかりやすくうまくかける方法を教えてくれればいいのに。担任の言うような会話のキャッチボールなんかしたくなかった。

 でも、ぼくの後ろにも質問をしようと待ちかまえている生徒がいるのに、このひとは話を続けてしまう。

「ね、誰と見たの? おうちのかた? 誰も描いてないから」

 めんどくさかった。自分から向けた質問だったけれど、とっくに休み時間が侵食されているしで、少しずつみんなの責めるような視線がぼくに刺さっているのがわかった。

 先生はなんで気付かないのか。

「そうですッ」

 油断かもしれなかった。語気が少し強くなった。片付けとおしゃべりのカフェオレになってたはずの美術室は、いつの間にか空っぽだった。

 先生は「あらそう」とだけ言った。

 ぼくは画の中に人を入れるのが好きではなかったし、そもそもあれは人に言っていいことではなかったような気がしたからだ。でも、ほかに画になりそうな夏休みの思い出とやらが思い浮かばなかった。だから、特に考えずにそうした。

「でもね、なんでも先生に聞くだけじゃダメですから。自分でどうしたらいいか、工夫してみましょう!」

 二枚目も、真っ黒に塗ったくってやりたくなった。

 

             ◆

 

 憂鬱な授業が終わって教室にぼくらは帰る。陰鬱で平凡な帰りの会を終え、ランドセルの中に宿題のある教科のものだけをしまっていく。一番手前の筆箱を前ポケットに差し込もうとして、ぼくは異物――紙片の存在に気付いた。

 ジャポニカ学習帳の切れっ端じゃなかった。それは薄いピンクの紙、フリーハンドで引いたようなデザインのパステルピンク色の罫線、その周りを猫を模した蛍光ブルーのキャラクターが走り回っていた。

 実用に乏しそうなそのきれっぱしは折り紙のごとく畳まれてまた畳まれてミニサイズの、そして肉厚な封筒の態をなしていた。

 小さな封筒には、丁寧にキャラのシールで封がしてあった。それは女子が女子同士で秘密のやりとりをする際になされる通信方法であることを、ぼくは幸いなことに知っていた。

 だから最初、これは本来自分のところに来るべきものでないと考えた。机を間違えて入ってしまったものだと推測された。そうでなければ朝の相合い傘に関連した悪ふざけに違いない。

 しつこい男子がノリのいい女子を巻き込んでこんな策略を巡らせているのだ、おのれ孔明。仲達よ、これをラブレターの計と申します。

 ――だれが、そんなお遊びに引っかかってやるもんか。

 こんなものには触れなかったことにして、見なかったことにして、気付かなかったことにして、床に落ちていたことにして、落とし物箱の中にでもあとでこっそり入れておくのが、百点満点の答えに違いない。

 ――ほんとに?

 だって、開けたらバカを見るじゃないか。本当に? 開けないほうがバカを見るんじゃない? これは手紙だよ。それはほんとうにだいじなてがみかもしれないんだよ。口では伝えられないことを、電話やメールで済ますわけにはいかないことを、そんなに厳重に封までして君に渡したいと思っているのかもしれないんだよ。きみは、その差出人に心当たりはないのかい?

 

 ――ある。どうしようもなく心当たりがある。

 

 こんな問答は全く意味のないものだ。ぼくはこのノートの切れっ端が誰のものかを何となく知っていた。この封をしているキャラシールは、この前はじめて入った女の子の部屋で見せてもらったファンシーシールコレクションのうちの一つにあったものなんだ。

 だから、これが「明らかにぼく宛だ」なんて理由を探しあてる前に、ぼくはこの小さな折り紙封筒の封印を解こうとしていた。

 でも、こんなに思考が絡まるくらい、パズルじみた折り方をされた封筒の謎を解くのが難儀だった。その難儀さを理由にかんしゃくを起こして水槽の中に投げ入れてしまったって良かった。

 一番安全なのは、やっぱり、掃除用具入れのロッカーと床の隙間に入れてしまえばいい。知らない、入れ替える時に床に落ちて、どっかに蹴飛ばしちゃったんじゃないかな、運がなかったね――。

 でも、そうはならなかった。

 無かったことにできなかった。きっと大事なことが書いてある気がしたから。

 開けた。

 ぼくの名前と、バカがいっぱい書かれていた。

 女子の名前が書かれていた。黒板の相合い傘の下、ぼくの隣にあった名前。ユカちゃんの字でそれは書かれていた。 

 

 校舎を駆けた。走る理由はどこに? ろーかをはしっちゃいけないんだよ――ッ! そう二年生が野次る。せーんせーにいってやろー。うるさい、こちとら先生の説教などとっくに怖くはないのだ。

 少女の視線を思い出す。ぐったりとがっかりとおいかりが混ざったあの目。

 ママもあんな目をしたことがある。取り返しのつかない悪いことをそうと知らず犯したあの日。の、あの、目。その時はなにが悪かったのかもわからず、ぼくはごめんなさいをした。

 それは、ぜんぶ許される魔法の呪文のはずだった。今回もそうなるのか。なにが悪かったのか。謝ろうにも、どこにもいない。

 

 ぼくは窓の外に目をやる。

 校庭では、3on3を遊ぶ六年生たちがいた。

 

 校舎裏に来た。ここには焼却炉がある。花壇がある。「暮」改め墓がある。そして、お目当てのあの子はその前に仁王立ちしていた。ぼくはほっと胸をなで下ろした。

 ぼくが先に口を開く。

 校庭の方で、笛が鳴った。

「探してた」

「だれを?」「ユカちゃん」「うそ」「ほんとだよ」「なんで?」「怒ってるの?」「なんで」「なんでって」「なんでそう思うの?」

 だんだんと、不安になる。

「怒られるようなこと、したの?」

 きれいに弧を描いてぬるりと三点シュート。

 ぼくは首を振る。

「なんだ、自覚、ないの?」

 また、ネットが揺れる。

 ぼくは寒気を感じずにはいられない。夏なのにこんなにも寒い。冷房の設定温度を間違えて、逆に生徒の寄りつかなくなった図書室のように寒い。

 なにを間違えたんだろう。どこでこんなに点差が開いたんだろう。ここからの逆転の一手はいったいどうしたらいいんだろう、バスケットボールだったら地道にポイントを稼ぐしかないのだ。RPGだったらどうか、そんなのわからない。倒せるかどうかわからないボスを倒すためにどれだけの経験値を稼げばいいんだろう。

 ほんとうに、この敵は、ぼくの手で打ち破れるようにできているのだろうか――。

 ゲームがゲームとしての前提を崩されるとぼくらはたちまち不安になる。たとえば攻撃が当たらない。町の人が日本語を話してくれない。モンスターの落としたおかねと武器屋で請求されるおかねの単位が違う――。

 そうして、いつのまにか諦めてしまう。ソフトのパッケはもう、二度と開けられない。だから点差が開いていってしまう。そうやってワンサイドゲームは起こる。

 ゲームのバランスを崩して、クソゲームにしてしまうのはいつだってゲームそのものじゃない、ぼくたちなんだ。

「ねえ、なんで――また、黙っちゃうの?」

 我慢できなかった。ぼくの口は滑った。

「え、相合い傘のこと?」

 審判がいたら退場ものだ。パスでもシュートでもドリブルでもない。本人だけが華麗なシュートのつもりで人の足めがけて放ったダーティボールだった。

 なにそれ。

 ブーイングが、聞こえる。興ざめだと叫ぶ観衆の野次が聞こえる。担架は運ばれてこない。そして静寂が一時停止ボタンを押したように訪れる。画面が止まっている。蝉の声だけがその支配を逃れている。

「冗談でしょ」

 ぼくはなにを言おうか考える。ああ、知ってる。それ先週やったドラマのクライマックスのせりふでしょ。にてるー!

 そう言えば全部終わったろうか。笑わせることが、できただろうか。その言葉は、薄ら笑いで泥のように濁らされた。碌でもないご機嫌伺いを薄める魔法は、今となってはもう垂れ流しても効果のない紙切れになってしまった。

 彼女は怒っている。

 ――ツクヅクオロカシイツクヅクオロカシイ。

 また、蝉がぼくを笑っている。

 どうすればいいのかわからない。泳ぐ視界が彼女をファインダーの中心でブレさせる。どうしたって中心で止まりやしない。止めてしまったら焼き尽くされそうな顔で、微動だにしないんだ、だから、こっちが動くしかないじゃないか。

「――なによ、泣いてないでちゃんと見なさいよ」

 視界どころか、足下までふらついていたぼくの両肩を、彼女が掴む。夏に混じって石鹸の匂いがする。ものすごく近いところに顔が迫ってきている。ぼけて見えないけれど、どうやらぼくは泣いてしまっているらしかった。

 なんて、情けないのか。特に何かされたわけでもないのに泣いてしまっているのだ。男子を振り絞って、これだけは言っておかなきゃならない。

「――ないてない」

「うそ」

 一刀両断だった。

 ぼくは肩を掴まれたまま、その手を振りほどいたりせずに、メガネと顔の間に指を差し入れて両の目を拭う。視界がはっきりとする。ユカちゃんの怒った――それでいて今にも泣いてしまいそうな顔があった。

「――――」

 ぼくは息を呑んだ。

 もしかしたらこの時に初めて、このクラスメイトの顔をきちんと認識したのかもしれない。左目だけ二重の大きな瞳。上がっていくぎこちないながらも整えられた眉。ラメ入りのリップをささやかに塗られた唇がきゅっと結ばれて震えている。

 頭の後ろ下の方で束ねられた長い髪は、左の肩に小動物のように収まっている。腕、細い腕。華奢な体躯、すべて。

 目の中にに留まっていた全ての涙が、音を立てて引いていく。

 

「――――ぁ、かわいい」

 

 漏れた。

 はじめて知った。わかったというよりそういうものだと知った。そうわかった時にはもう遅かった。愚かなことに声になって流れた。

 ぼくの目の前の少女は、ぼくが予想していたよりも賢くて、貪欲で、多感で、純情乙女だった。ぼくが不用心にこぼしたその言葉の真意を頭からしっぽまで丸ごと理解してしまった彼女は、大きな目をもっと大きく見開く。

 真っ黒だった。

 ふるえる唇が言葉にならない息を漏らす。

 

「……なっによそれぇぇぇぇ――っッ!」

 

 ネット向こうの犬がその音量にびっくりして吠えはじめた。

 ああ、はたかれるのか。そう覚悟した。怒らせたのなら黙って受け入れろと父さんは言っていた気がする。なら、それがきっと正しい。男の子は女の子の渾身の張り手を受け入れるべき。そう考えた自分を立派だと思った。

 その一瞬。

 

「バァ―――――ッかやろ―――――――――しゃあッ!!」 

 

 それは最大の油断だった。ひどい先入観だった。ぼくはぶっちゃけナメていた。直後で刹那で当然の報いだった。ナメてなかったとかフカすのなら、メガネくらい外しておくべきだった。

 その油断もユカちゃんは見抜いていたのだ。だから平面でなく点の猛襲で攻めてきた。重力と慣性が石鹸の匂いをのせて、ぼくの横っ面を振り抜いていく。世界が揺れる。咆吼とともに右のかいなが振り下ろされる。

 

 きれいな円を描いた。

 

 六年生の3on3はいつのまにかバッティングに変わっていたようだった。白球がぼろぼろの金属の棒に逆方向から力を加えられ、これでもかとひしゃげて夏空への切符を体を張って手に入れている。それでもだいたいは空振り。

 蝉の声が骨に響く。草と土と汗と下水の臭いがする。石鹸の匂いはもうしない。傲慢だけがその体にべっとりと捨てそびれた謝罪の言葉を貼りつかせたまま、しぶとく生き延びている。

 いくら待っても巻き戻しボタンは押されない。セーブしたところからやりなおしたりできない。ユカちゃんは倒れてる少年に声をかけたりしない。

 ぼくは結局、ユカちゃんの怒りの導火線に点火したのがどれだったのか、わからないでいる。

「ばっきゃ……てて……っ」

 きっと、唇が切れている。

 

 カッキ――――――――――――――――――ン

 

 六年生が打った。

 夏が続いていく、空の向こうに。

 

 

              ■3■

 

 

 夏が終わっていく。

 

 夏の断末魔はそのクライマックスを終えてエピローグへ、カナカナカナカナカナカナだけを残して部屋の中に響いて来る。ぼくの頬は骨から痛んだ。ママは帰るなりちょっと騒いでいたけれど「明後日まで痛かったら病院にいく」と約束をした。ぼくはナニ科にかかりゃいいんだろうか。

 本当に痛いのは頬じゃなかった。

 ――明日は、学校を休もう。

 雨でも、晴れでもかまわない。台風ならなおさらいい。そして明後日はどうするんだ。ともかく、こんな気持ちのままで学校になんか行けるものか。でも彼女は来るよ、そういう子だよ。知ってるさ、あんなにかわいいんだから当然さ、やってのけるさそれくらい。では、ではではきみに聞くけれど、きみはさっき食らったあんな恥の上に、そんな恥まで晒す気なのかい! 学校を休むくらい、誰にだってあるだろう! そして「どうしたの」って聞かれる、いや、聞かれたらいいねえ、聞かれなかったらどうするんだ? うるさい。三学期になっても、五年生になってもずっと! おめでとう! これでぼくとユカちゃんは他人だ! ほら「ケッペキな女」は嫌いだって気づけて良かっただろ? やったじゃん! よかったじゃん! あんな女に深くハマりこむ前でさ! あはっはははははははっっははっははははっっっはっはあはあはははっっはあああああ――――!

「――ッ!」

 手元にあった漢字字典を机に投げつけた。整理もそぞろな教科書とプリントが落ちて来る、弾丸となる名誉をいただいた字典は運悪く、そして正当の報復といわんばかりに、夏休みに完成した、ちょっと背伸びしたリアル系ロボットプラモデルの上にディクショナリーフォールをキメて――繊細な関節の部品を片っ端から台無しにしていった。壊れたら戻らない。代わりにぼくは悶々とした叫びを彫刻刀に封じ込めて本棚に投擲する。雑誌の背に刺さる度に、ケチなハナクソがとれた程度の爽快感があった。

 身をベッドに投げて、自分の愚かさを噛む。

 それでもぼくは鈍くて、彼女が何で怒ったのかわかっていない。でも、そこには理由があるはずで、でも、それがやっぱりわからなくて、ずっとイライラしている。

 自分が悪いのだとわかればどんなに楽か。謝れば済むのならどんなに楽か、だからとにかく謝ったのに、もっと怒ってしまうとは、いったい何事か。

 枕に顔を埋めて足をバタバタさせていると、騒ぎを諫める声と、風呂に入るよう促す声が聞こえてきた。ぼくは大人しく、その勧めに従った。

 十指に余る塩ビフィギュアたちの風呂桶架空戦記もまったく精彩を欠いたものになった。もやを洗い流せぬまま、のぼせかけた頭をしばらく冷水に浸して風呂を出た。

 ぼくは自分の部屋にドライヤーを持ち込んで乾かすのが好きだ。洗面所で自分の鏡を見ながらなんて狭っくるしいし、今は情けない自分の顔なんか見たくもない。自分の部屋からなら海岸が見えるのだ。

 この家に引っ越した時、海の見える家を夢見ていたはずの父さんは、唯一正しく青い海と赤く沈む夕日と白い背景のように聳える富士山を見ることのできる部屋をぼくにくれた。父さんは、たまにこっそりぼくの部屋に忍び込んで夕日を眺めたりしている。

 夏のはじめにうざったいからと短めに切ってもらっていた髪は、この頃だいぶ長くなってきており乾かすのに時間がかかるようになっていた。だからぼくは、夏の初めよりもいくぶんか長い時間この景色を見ていられる。髪の濡れた部分を探してわしゃわしゃと掻き回してやっつけていく――。

 七分ばかりやっつけたところで、それが目に入った。

 浜辺に、かすかな灯が点っていた。

 それは窓から見えた。もう誰も泳いでなんかいない夜の岩場でできた海岸線。ここは都会からアクセスが悪くて名物もないもんだから、流行る要素をもたない海岸の街。うろつくのは地元の「悪ガキども」や、穴場を探しに来る釣りキチのおっさんたちがビール缶と釣り針をばらまいていく。漁師たちは用事がある港以外に、そうそう近づいたりするものじゃない。

 ――じゃあ、あれ、なんなんだ。

 まだ二分ばかり生乾きの髪のまま、父さんの寝室へ走る。机の引き出し一番下にそれはある。双眼鏡。ぼくはそれを拝借して自室に駆け戻り、窓に駆け寄ってさっきの灯を探す。

「あー……ぁ」

 かすかな灯りはどこにあったのかわからなくなってしまっていた。目を凝らしても見あたらない。ため息が漏れる。

「あ」

 諦めきれずにさまよっていた視界の端に、何かが光った――ような気がした。その辺りにも、昨日も今日も明日も何もありませんよと言いたげな海の闇と岩場の闇があるだけ。

 そうだよ、海の闇が月光をたまに反射するから、それが視界の端に入ったに違いない――それは悪くない説明だ。

 でももうちょっとだけ、諦めないでみようと思った。そうだ、それはどこで光った? 灯台から親指二つばかり下、港の端を定位置にしていつも留めてある勇麟丸の灯りから親指三つ弱左。車道が走っているはずの、その辺り。

 しかし暗闇。目を凝らしてもなにもない崖へつながる岩場があるような場所だ。なにもないはずの場所、フジツボとサワガニがいっぱいいる場所、女子たちが噂する悲恋怪談の舞台、夏休みのプリントで名指しさせる近づいてはいけない危険な場所。

 そこにアタリをつけて、双眼鏡を目にあてる。

「――え?」

 寒気がした。まっくらだった。休み時間に聞こえた女子達の怪談「見てはいけないものを見た時にはしっぺ返しがあってね。目が潰れてしまうんだって!」そんなことあるはずない。双眼鏡から慌てて目を離すと、潰れてはいなかった。ちゃんといつもの夜景が見える。

「――ああ、バカだ」

 一拍おいて、ぼくはようやくレンズの蓋を取り忘れていたことに気づく。気を取り直し、倍率を最大値に張って目に当てる。なんだ、なにに怯えているんだ。目に当てたままそこから少しずつ、中指の目盛りを使ってゆっくりピントを合わせていく。

 いるような気がした。

 海岸線まで窮屈さとゴム臭さを引き替えに視界が延びる魔法の眼。さっきの怪談のことをユカちゃんと電話で話した時、ユカちゃんが楽しそうに話しはじめた怪談の詳細を思い出す。

 

 ――ずっとね。一人きりで待ってるんだって、約束の相手が来るのをずっと待ってるんだって、血塗れなのに倒れないでずっとずっと待ってるんだって。目を合わせちゃいけないの、魂をもって行かれるから。

 かわいそうになって、興味を持って、目を合わせた人の魂をたべてその女のひとは生きているんだって。

「……それって生きてるの、ユーレイじゃないの」

「――ん、いいの! お話だからいいの! ユーレイじゃなくて、生きてる人かも知れないでしょう!?」

 

 目に飛び込んで来る画像。暗い。そこで何かが蠢いている、ガラスについたゴミか何かの生き物か、はたまた、ただの波か。そこに灯が小さくまるく映る。そこには人の姿があった。手が震えて画面が揺れる、すぐに灯は消えてしまった。

 暗闇に目を懲らしても、もう何も見えない。ユカちゃんの怪談をはっきりくっきり思い出す。でこぼことした岩場の輪郭が月光を反射して、なにかの形に見えてきてしまう。海が、全てを飲み込む口のようになって語りかけて来る。

 ――確かめてみろ。

 そう言っているに違いなかった。

 ゲームで決定ボタンを押すように、マンガでページをめくるように。軽い気持ちに浮かされて、ぼくは準備を始めた。懐中電灯と財布、ケータイをリュックに無造作にぶち込んで部屋を出ようとした。

 ママに見つかった。

 「コンビニ!」と嘘をつき、裸足にスニーカーをつっかけて家を出る。そう、一刻の猶予もなかった。なんでお風呂入った後に出かけるのよ、あんたバカじゃないの。気をつけろよ。そんな声が後ろから飛んでくる。

 

            ◆

 

 海岸に自転車を飛ばしながら、もうちょっとマシな言い訳は思いつかなかったのかと反省する。リュックを背負って血相を変えながら自転車に乗った小学生が「コンビニに行く」なんて信じるはずがない。だいいちリクツが通らない。

 そもそも嘘を言う必要はなかったんじゃないだろうか。だって、今にも死んでしまうそうな女の人、もしかしたら、もう死んでいるかもしれない、もしかしたら死んで結構経っているのかもしれない――。

 キッと音を立てて自転車が止まる。最後の信号だから止まったのであって、自分の想像に恐れをなして止まったわけではない。少なくともこの瞬間はそうなのだ。

 やがて信号は青になるだろう。こんな時間にここを通る車両などありはしないのに、ぼくは律儀に信号が変わるのを待っていた。

 そして残酷で平等で人間味の感じられない信号は青になってしまう。ぼくはUターンすることを考えてしまう前にペダルを踏み込んだ。止まっていた脳内じぶん会議が再開されていく。

 

 ――やっぱりさ、そんなめんどくさそうなものは大人にまかせて、子供は布団をかぶっていれば良かったんだよ。あのRPGでずっと立ちふさがってる堅くてどうしようもないボスの倒し方でも考えていれば幸せだったのに。なんで、そうしなかった?

 

 答えがどこかから返って来る前に海岸についた。女の人が見えたのはこの先、岩場と崖の下に続く道無き道。

 黄色と黒のロープが立ち入り禁止を主張していた。誰かが見張ってなんかいないけれど、気弱な小学生を遠ざけるくらいの効果はある。

 この先になんか誘われたって、それが日の高い時間だって行くものかって場所だ。さらに悪いことに辺りは闇の支配のまっただ中なのだ。この先に無謀にも進んで、まだ人の経験が少ないぼくを取り込んでどうにかしてしまうようなものに出会ってしまったら? もう二度と、家族にも、クラスメイトにも会えなくなってしまったら? 肉も骨も魂も奪われてしまったら? そうでなくとも足を滑らせて岩の間に足を挟んで抜けなくなって、朝になっても誰も助けにきてくれなかったら――?

 ――そう考えてしまって、足が震える。

 そんなヒカガク的なことは起こりっこないのだ。けれど、自分が怖じ気ついているのがわかる。でも、ここで引き返して、大人にさっき見た一部始終を語るのなら、どうしてさっき弱音を吐いておかなかったんだ? コンビニに行くだなんて、あからさまな嘘を言ったのは、あらかじめ張っておいた予防線なんだろう? わかっているんだよこの臆病者め、おまえは勇者になんかなれはしないのだ。SOSに気がついたパパとママが探しに来るまで、ずっとそこで立ち尽くしていればいい!

「――そんなことないし」

 足がいっぱい汗をかいている、スニーカーが直接それを吸い込んでいく音がする。それでも靴下を穿いていないからスニーカーと足の間にはいつもより隙間がある、隙間があると歩きにくくなる。屈んでマジックテープをキツめに止め直すと、汗が引いて冷たくなってきた。爪先をとんとんしながら考える。

 どうすればいいんだろう。帰ればいいのかな、そうだ、帰ればいいんじゃないかな。こわいし、くらいし、めんどうくさい。

「――おいおい、男の子だろ」

 父さんの口癖だ。薄笑いをしながら半分呆れたようなそぶりでそう言い捨てる。ぼくはそれを聞くといつも思う。

 知らないよ、男の子だってそうでなくたって関係ないだろ、って。

 でも父さんの言いたいことはなんとなくわかるのだ。きっと男の子であるからには、自分で見てしまったもののセキニンくらいは「とらにゃあいかん」のだろう。

 そして最後はこう締めくくるのだ。

「しょーがねえだろう、やっちまったもんは、な。さいごまでやるつもりだったんだろ?」

 口にしてみる。このままおめおめときびすを返せば、自分はきっとそうやって慰められる。ママが横でスイカを切っていて。まな板と庖丁が衝突したらしき音がキッチンから聞こえる。

 

 ――それは、なんてみじめなことだろう。

 

 ぼくはリュックから懐中電灯を取り出して、境界を乗り越えた。サンダルじゃなくスニーカーが、夜に湿った岩を力強く踏みしめる。

 

 思ったよりも岩場をわたるのは難しくなかった。足下を照らし足の行く先を照らし、確認しながら先へ進んでいく。

 わずかにキナ臭い、そして花火のにおいがする。月光を反射する海からの光の中に髪の長い女性のシルエットが浮かび上がる。マントのようなものが海の風を受けてゆらゆらと揺れていた。

 良かった、まだ死んでいない。

 その時ぼくは「ああ、やっぱり帰っておくんだった」とひどく後悔する。

 死んでいない人間がこんなところで死にそうな顔をしていることは、死んでしまった人間が空気のようにふらふらとさまよっているより、よっぽど恐ろしい。そんな簡単な事に、幼くて愚かなぼくはこの時まで考えすら及ばなかった。

 子供の自分にだってわかる。ゲームのセオリーだ、これは罠なのだ。準備をしていないパーティーは、一人ずつ血も涙もない手段で無力化されゆき、最後の一人のぼくがやられてゲームオーバーなんだ。魔王とそのしもべたちが棺桶をあざ笑ってぶどう酒を飲み干すんだ。

「――――ふ」

 息を潜めて一歩下がる。気づかれていないならいい。このまま帰ってRPGの続きをやればいい。その前にコンビニに寄ってソーダアイスを買って帰ればなお、いいだろう。

 週刊マンガを立ち読みして、ゲラゲラ笑って店員に追い出されながら、今夜のことを忘れてしまえれば、こんなに楽なことはないじゃないか――。

 

「そこの子さー。隠れてないで、こっちきなよ」

 

 泣きそうになった。

 

             ◆

 

 女は暗闇で白いマントを羽織っていた。お陰で暗闇なのに海からの光を受けて、ぼうと浮き上がって見える。懐中電灯の灯を反射するとさらに白く映えた。――あれ、なんだ、これ知ってるぞ。教育テレビでコロイドンが羽織ってる――ただの白衣じゃないか。

 なんだ、つまらない。

 動かないぼくの方に白衣女は寄ってきて、口を開いた。遠くもない街灯のお陰で、おぼろげに顔がわかる。

「ね、きみこの辺の子?」「はい」「名前は?」「えっと、お、お姉さんは?」「あ、質問に質問で返したな? そういうのは嫌われるんだぞ。……まあ、でもさ、言いたくないこともあるよね。うん、じゃあ聞いたりしない」

 ――なんだ、この人。変な人だ。

「ね、花火しよう、きみ、花火はだめ?」

 変な人だ。

「――お姉さん、誰?」

 変な人相手でも、呼び方には気をつけるべきだと思う。

 それが功を奏したのか、白衣女の声はちょっと明るくなった。

「お姉さんは――。うん、そりゃ、お姉さんだ、きみが名前を教えてくれないからお姉さんはお姉さんのままだよ、ずっと」

「怒ってるんですか?」

「なんで?」

「ここ、立ち入り禁止ですよ?」

「きみはいいの? 地元だからいいのかな、でも子供がこんな時間に歩き回ってたら怒られるよね、きっと」

「――まあ、そうですね」

「でも、お姉さんも怒られるねえ。大人にはね、子供をカントクする義務があるんだって、でもお姉さんは車を運転してここに来たけど、お酒も呑めるけど、まだ大人じゃないんだあ。たぶん」

「そういう――もの、なの?」

 段々、言っている事がわからなくなる.これはいわゆる「クダを巻く」って奴なんじゃないのか。そんな軽い恐れが滲みてくる。母方のおじいちゃんが、正月に酒をかっくらっていた時ってこんなんじゃなかっただろうか。

「だって、大人はいろんなものほっぽりだして、車で四時間もかかるこんなところにまで花火をしに来ないと思うよ。でしょう?」

「…………」

 そんなこと聞かれても困る。こちとら子供なのだ。冷蔵庫の一番上にも背が届かない子供なのだ。ママが戸棚の上に隠したお中元のお菓子を取るには椅子に乗らないとせしめられないほど、遊園地で身長制限にビクつくほど、一人で見ることのできない映画があるほどの子供なのだ。

 そんな難しいこと、わかるわけがないじゃないか。

 そして、追い打ちがやってくる。

「あーあ。きみも答えてくれないんだ。お姉さん、って呼んでくれたのになー。一緒に遊んでもくれないんだぁ。お姉さんこんなに遠くまで遊びに来たのに、花火もしちゃだめなんだ。いいよ、いいよーだ。まっすぐおうちにかえって、お部屋の中で一人でこっそり花火するから。つーん」

 女は俯いてしまう。その仕草はわざとらしかったし、芝居がかっていた。

 けれど、声があまりに悲しそうだった。つまり、なんだかぼくが大人を泣かせてしまったような構図になった。この白衣女は言うことも言い方もいちいち子供のそれだった。

 まるで、小さい子をいじけさせてしまったのは年長者である自分の責任の様だと詰られている時のような居心地の悪さだった。

「い、いいですよ……。花火、しても」

 最大の譲歩だった。こう言えばこの罪悪感から逃れられる。花火はやっぱり嫌いじゃなかった。大きいものより、コンビニで売っているようなセットの方が、好きなんだと最近気付いたんだ。

「ほんと!」

 笑っている。泣いてたんじゃなかったのか。唇を結んだまま波打たせて、ぼくは頷く。

「ほんとはねえ、さっきまで、このへんで死んでやるつもりだったの。これは私の車じゃないし、やっちゃえって感じで景気よくね!」

 物騒なことを言い出した。

「でもね、新聞とかでさ。かわいそうな女――とかならまだしもね、頭の悪い女――なあんて書かれたらって考えたら、もう。もう、イヤになっちゃった! バカバカしくて、ね。あいつのほうがバカなのに。――香料臭ぇ女は乗せたくないんだって。バカにすんじゃないわよね。だれがあんな男なんかね、花火なんかたのしくないだろお前ってね、いいのよ花火とか、わかってるわよたかが炎色反応よ、でもさ、でーもさ、キレイじゃない?一緒に見たいって思ってなにがわるいのよう。なんであんたは私よりばかなのよーぅ。ばかぁ」

 

 うわあん。

 

 泣いてしまった。大人の女が泣いている。

 勝手にひとりで捲し立てて、勝手にひとりで泣き叫んで、岩に膝ついてびーびーと泣いている。

「あ、えっと……あの」

 なにを言っているのかわからない。なにを言ってあげればいいのか、わからない。ぼくは口をもごもごさせながら立ち尽くすより他になかった。

 下から顔をのぞき込むだなんて、こわくて出来やしない。

「きびは、やさしびね」

 白衣女は鼻に鼻水いっぱい溜めた声を出して、自分の白衣でチーンした。暗くてちゃんと見えなくて良かったと思う。

 しかし、鼻水まみれの謎の女だってそんなこと言われてしまうと、ぼくはとても困ってしまった。

 ぼくは、そんなことないんだから。

「ぼくは、ぜんぜん、そんなこと」

 俯く。

「ほめてねー…………――っ、よっ……と」

 白衣女は、急に元気になっていた。

 イタズラそうな顔で、ぼくの悩んでいるところを下から覗き込んできた。

「――ないてたんじゃないの」

「泣いてたよ――お?」

 なんだ、ぼくはまたなにか失敗したのだろうか、「興を殺がれた」とばかりに首を刎ねられてしまうのだろうか。ぼくの怯えをよそに白衣女は、灯も無しで器用に岩場を跳ねていく。今のかけ声は呼吸の延長で、浜に根の生えかけた自分の体を起こすためだけのものだったと言わんばかりの軽やかさだった。

 女は岩場を上へ上へ。その手はぼくについてこなくてもいいよと言っている。ぼくはせめて懐中電灯でお姉さんの足下を照らした。

 女が岩を跳ねる先には岩場と崖の上をつなぐ梯子があった。さらにその上に灯を向けると、白いバンの尻がちらりと見えた。

「あんな場所――」

 誰もいないのに、そう口にしてみる。地元の人では決してなさそうなお姉さんが、自分も知らないそんな場所をすいすいと移動しているのが、なんだか不思議に思えた。

「今もどるー。すぐよ」

 車のトランクをごそごそし、来た時と同じくらい軽やかに岩場を跳ねながら女は戻ってきた。鈍い金属光沢のある何かを頭にかぶり、白衣のあちこちに散らばったポケット全部をパンパンに膨らませた異様な様。それを見てぼくは通学路に貼られた不審者注意のポスターを思いだしていた。

「ねえ、危ないよ」

「お姉さん」

「……危ないよ、お姉さん」

「危なくないもーん」

 最後に頭にかぶっていたものを平らな岩の上に下ろした。それは手鍋だった。父さんが「ジジイっぽくないかそれ」と嫌うタイプの「安っぽい」鍋だった。

 ぼくは光を当てると鈍く銀色に光る無骨なそのフォルムを嫌いとは思わなかったし、安っぽいとも思ってなかったのだけど。

 そして、お姉さんは不格好に膨らませられた白衣のポケットたちを一つずつ裏返す。あめ玉、書類のきれっぱし、付箋、レシート、写真、メモリーカード、消しゴム、ゴム、指輪。キラキラした粉の入った袋。そんなものがざらざらと鍋の中に落ちていく。そのいくつかは元気よく跳ねて鍋に収まらず、岩の陰に落ちていってしまった。

 今から起ることに想像が付かなかった。ポケットから出てきたそれらからは、まったく花火を連想させてはくれなかった。強いて言えば、キラキラした粉が封じられた袋がなにか関係あるのか、そんなことしかわからなかった。だから、お姉さんがすることをぼおっと見ていた。

「どしたの。口、開いてるよ。バカになるよ」

 なんてことを言われてしまう。

 お姉さんはそんな悪態をきっと悪意もなくぼくについたあと。海の方に近づき、似たような高さの手頃な石をみっつ拾ってきた。強い潮の臭いがする。それを並べて鍋の足にした。

「――なんこれ」

「――しゃべるときに口開けないのはもっとバカっぽいわよ」

「――なん、ですか、これ」

「いったでしょ。花火、すごく熱いの。危険だからあと三歩下がってね」

 聞きたいのは、そっちじゃない。わかってるくせに。そういいたい気持ちを抑えて、馬鹿馬鹿しかったけれどもう一度詳しく訊いた。知りたかった。

「中身、なんなんですか?」

 答えは返ってこないだろう。そう思っていた。

 

 

「夏よ。」

 

 

 これで、準備は全て整ったらしかった。

 潮を含んだ風がやってくる。どんどんと錆びていく。

 そう言って振り向いたお姉さんの表情はどんなだったか、もう思い出せないけれど、恐怖特集を見た時のようにぼくの背筋は凍っていた。歯が見えたから笑っていたのか、涙が見えたから泣いていたのか、それは炎が目に沁みただけなのか、声が震えていたから、それだけの怒りをこらえていたのか。

「さがって」

 花火だと、お姉さんは言った。お姉さんは暗闇の中、ぼくが五歩後ろばかりから照らす懐中電灯の灯を頼りに、胸ポケットから出したマッチを器用に擦る。火が灯り、指を照らす。黄色い軸に黄色い炎が灯って、黄色く肌と白衣を照らして、仏壇の臭いをほんのりさせて、すぐに消えていこうとする。そしてお姉さんはつまらなそうに、なんのためらいもなくその炎を鍋の中に投げ入れた。

「いくよ、さがって」

 棘が刺さる。ぼくはおっかなびっくり二歩退いた。お姉さんはそのままだ。ぼくの持つ懐中電灯の灯は白衣の背中をしばらくゆらゆらと迷子になって、やっと鍋を捉える。

「それ消して」

 灯を消す。すぐにそれは始まった。

 それを花火と呼ぶには、全然キレイじゃなかった。迫力だけがあった、それも夜空に開いた花には敵うはずもなかった。さっき鍋に入れた色んな粉――お姉さんは「魔法の粉」と呼んだ、そのキラキラした電気っぽい粉は、火を炎にヘンカンしていった。そしてその炎は鍋の上に火柱となって立ち上がる。真っ赤な炎、たまにオレンジ。だいぶ離れているのにここまで熱がやってくる。音は花火のものよりも派手ではないけれど、不気味な音が、獰猛で狡猾な肉食獣が獲物を前に喉を鳴らすような、低く唸る音がさっきから止まない。炎はこの岩場に棲む夜の闇を飲み込み、溶かし、そして育っているようにも見えた。

 長い時間ではなかった。すぐにそれらは終わろうとした。

 ごぼっ。とはっきり音がした。

「おいで」

 光が広がらないように灯の口を手で隠してから懐中電灯を点す。光を下に向けて岩場を五歩前に進んだ。ぼくはお姉さんのナナメ後ろから鍋をのぞき込んだ。火山とシャンプーの匂いがする。

 鍋の底は抜け、岩の上にさっきの炎をすべて吸い込んだ何者が転がっていた。宝石のような、赤く燃えた石炭よりももっと赤く鈍く光るそれは、灯を消すとよっぽど赤くなり、そのまま岩をも溶かし、地球の裏側まで行ってしまうんじゃないか――。そんな想像に一瞬とらわれてしまう。

 サラマンダーのたまご。そんな風に思った。

「すごいでしょう」

 すごい。とはなんだろう。この「火にかけて使う道具」までをも溶かしてしまった魔法の粉とやらのことか、熱のことか、それともお姉さんはこの一連の現象を「すごい」と思っているのか。それとも自分のことなのか。わからなかった。

「キレイでしょ」

 赤さが消えていく。お姉さんは汲んであった水をゆっくりと撒く。蒸発する音。ぼくはまた灯を点けて、お姉さんの手許を照らした。その灯の先で、さっきまで赤く蠢いていて、きっと生きていて、そしてもう死んでしまった石に白い指先が触れる。

「キレイでしょ……」

 ぼくは、その声がもう殆ど泣いているのに気づかないふりをするので精一杯だった。頭の中に浮かんでいる感想を言葉にしてしまうのもなにか違う気がした。

 さっき、見てしまったもののことを思い出す。写真の束に一瞬光が当たった時、お姉さんと一緒に映っていた人のこと。ふせんにパステルのペンで書かれた「記念日」とハートマーク。さっきの炎の渦は、鍋の中をぐるぐる回って、その中身も全部飲み込んでただの石にしてしまったんだろう。

「ふー……」

 あの。

「ん?」

 声に出したつもりだった。けど、声が出なかった。

「欲しい?」

 灯は丁度、足下を照らしていた。どんな顔で訊いているのかわからない。でも、その声の調子に、ぼくはどうしようもない恐怖を感じた。

 その恐怖は、さっき岩場に足を踏み入れた時よりももっと、背骨にさっきの熱い鉄を流し込まれたみたいな、泣きそうな痺れのようだった。だから、首を振った。

 お姉さんは返事もせず頷くと、その塊を海へと、投げた。

「――――しゃ、っ」

 きれいなフォームだと思った。海との境目に触れたとぼくが思ったよりもほんの少し後に、小さく、しかし重く水音がした。

「――はい、終わり。じゃあふつうの花火もしよっか」

 お姉さんは笑っていたんだろうか。まだ口の開き方を忘れてしまっているぼくの返事も待たず、再びひょいひょいと岩場を登り、気付けばバンのトランクを開けているようだった。コンビニで売っている花火セットの一番安い奴。あとはロケット花火をいくつか携えて降りてきた。

「へびはないの?」

「あれ、嫌いなのよ。それに、ここじゃ暗くて楽しめないわ」

「ぼくも」

 ぼくとお姉さんは笑った。思い思いに花火を手にとって蝋燭の火を奪い合った。

 花火はすぐに撃ち尽くされていった。

 最後に、お姉さんは獣のような雄叫びを挙げながら、右手に緑色を、左手に黄色をまき散らす最後の炎を掲げ、海へ向かって走っていく。

 かっこわるかった。

「ああ」

 吐息が漏れる。

 海がお姉さんの悲しみを吸い込んでいく。そのかっこわるい姿を、ぼくは、キレイだと感じていた。あの花火大会の日に空に咲いていた大輪の花たちよりもずっと。

 炎が、お姉さんの涙の痕を赤く照らしている。黄色く照らしている。お姉さんは白衣をはためかせて、くるくる、くるくる、足場の悪い岩場の上を妖精のように踊っている。白かったはずの衣の裾は、砂と泥と煤と海水で真っ黒に汚れてしまっている。

 笑っていた。高らかに泣いていた。

 ぼくは拍手をしていた。 

「アンコールなんか、ないからね」

 硫黄臭いお姉さんは、ちょっと疲れた様子で、そうはにかんでいた。 

 

 ぼくは両親が探しに来るまで、そしてお姉さんは警察が来るまで、海岸で炎の残滓に酔っていた。

 両親にひどく叱られながら、お姉さんが手を振るのを見ながら、また張られた頬をおさえながら、ぼくは一度提出した絵の課題のことを考えていた。

 次の図工の時間に、あの絵を描き直そう。ベランダと枝豆と、自分とユカちゃんを描き加えよう。

 

 

 夏の終わりの夜の代わりに。

 

 

 やっと、この夏が終わりきる

 また、夜空に咲く

 

 

 

 

 

 

<テルミット・ルミネセンス 了>