トランスパラント・フットプリント

ちはやブルーフィルム倉庫

メメントモリ・セメタリー

 朱茅ほのかは、猫がどこに帰るのか知りたかった。

 それだけなんだ。

 

 

 塾から帰るところだった。

 さっきまでほのかは教室の中にいた。三人の小学生がお行儀良く揃って横並びになれる机と椅子のセット。真ん中の席に座ると授業中にトイレに行きにくくなってしまう。きっとこれも教育の一環で「寝る前にちゃんとトイレに行きましょう、布団の中に入ってしまっては出られなくなりますよ」という高村さんの教えと同じなんだろう。そう、ほのかは思う。

 学校より十倍くらい難しい『講師の講義』を『先生の授業』の三倍くらいの長時間ぶっ続けで聞いていると、ほのかやその級友たちとて段々脳がいい感じにシェイクされてきて眠たーくなってしまう。となりの男子が右耳を机にくっつけて気持ちよさそうに上下する様に「……吸盤みたい」とほのかが思いついた頃、やっと終業のベルが鳴ったのだ。

 なのに、講師はどこ吹く風で講義を解説を続けている。教室の中には期待を裏切られた事に対する遠慮がちな抗議の声がぱらぱらと咲いて散っていく。教育ご熱心な講師様におかれましては、解説をはじめかけてしまったその問題を最後まで微に入り細に入り生徒の皆様全員にご理解いただけるまでかえしゃあしませんよ、なあにご心配なく残業代はいらねえぜってな江戸前の姿勢で凛然とボードペンを構えていたのである。

 そして三十分後、ほのかたちはようやく解放された。ほのかは帰り道の同じ学友達と一緒に駅まで向かうはずだった。けれど、今日に限ってほのか以外の全員にお迎えが来ていた。そんなとき、ほのかを一緒にピックアップしてくれる安形さんは今日はお休みだった。

 

 気付くとほのかは、塾と駅の間に通る濡れたアスファルトの上でひとりきりだったのだ。

「――うーん」

 ほのかは高村さんに電話をしようか迷った。メールをしようか迷った。でも高村さんは出かける前、サンドイッチに隠されたピーマンをのける作業にいそしむほのかに言った。

 ――まだ雨が降っていましたら、お迎えにあがりますから。

 こどもフォンに着信はない。ほのかは空を見上げる。

 来るときには雨が降っていたのに、夜空はものすごいきれいな星をたたえていた。理科のテキストのごとく白黒ではないし、天の川は街の灯に薄められてしまっていたから、ほのかは夏の星座を見つけることはできなかった。

 けれど、さっきまであんなに眠かったほのかは、すうっとあたまが冴えてきて、なんだかうれしくなってくるのがわかった。今なら、日曜にやった国語の最後の問題――この星空をみた『ぼく』はどんなきもちでしたか――だって胸を張って正解を述べられるに違いないのだ。もちろん四十字以内で。

 

 そう、この夜はたまたま雨上がりで、帰り道を警護してくれている警備員さんが強い雨の後始末に用具置き場へ向かっていて、真っ黒い猫さんが水たまりの傍でほのかのことを見ていたから仕方のないことだったのだ。

 その黒猫をほのかは知っている気がした。向こうはまるでほのかを知っているかのようにまじまじと見つめている。ほのかは思い出す。そう言えばみんなと一緒に帰るときに、猫の話をしたことが何度かある。なぜそんな話になったのか――決まっている。猫が居たからだ。

 そこに居たのはいつも、この黒猫だったのではないか。

 ほのかは雨の事など知らないそぶりの夜空から目を落とす、天の川なんか見えやしないけれど、代わりに黒い猫が居るのを見つけてしまった。猫を脅かさぬように、夜な夜なマキポン先生ん家に出るという噂の黒い悪魔のごとく密かに対象へと近づく。しかし、猫は声ならぬ声を上げて、くるりと塀の上に舞った。

 黒猫は夜の道の向こうへ行ってしまう。

 ほのかは車もなにもいないのを確認すると、カバンにつけてある「もしもの時に押すブザー」の存在をきちんと確認した。見えているのに正解とは違うときには悔しくなるものだ。だから、ほのかは雨上がりの猫にちゃんと触れてみたいと思ったんだ。

 

 ――はいけい、お母様。

 ――ほのかの齢も二桁を数えることとなりました。こうなってはもはや大人の仲間入りを果たしたと申し上げても過言ではありますまい。複雑怪奇な地下鉄の路線図を前にしてもひるむことなく暗算で木賃を計算できるのです。そう、ほのかはもう背伸びせずてもコンビニでレジのがめんが見えるほどに成長してしまったのですから。

 ――だからお母さまごめんなさい、ほのかは探求心の虜になります。だってお母さまは仰ったでしょう「疑問に思ったことはすぐに解決しなさい」と。……過日、お爺さまは「君子危うきに近寄らず」とも仰いました。けれど、ほのかは君子なんて名前ではありません。ですからお母さまの仰ったことを優先させたいと存じます。それに、生のお米を投げつけられるのはほのかは御免被りたいと存じます。

 

「ねこー、ねこねこー。ちっちっちー」

 

 高村さんの真似をしても、猫は寄ってこなかった。

 しかし黒猫は路地裏で目を光らせながら、ほのかを待っていた。猫はぷくぷくといい具合に威厳を発する程に太っていた。きっと、この界隈でたくましく生き、同時にかわいがられているのに違いなかった。

 ほのかは、その黒猫を撫でようとして手を伸ばす。けれど――きたないかな、ひっかかれるかな、そしたらザッキンが入っちゃうかな――などと思って引っ込める。そんなことをもう三回くらい繰り返していた。 

 猫はほのかの煮え切らぬ遊びに飽きたのか、四度目のチャレンジを待たずに路地裏の向こうに行ってしまった。青いポリバケツが内蔵をさらけ出している不吉な道の先に行ってしまった。

「あ、もう」

 臭気を纏わずには抜けられぬ道だったけれど、ほのかは勢いで抜けた。

 そのあたりで、ほのかは気づいた。やっと気づいた。

 迷ったことにではない。そもそも、ここに来るまでは一本道だったではないか。辺りには民家がなく、殆ど塀で囲まれている区画。この塀の中に何があるのかはわからないけれど、ぐねぐねとのたくった字の書かれた木の札がたまに空に向けてめいめいの方向へと突き出ている。

 寒気。さっきまでじっとりとしていた雨上がりのまとわりつくような空気は一瞬で逃げていってしまった。

 一本道のはずだったのに――後ろを振り返っても、ほのかは自分が通ってきた道のりを思い出すことができない。不安の切っ先が喉元に触れようとしていた。

 翻ってこの道のさき。妖しい光のたもとにはどんな街があるのか。ほのかは未知のものについて考えることで自分を奮い立たせようとする。さっきまで通ってきた道のことも、この塀の中に広がる不吉の正体に思い当たりすらもしないのに、だ。

 ――だって。

 だって、机の上では知りえないことがあるに違いないのだ。それを覗いてみたいのだ。あのナマイキな黒猫がどこに帰るのかだけでも見届けてみたいのだ。首輪はしてなかったけれど、人をおそれてはいなかった。アレについていけば、帰る場所を探し出せば、飼い主とかとお話ができたりするのかもしれないのだ。

 

 一歩。

 

 ほのかの足は前に出る。

 

 ――だってまだそんなに夜遅くないし、お母さまだってこの時間より早く帰ってきたことなんてなかったでしょう? ですから、ほのかがちょっとばかりすこしばかり塾が終わった後の時間を楽しんでみてもいいではありませんか。

 ――ほら、今日授業が延びたのは嘘ではありませんし。ボスはそんなとき各家庭に「その旨」連絡を入れてくれるのですから。

 ――そう、五分や十分の寄り道なんて、私たちにとってたいしたことないんです。空気抵抗と糸の重さは計算しなくてもいいんです。考えなくてもいいことなんですよ、お母さま――。

  

 黒猫が前を横切ると不幸になるのか。

 この知らぬ街にはなにが潜んでいるのか。

 この駅に続かない道は、呪文の生えるこの道の先にはなにがあるのか。

 光の袂は、はたしてビル街の灯りだった。そこまでの道のりはほのかにとって冒険のようでいて、彼女がはじめてコンビニに行った時よりも刺激の少ない結末だった。なぜならこの道の先には、いつもほのかが利用している隣駅に続く道だというのがはからずも理解出来てしまったから。

 しかし、それでもほのかは八分満足していた。コンビニのわくわくなんて店内をひととおり見渡せば終わってしまうものだ。けれど、この光はまるでずっと続いていきそうな――それでいて、夜が明けるとともに消えてしまいそうな、そんな気がほのかにはしたのだ。

 おそれのまえに、次々とほのかの興味を惹くものがやってくる。それはおもに黒猫の形をしていた。このときのほのかには闇の中で蠢くものすべてをかの黒猫と見まがうだろうけども。夏の衣装に身を包んだほのかを、闇がしずかに手を引いていった。

 

 やがて、ビルの隙間の先、猫でしか通れなさそうな細い道の先から人の気配がした。

 ほのかは自分の姿をかえりみる。夏に備えて高村さんがおさえてくれた花柄ワンピース。塾指定のおダサいカバンはさておき、はしゃぎすぎていないデザインと地味でない彩りを兼ね備えたワンピースをほのかは気に入っていた。お母さまが用意してくれたあの真っ白なのを着てきたら、きっとクラスメイトにからかわれていただろう。そのたびにほのかはいやなきもちになり「あたしはお嬢様じゃありませんから!」と言わなければならない。電車で塾から帰るお嬢様なんて、ほのかは認めないからだ。蛾の舞う街灯に照らされたお気に入りのワンピースには、もう落ちない油汚れがついていた。

 ほのかはお嬢様じゃないけれど、女の子だから服が汚れるのは気にする。高村さんは「おキレイ好きなことでございますね」とくつくつ実に楽しそうに笑う。

 それに引き替え、お母さまはほのかよりももっと気にする。この世の終わりみたいな顔をする。塾でなにかあったの! とか今にも地震を起こしそうなくらい震えながら聞くに決まっているのだ。だからこの家は「フツー」なのだ。ほのかはそう思う。

 そこまではいつものこと。ただ、虫が悪いときのお母さまは「ああやはり家庭教師にするべきだったじゃないの」まで発展してしまうことだろう。ほのかはそれをけして聞きたくない。だからほのかは「塾の行き帰りくらいはひとりでやらせてください」と申し出たのだ。それを引き替えにするだけの価値が、この隙間の先の暗闇にあるのだろうか。

 

 

 なおう。

 

 さっきの猫の声が、隙間の先から聞こえた。

 

 ほのかははっと夢から覚めたような気持ちになった。自分はなんて危ないことをしているのかと不安になった。薄暗い夜の中、死者のねむるつちのすぐ横の道なんかを、こんな格好でのうのうと歩いているのだ。

 ある日、お母さまにも塾の先生にも高村さんにもきつくきつく口が酸っぱくなるほど「お願い」されたのだ。ひとりのクラスメイトが帰ってこなかった日のこと。塾に来ていなかったある「できのわるい」子。でも大人達はその不在に怯えていた。その怯えは顔も知らぬその子の喪失を悲しむものでないと、すぐにほのかは気付いた。

 そのとき納得したのではなかったか、この大人たちが恐れるものがなんなのかを。幽かながら、その恐れそのものを。

 ほのかは不安を打ち消そうとキッズフォンを取り出そうとした。カバンに着いたアラームをポケットに移そうと手近なビルの陰に背中を預け、カバンをおろそうとした。

 その時だった。

 

「―――――――!」

 

 知らない言葉だった。悲鳴も上がらなかったし、ブザーも鳴りはしなかった。三種類くらいの知らない言葉が混ざってほのかの耳に届いた。そしてそれは英語ではないように思えたし、フランス語やスペイン語とも違うような気がした。日本語はあった。それは人を詰るきたない言葉の体系につらなるもので、知らなくて良いものだと高村さんは険しい顔で仰っていた。

 わからない言葉たちでも、そこにあるものが好意でないことくらいほのかでもわかる。ほのかはまず自分の下着のことを気にして、自分の想像に粟を食った。けれど、ほのかをとりかこむざらついた指と腕はどれもそんなたくましいトゲをいっぱい生やしていた。ほのかはそれらにあっというまに口を塞がれ、手足をひとまとめにされた。どんなに暴れようとしてもうまくいかなかったし、ブザーには手が届かなかった。

 ほのかのキッズフォンがカバンからおそるおそる取り出された。命綱はブザーと一緒にジップロックの中に入れられて、側黒の中に押し込まれてしまった。足をばたつかせても粘着テープが皮膚をいじめるだけ。

 ほのかは震えていた。「キンタマ蹴って噛んでやるわ!」なんて粋がっていた遼子ちゃんだって、こんなことになったら震えて泣いてしまうに違いない。ほのかは泣いてないだけ強い、そのはずだ。でもどうしたらいいんだろう。どうすれば、なにが正解なのか。猫がどこかで助けを呼んできてくれたり――。

 そんな都合のいい話はあるはずがない。やがてきれいな車と白いきたならしい軽トラックがやってきた。ほのかはまだふさがれた口の中でしゃくり上げるように嗚咽をこぼす。

 ――泣いてないで、ちゃんと状況を把握しないと。

 冷静なほのかのアドバイスは、泣き虫のほのかに届かない。よしんば届いたとしても、そのアドバイスが効果を発揮することはなかった。ほのかはそれからすぐに、繊細さのかけらもない乱暴なやり方で眠らされてしまったから。

 

 

 

 

 たとえば。

 日曜の朝、遅くまで寝ていると高村さんがやってきてほのかの上に布団と枕をこれでもかと積み上げてくる。暑くて重くて確かに目はすっかり覚めてしまうのだけど、それで起きてやるのはどうにも癪なのだった。

 だからほのかは体を布団の中に引っ込める。するとほのかの下にひかれた白いシーツが引っ張られてマットから引きはがされる。掛け布団から取り残されて外気にふれた左の裸足が、そそくさと布団の中に戻って行く。シーツを剥がされたベッドマットはすこし埃の臭いが強い。

 高村さんは「シーツを剥ぐお手伝いは間に合っておりますよ」なんて仰る。そしていたずらに自分の体重をほのかがまだ生まれていない繭の上にお乗せになったりなんかしちゃうのだ。

 とうとうほのかが耐えかねて「おもいよーぅ」と音を上げれば「まあ失礼な」といってほのかのパジャマの襟をまるで猫を扱うように引っ張り出してしまう。ほのかは宙に浮いたままでパジャマのボタンを外すのを億劫がって、むずむずと上半身を動かし、中身だけ逃げようとする。

 高村さんのチョップが飛んでくる。

 そんな目覚めは、もう二度と来ない。

 

 

 ほのかは機械油の臭いで目を覚ました。息苦しさを覚えながら目を開けた。体中にきしむような痛みがあった。意識を失う前もそうだったことをようやく思い出す。

 目を開けてもあたりは真っ暗で、月のない夜にふと起きたときよりもだいぶん暗かった。湯船に浸かっているのに、高村さんがいたずらに電気を消してしまったときの暗闇のことをほのかは幼稚園の記憶みたいに思い出していた。

 いつもなら立ち上がって電気をつけるだろう。でも枕元にリモコンは転がっていないし、ヒモだって垂れてきていない。何よりもほのかの両手は後ろでしっかりと縛られているらしかった。ずっと下敷きになっていた左腕が痺れている。

 目が慣れてくるとなんとなく状況がわかってくる。あくまでなんとなくだけれど「ああ、こんなことって本当に起こるのだわ」ってことだ。長く平坦で栄光に満ちた、お母様のような過不足なき道のはずだったのに。高村さんは仰った「どこにでもあるものですよ、人生の落とし穴。入れたはずの宿題が、学校に着いたときには無かった――なんてことはありませんでしたか、ほのかさま」

 ――あの猫はどうしただろう。

 ほのかは暗闇に目をこらす。空は見えない。風は来ない。ただ、明らかな生き物の気配があちらこちらにある。床は冷たく埃っぽい。妙な臭い。左腕のしびれはようやくこなれてきたけれど、束縛されていたせいか首が痛くてしょうがない「年だわぁ」と呟いてやろうとしたけれど声は出ない。だって、口にも轡が噛まされているのだ。油の臭いがして吐きそうになった。

 さいわいなことに、足は束縛されていなかった。というのは正しくない。束縛されていたとおぼしきガムテープが剥がれてしまったのだと、ほのかは両脚を擦り合わせて残骸を器用にひっぺがしながら判断する。

 ひりつく足を使ってひとまず後ろに進んでみるとすぐに冷たい壁があり、左に進むとこれまた冷たい壁があった。埃っぽいビニールの残骸がふれてかさかさと音を立てた。

 さっそく進退窮まった。こちら側に進んだのには理由があった。こっちには人の気配がしなかったから。しかしこれ以上はどうしたって行き止まり。どちらの反対側にもほのかのあずかり知らぬ「なにかがいる」のだ。泣きたくなる。心細くて泣きたくなるけれど、歯をぐっとくいしばる。

 目がようやく冴えてくる。

「――――っ」

 声がくぐもる。轡の隙間から臆病が漏れる。暗闇の中から輪郭が浮かび上がってくる。ほのかは、まだどこかで「不条理でない光景」を期待していたんだ。

 でも違った。生き物の臭いや気配や、息づかいはまごうことなく人の物だったんだ。かちかちと歯が揺れる。歯が揺れて音を立ててほのかの中に響く。隠れて食べたアーモンドチョコの所為で台無しになった定期テストの点数をお母さまが知ってしまったんだ。ほのかは恐怖に侵された。あきらかにそれらは人なのに、人の群れが輪郭をかたどってあちらこちらに投げ出されているのに、生きているかのような音を立ててうごめいているように見えるのに、どれも眠ったように動かないんだ。

「――――っ、――――――っっ!」 

 ほのかはしばらく嗚咽して泣いていた。泣けば泣くほど口の中に油の味がしみてきて気持ち悪い。高らかにあげたはずの悲しみの声は次々に油が吸い取って、ほのかへ返品されてしまった。

 轡から漏れるほのかの嗚咽に呼応するように、人の群れがざわめいたような気がした。しばらくは気づかなかったけれど、気持ちがほんの少しだけ落ち着いたころ、それに気づいた。悲しそうな声が灯ってはまた、消える。

 ――涙をぬぐうのにはどうすればいいの。

 泣いている場合じゃないと思ったのに、涙が涙を呼ぶ。つめたい壁に頬を寄せると、涙を吸い取ってくれた。その代わりに砂が頬にくっついた。ほのかは反対側もそうした。ざらざらする。

 うしろを向いて、また足を使って移動をこころみる。今度は離れる方じゃない。さっきの蠢動のあと、薄く弱々しい豆電球のごとき光が灯ったのは、ほのかが目覚めたところからそう遠くない。果たして人がいた。起きたときには気づかなかった。こちらに向けている顔の輪郭がかろうじてわかる。何故わかるのか。彼は胸から光る石を提げていた。その光は小三の時にクラスで流行ったおもちゃの定規の光に似ていた。宝石のなくなった定規を、なっちゃんにあげたんだ。喜んでいた顔を思い出せない。

 彼らはきっと日本人ではなかった、少なくとも目の前の男はそうだとほのかには思えた。毛が縮れ、唇は厚かった。テレビでしか見たことのない人々のうちのひとつだった。

 彼は足も腕も口もふさがれていた。クリームソーダのような光の中で、白い部分が急に開いた。それは目だった。ほのかは彼が起きたことを知った。暗闇の中でぱちりと開いたらんらんと白く輝くそれは、勇気を出したばかりのほのかを再び怯えさせる。彼は起きたてのほのかのようにまだ目が慣れておらずきょろきょろとあたりをみまわす。暗闇の中で踊るクリームソーダを、ほのかは轡の中、口を開けて見ている。

 

 遠くで、ざわめきが起こった。遠くと言っても、同じ高さ、さっきほのかの掴んだざわめきの果てだ。砂の気配と人の気配がにわかに怒気のごとき空気を纏った。

 ――なに。

 すぐに上の方から不吉な重みがやってきた。自由な人の声。重量のある車のシステム音。バックライトがこの坑の中にわずかな光を持ち込んだ。

 ほのかはその時、坑を目の当たりにした。

 

 

 ――地獄というのはですね。お嬢様。

 

 

 高村さんはほのかをしつける時にそんなお説教をした。

「誰も見たことがありませんから地獄と呼ばれるのです。つまり、地獄に向かった人は帰ってこれません。だから、地獄に興味を持ってはいけないんですよ。地獄で生きている人は、みんな死んでしまった人なのですから。奥様には内緒のおはなしですよ」

 

 ああ、これが地獄なんだ。ここで終えるのだとほのかは自覚した。それならば――そうと知っていたのなら、お母さまの好きなあの白いワンピースを着てきたのに。

 そうすれば、この暗い坑の中で、一際映えてくれただろうに。

 そこにはうずたかく、そしてまんべんなく、何かの材料のように積み上げられた白からチョコレート色まで色とりどりのそれぞれが積み上がっていた。箱は灰色をしていた。他にはなにかあぶなっかしげな色で主張するドラム缶が、ほのかと対角線上のエリアに整然と積まれてこの材料を監視している。

 監視されている方は蠢くばかり。上から入りこんできた異物のような光と音に、反応する者もあるようだった。それも悲しそうにのたうつばかりですぐに静かになる。すべてのそれはひどく疲れているように見えた。

 ほのかはどうするべきか考えた。そしてどうしようもないのではないかとすぐに至ってしまう。ここらにいるほのかよりも成熟した肉を持った人々が、ほのかの目の前でなにもされずに、何も出来ずにいるのに。これから、何が起こるかわからないけれど、いいことなんて何も起こりそうにもないことはわかりきっているのに。

 轡を噛むとまた、機械油の味がした。溢れた唾液が隙間から滴って、ワンピースを汚したようだった。

 と言っても、明かりがくらくてもう汚れなんかわかったものじゃないけれど。お気に入りのそれはさっきからずりずりと床を這い回らされているのだ。ここに明かりも鏡も無くて少しほのかはほっとした。

 

 ――――――。

 

 ほのかに坑を見せた光はフラッシュのように焚かれた後、みるみる小さくなり再びくらやみが訪れる。それと引き替えに今度は音がした。「バックします」と自分でしゃべる大きなクルマの力強いエンジンの音だった。

 ――坑の上にそれらが揃っていく。

 すぐに轟音がした。泥をかたいものに叩きつけるごとくに、どこかでビタビタと音がした。その音は生まれてすぐに親に喰われて消えていく。ボッ、ボッと重く冴えないなりそこないのカバみたいな音を数回繰り返した。

 ほのかはその隙間にあるおしまいに気付いた。想像の範疇を超えた残酷が、高村さんが夏の夜にこっそりしてくれたおそるべき闇の尻尾の話の続きが、教室いっこはん分の先で起きている――。

 考えるな。と半鐘が鳴っている。聞いたことのない、けれどあきらかに「はやく逃げろ」と促す本能に向けたアラームが鳴っているのだ。身のうちから響く警報を耳を傾けるほどに背筋が寒い。

 そしてほのかはさっきのお行儀よく整列させられたドラム缶に思いが至ってしまう。そうすれば、たとえ暗闇の中でも、さっきの「粘性の高い半液状の何かが固いものを打ち付けている音」と合わせて何が起こっているのかを察するには充分すぎた。

 ――坑の中に石と砂が流しこまれている。

 ほのかからは一番遠い場所。この坑の上では誰かが、ほのかやこのかわいそうな人たちがおびえるのを楽しみにしているの違いないんだ。あのひとたちは悪いひとたちで、世間様に後ろぐらいことをしているのだ。そのわるいことはきっととてつもなく悪いことで、こどものほのかですらも見逃すことはできないのだろう。

 それでも、この世から人をひとり、それもこの国のこどもをひとり消してしまうなんてこと、だれがやりたがるのだろう。だってそんなの一銭にもなりはしない。そうかんがえるはずなんだ。

 なのに、なぜほのかはこの坑の中で行き場を失っているのか。この轡をどうにか解いてお母さまの名前とか会社の名前とかを言えばどうにかなるのだろうか。

 ――なるわけない。

 震えるほのかの足下にはゆっくりと迫る灰色の不定型肉食獣から気休めの防波堤になろうとしてる男が居る。その首元に輝く灯も、目を覚ましているのであろうその男の目もただ冷たい。

 校庭のアリ穴に石鹸水をゆっくり流し込んだ五年三組國行友和くんと似たような人がこの穴の上にいるんだ。他の人よりもちょっとだけえらくて、この状況のなかで少しだけ時間がかかる遊びを自分のカイラクのためだけにやらせるやつがいるんだ。だからほのかは、お正月におとそを口に含んだときのような軽い酩酊から醒めようとしているんだ。

 醒めてしまったんだ。

 聡明で冷静で他人事なほのかが次々とやっつけられていった。自由な両足はさっきまで闊達に伸ばされていたのに、いつの間にか子宮の中にいたことを思い出すように冷えて縮こまって灰色の土の上に下りてしまった。

 重力に触れた裏臑が腿に触れてざらざらと冷たい。そればかりか、足の先の方からふるえてしまっていた。ほのかはそんなことは信じたくなかった。それを信じてしまうと、その先にあるもの。今ほのかの目の前に迫ってきている灰色の雲霞に埋もれたほのか自信の未来を想像してしまうことになる。

 ほんのわずか残った冷静なほのかがどこかで叫んでいる。

 ――だめだってほのか、さいごまできちんとしていなければだめだって。だってそう教わったじゃあないの。こうなってしまったのはあなたの不始末なんだから、ぜったい、ぜったいにないたりさけんだりおそれたりしてはいけないの。それは屈服だから。

 

 ――ほら、ほのか様! 体をぴいんと伸ばしゃんせ!

 

 頼もしい声だった。その声はいつもほのかと共にあった、いつの日からあったのかわからないけれど、力強い指針となっていた。時にはほのかの背を押し、時にはほのかの差し出がましい槍を叱りとばしたりする戦友だった。

 

 だからほのかは立ち上がった。布の轡に涎が染み込んでくさい。呼吸のしにくいその格好から、震え怯え笑い始めた膝を叱り飛ばしてカエルのジャンプを決めた。立ち上がる。膝の裏にワンピースからこぼれた砂が当たる音が聞こえる。

 ――いいの、立ち上がっても?

 ほのかの傍に居るのは、膝を伸ばす声だけではない。

 ――隅っこの方で、全部あきらめて、受け入れて、自分の無為と無策と無知を笑いながら寝こけでもしていれば泥が肺に送り込まれるまで気づかなかったかもしれないのに?

 立ち上がると、この坑がさっきよりも明るくなっているのに気付いてしまった。ゆっくりと、水蒸気の気配が近づいている。それと同時に、なにか、とてつもなく気持ちの悪い嬌声が、音もなく坑の上から降りてきていたんだ。

 ほのかたちがいるのは、きっと立方体みたいな坑だった。目の前にいる男をはじめ、この坑の中にはたくさんのひとが死んだように――いや、もしかしたらとっくにだ。

 現実離れしていた。月もでていない暗がりで、坑の上からのぞき込む人々が手に持っている携帯端末の光が人魂のようになっていた。目が慣れたのか、暗がりの中で自分の目を頼りにサーカスを見たがる人々の欲望がこの坑の中を浮き彫りにしてしまうのか。

 ――ああ、今はいったい何時くらいなんだろう。もし、月が過ぎてしまっているのなら今はきっと夜半をすぎているんだろう。もう、ここは空の下じゃないのかもしれないけれど。

 ――ああ、ダメだよ、立っても、何もできないじゃない。

 そう思った。ふたたびまたほのかは膝をつきそうになった。そうすればもう二度と、立ち上がることはないだろう。きっと、目の前の男もそうなんだ。さっきからずっと、目を開いて、生きている証拠にまわりをきょろきょろたまに見回している。

 ――ねえ、あなたはもうカクゴしてるのかな。

 男の頭髪は縮れていた。サッカー選手みたいだとほのかは思った。自分がボールになって、この男が坑の外に自分を蹴っ飛ばしてくれる夢を一瞬だけ思い描いた。荒唐無稽な夢は、醒めるほどに精神を蝕むことを、まだほのかは学んでいなかった。

「――――っ!」

 迫り来るネズミの大軍。無関心を装う象の蹂躙。それに飲み込まれていく声なき人々。暗闇の中から迫り来る近い未来がほのかを否応無しに現実に引き戻す。

 ――ねえ、この穴はどうなるの。まるでなにもなかったような地面になってしまうの。そこらじゅうにある、わたしが普段から踏んできたもののひとつみたいになるの? コンクリートの中でも肉は腐ることができるの? ねえ?

 

 

 ――歴史の教科書には本当のことなんか、書いてあるはずがないんだって高村さんが言っていた。塾でやらない教科の勉強をも彼女は見てくれていた。理科を教えるときは楽しそうに、しかし社会を――とりわけ歴史になると珍しく、めんどうくさそうな顔をして言ったのだった。

「つじつま合わせを必死に覚えてお勉強して、なんになるんですか? あなたたちが学んでいるのは歴史なんかじゃない、歴史の顔をした壮大で陳腐な読み物です。誰かや誰かの妄想があつまって、一番もっともらしい線とだれかのためにもっとも都合がいい点をあつめてできたのが、この教科書に記してあることなんですよ。だから、歴史というのは変わるんです。あとからいくらでも、誰かのために。誰かが得をするように」そういっていたんだ。つまらなそうに、でも穏やかに。

 

 ほのかは思う。考える。怯えながら、ネズミ色の化け物や足下をはいずりまわったり声もなく沈んでいく言葉が通じない命の群のなかで考える。考えることしかほのかにはできないから考える。

 ――わたしはなにになるんだろう。こんなの誰もしられないんだ。知られないから隠される。なんにもならない。お母様は、お爺さまは、お婆さまは。ああ、高村さんは。わたしの姿をどこにみつけるんだろう。楽しいことは、おもしろいことは、不思議なことは、ここでなくたって、好奇心のゴミ捨て場なんてどこにだってあったはずなのに!

 

 ほのかの足はまた一歩下がった。ゆっくりと飲み込まれていく。ほのかの目の前に横たわる死体か、もしくは死体になりゆく人々は目が覚めているのか、それともさめていないのかわからないけれど次々に飲み込まれていく。波打つゾウの皮膚のようにゆっくりと迫ってくる。

 

 「~~~~~~~ゥ!」

 

 突如、男が吠えた。

 縮れ毛が立ち上がった。冷たい光が縦に線を描いた。両脚がつながれたままなのにそれを成したことにほのかは驚かされた。彼はほのぐらい闇の中でも、さっきまでずっとそうしていたように、白い目でほのかをじっと見据えたままだった。

 ほのかもまた、あかりに浮き上がる男の顔を見た。きっと、チョコレートの色だった、埃と油に紛れてかすかに香るのもチョコレートの臭いのような気がした。まるで靴墨を塗ったような。そんなに黒いのなら、この暗闇の中でも見つかったりせずにいられるのじゃないか――なんてほのかは考えてしまう。でもだめ、それでもここにいるんだから。

 だって、黒くたってなんの意味にもならないではないか。迫り来る灰色にこれっぽっちの闇では太刀打ちできるはずもないではないか。

 両手両足はおろか口すらも戒められている男は、迫り来る灰色の波を背にしている。ほのかが見ている限り、彼はその方向を向いていない。何が起こっているのかを知っているように思えた。背後では彼の仲間が断末魔もあげられず次々と飲み込まれていっているのに、それにかまいもせずほのかを見つめてぽろぽろと泣いていた。いや、そのようにほのかには見えた。そして、震えているように見えた。

 そりゃそうだ、こんな状況なんだから、大人だってこんなに大きな体だって悲しくてしょうがないに決まっている。さっき泣いたばかりのほのかだって今にも泣き出したくてしょうがないし、たぶんこの男の肌が北欧のそれみたいに白くて、ほうせきみたいな涙を流すのを見えてしまったら。ほのかは声を上げて泣いてしまっているに違いない。

 濁流がすぐそこまで迫ってくる。男はほのかからにわかに視線を外し、天を見上げた。首の薄明かりに照らされて口元が動いていた。顎から喉にかけてもチョコレート色だった。

 そして、男はふいにしゃがんだ。しゃがんだまま真っ白い目はほのかを見ていた。ほのかは突然の奇行に意味がわからず一歩下がった。男は戒められた両足で器用にその離れた一歩分とちょっとほのかの方に跳び、頭を下げた。

 首の動きでなにをか伝えようとしているけれど、この状態ではわかるはずもない。

 もう鼠の大群は男の足下まで迫ってきていた。

 男はほのかの態度に諦めを見せる。ふさがれた口から息を吐くと、両脚をそろえたまま小器用にジャンプを三回繰り返してほのかの後ろにまわった。ほのかの目の前に男の巨躯と闇で隠されていた濁流が現れる。さっきまで男が居た場所が濡れているのがわかった。

 ほのかはこの悪夢の中に突き飛ばされるのかと体を縮こめる。

 男は屈み、ほのかの束縛されていない両脚の隙間に頭を差し込んだ。

「――――っ? ――――ぃ!」 

 ほのかの視界が途端に高くなった。濁流から一気に遠ざかる。視界が上がり、大地が遠くなり、頭から体に血が降りて、両手の自由が利かない不自由なからだのバランスがとれなくなった。

 けれど、ほのかの体が下にたたきつけられたりはしなかった。ほのかを肩車するような形になった男はただ首だけでほのかの重心を完璧に操っていた。彼の一本にされた脚にはすでに粘つく死が絡みつきはじめている。

 ほのかは肩車はきっとはじめてだった。もしかしたら幼い頃にしてもらっていたのかもしれないけれど。

 

 ――そうだ、幼稚園のころにもう家にいた高村さんにおねだりしたんだ。クマさんがウサギさんを頭の上に載せる絵本を読んでもらったんだ。でも、高村さんがめずらしく何も言わず首を振ったから。だから、なにも聞かなかったんだ。

 

 内腿がちくちくする。それが男の髪の硬さだった。流し台のキラキラタワシみたいだとほのかは感じた。

 自分の手でバランスをとっているわけでもないのに、下の人の態勢が崩れないのがほのかには不思議だった。動くカカシのごとく彼はまた小刻みにジャンプする。まだ固まってはいないものの、粘性のある石は彼の計算を狂わせる。それでも彼はほのかを濁流から遠ざける事に成功し、最初にほのかがたどり着いた坑の端まで戻ってきた。

 そこは、いまだ絶えず流し込まれる狂気の蛇口から最も遠い場所に思えた。しかし坑の国はもはや八割方泥の国に支配されてしまっていた。

 ほのかと男は壁に背を預けている、右肩にも壁が触れている。ほのかはそこから冷えとざらつきを覚える。そうして、生きていることを実感しながら、ほのかたちを遺して沈んでいってしまった坑の中心を見据えていた。高いはずなのに、坑の上にはまったく届かない中途半端な場所だった。

 またぐらから体温がひびく。知らない男性の頭をその中に納めているなんて、お母さまが聞いたら卒倒するに違いない。そのことを考えるとわずかに楽しい。目の前で人が飲み込まれていっているにもかかわらずだ。

 ――この男はどうして自分を助けたのだろう。

 ほのかは思う。まだ灰色の濁流は止まらない。足下にまで及び、男の足首まで飲み込んで、わずかに侵略の勢いを緩めた。

 しかし、それが希望をとるほど、ほのかは愚かではない。上の方から流し込んでくる容れ物を変えているからに違いない。結局、これに飲み込まれることに変わりなんて無いんだ。

 でも、この男はほのかを助けた。ほのかが落ちないようにしてくれた。今もほのかが痛くないよう、つらい体勢だろうにお辞儀するごとく背を倒してくれている。後頭部が見える、顔は見えない。

 ――手が自由なら、頭をなでてあげられるのに。

 高村さんがほのかにそうしてくれたように。

 ――でも、撫でるよりも先に、この戒めを全部解いてあげられたらいいのに。

 泥濘が上がってくる。

 男は微動だにしなくなった。さっき天を仰いだのと同じように、なにかをぶつぶつと口の中で唱えているようだった。ほのかにはそれが何かの祈りだというのがわかった。そうやって祈るものがあることがほのかには少しだけうらやましかった。

 ほのかはさっき男がしたように天を見上げてみた。空なんかなかった。まっくらだったら、まだ、良かったのに。この鼠色の死をもたらしている元凶、そいつらのまがまがしいオレンジ色の目玉、その残り滓が、いくつかの人影を天に映し出してしまっていた。

 それらは、きっとほのかをみて笑っているんだろう。助かりもしないのに、坑の中で少しでも上に逃れようと思うほのかと、その下で今際の際まででも、見知らぬほのかを長らえさせようとした男をせせら笑っているんだろう。なぜ自分や、ここにいた人たちがこうなるのかはわからないけれど。

 想像通り、人々はただ「いなかったことにされる」のだ。

 坑にシートが被せられていく。明日からはきっと、このうえに大きなお墓が建って、その中でお母さまや、その部下の人たちが働くのだろう。

 ――やだ、やだよ。

 男は肩のところまで泥に沈んだ――そのようだった。

 もう、光がない。

 

 あたまの上で音がした。ほのかにはなじみもなく聞いたこともない音だ。それは泥の迫る音にかき消されもせず、ほのかの耳に良く届いた。殺意を含んだ音だからよくわかった。

 ほのかは立方体のはじっこで、またぐらを知らぬ下賤にあずけたままできるかぎり首を上に上げた。いつのまにか月がいる。こうこうと輝く満月だ。おかしいな、さっきシートをかけたはずなのに。その満月を欠けさせるように黒い男たちのシルエットが並んでいる。笑っているのか、あまりにも強い逆光でわからない。こんなにも月って大きかったかしら。

 そう思うと、すぐに満月はいなくなった。代わりに力の弱い力線と光条が数本降り注いだ。

 ほのかの股ぐらの下には男がいる。この死の壷でのたうつほのかをあざ笑うかのように頬の横を通り過ぎて、ほのかの腿に刺さる。

 黒いエナメルの靴は、泥の中にもない。

 最初から、履いていなかった。

 あまりの熱さにほのかは悲鳴を上げたと思う。この口の中の布を思わず噛むと、自分の唾液と機械油の混ざったひどい味がした。だからほのかは思いだした、高村さんのつくったホワイトシチューが大好きだった。もう一度、食べたかった。

 ――こんな時に、思いだしてどうなるんだ。だから、笑ってしまう。腿が死ぬほど痛いけど笑ってしまう。どうせほのかは死んでいくのに「死ぬほど」って笑っちゃいますねほのか様。

 だって腿がズキズキして暖かいものが、いのちが漏れていく。熱さは消えて、悲しいくらいに痛い。痛みになってやっとわかったこと、それは腿の裏側までも痛いということ。明かりがあればきっと赤いんだ。ワンピースに滲みて取れなくなるんだ。「いいですか、汚したら早く仰ってください」って高村さんが後ろに布を当てて文句いいながらとんとんするんだ。

 

 ――ねえ、あなたもそう思うでしょ。

 

 下の男の顔は、とっくに泥の中だ。

 

 ――そう、でも、汚したほのかを叱るのでしょう?

 

 そう、ほのかはあの日聞いた。高村さんは口をぱっくり開けて気持ち悪いくらいニッコニコしちゃって、そのまま流れるようにほのかを自分の膝に腹ばいにして持ち上げ、熱を出して座薬を入れるときと同じかのような要領でドロワーズをずりおろしはじめるのだ。その間まったくの無言で。ほのかももうなあんにも言えなくて、きゅっとからだをちぢこめて、せっかんが過ぎるのを待つ体勢に入り、破裂音を待っていたのだ。

 

 ――いたいよう。ばかあ、たかむらさんのばかー。

 

 そう、痛みは必ず、緊張が解けたところにやってくる。

 撃たれた腿の裏にわずかな圧力を感じた。それはほのかの幼い脈動よりも力強い勢いのそれだった。下でほのかをささえていた名前も知らない人の命が漏れていっているのだとほのかは悟った。彼はとっくに顔をネズミ色の海につけて顔を洗っていた。比重の大きいその海はもう彼の足下でかたまり始めているにちがいなかった。その役立たずの好意の上で泣きべそをかいていたほのかも、すぐにそうなる。今なら。

 ほのかは上をみあげる。暗闇の中に浮かぶ壁は高い。しかし坑の壁にくぼみを見つけた。さっきはそんなもの、無かった気がする――けれど、あそこにジャンプしたら届くんじゃないだろうか。くらくらするあたまでほのかは考える。良識も常識も傷から漏れてしまったみたいに。

 

 ――なんだほら、ほのか。やっぱりあるんだ、物語だけじゃなかったんだ。あそこに道があるんだ。軽くジャンプして、あれを掴んで、ここからでて、家に帰って、あたたかいシチューを食べるんだ。

 泥から足を出す。かわいそうな男の背中を踏む。すると体が沈む。腿の痛みをけなげにこらえて右足の親指に力を入れる、もう片方の足でほのかは跳――――――――――、

 

 

 

 温かいものだった。ほのかはもっと冷たいものだと思っていた。しかし、触れる先から熱くなってきて、ほのかは薄れ行く意識を何度もその熱に引き戻された。

 ほのかの体が穢されていく。かつて南の島に行ったとき、コテージの机にこれ見よがしとばかりに転がっていた泥エステのパンフレットみたいに。

 

 もう、目さえ開かない。

 

 

 ほのかはいまわの際に、にっくき猫の声を聞いた。

 

 

 

 声を上げることも、呪うことも、祈ることも

 しずみゆくものにさよならを告げることも

 空に少しだけ近くあることもできなかった。

 

 

 

 野良猫が墓前で、顔を洗っている。

 

 

 

メメントモリ・セメタリー 了>