トランスパラント・フットプリント

ちはやブルーフィルム倉庫

プライアー・バーサス・ライアー

 

 吐き出さなかった想いは、恋になんないし。

 そうノッピは言った。

 

 

 あたしとその他の有象無象は教室で待っていた。ここにいるのは勝者だった、四限のチャイムが鳴り終わる前にあたしが足した一本の線が勝敗を定めてしまった。ノッピはすぐに戻ってきた。後ろの戸を足で開けながら急に小走りなんかして、机を三つカタめたせまっくるしいランチスペースにセーターにくるまれたノッピの腕がのっかった。

「ろっしあじーん」

「なにそれー」

 ノッピは最高だ。そんな事を無邪気にできてしまうなんてなんてステキなんだろう。ノッピはそでから長い指を出す。膨らんだ袖の中からはナントカポケットよろしくいくつかの菓子パンとパック飲料がどさどさと落ちてきた。ちゃんと一人でもてましたからねと胸を反らせながら主張している。あたし以外はそのかわいらしい仕草を見てもいない。

「袖、のびるぞー」

「えー便利じゃん。あたしはこの技を極めたのだしィ」

「じゃあノッピずっとパシリなー」

「やーだァー、小林の分だけわざと忘れてやるし!」

「あたし弁当だもーん」

「いいないいな! 愛され弁当いいな!」

「愛されてないし、あげないし、お願いしたら少しだけ上げますし。ほれほれ」

「いらないし! 日野はそんな安い女じゃないものねケーチ!」

 ノッピはふくれた勢いで、それの倍くらいふくらんでるスイートブールの包装をパァンと破裂音をさせて破く。教室の気弱な男子が数名怯えた顔で振り向いた。そんなことは気にもせず、安い小麦粉と膨張剤の塊をちぎって口の中に放り込む。あけくちと反対側から開封されたイチゴ牛乳が喉の奥に消えていく。

 あたしはそれを眺めている。卵焼きの味がわからないくらい丹念に眺めている。あたしはもうスイートブールになりたくてしょうがない。それでなければノッピの顔くらいおおきなスイートブールを取り上げてしまいたかった。そして、代わりに自分の手のひらでも置いてみたかった。きっとノッピはスイートブールを取り上げられたことにも気づかず、あたしの手にかみついて、驚いた顔を見せてくれるに違いないんじゃないか。

「――なあにぼおっとしているの? ああ、小林少年は恋しているのね? ぼおっとしてるならたもごやきちょうだ、たまぎ」

 噛んだ。言い直そうとしてまた噛んだ。

「小林はぁ、少女ですよ。たもごやきはさしあげます」

 ――かわりに、そのイチゴミルクをよこしなさい。

 それは言えない。会話が進んでいく。あたしとノッピの二人でなければ誰かがウブな会話を引き継いでくれる。楽なものだ。

「少年も少女もかわんないよ、男子の事は知らないけれど、恋はするはずじゃない?」

「ノッピはすんの?」

「しない」

「なんだ」

 つまらない。

 

 そしてノッピはそのことばを言った。

 このときでないいつだったかもノッピはその言葉を言ったような気がする。デジャブかもしれない。駅で反対方向に分かれるまでのわずかな時間の恋バナの最中だったかもしれないけれど、そのときの相手すらも、その存在すらも定かでない。でもノッピはたしかにそこにいて、特にフリもしないのにそんな話をした――ような気がする。予約しておいたトレンディードラマのオチを言われて、怒ったような気がする。

 

 

 

 ノッピは花園で棘をまといたがるあたしたちのなかで明らかに異質だった。ひまわりのようにふるまい、しかし一人でいるときは泣きそうな氷のごとき表情をよくしていたのだ。

 きっとそこにあたしは惹かれた。ママは言った「それはあこがれとか嫉妬とかそういうものよ」「ママはなんもわかっちゃねーでしょ、ミアイ結婚のくせに」「あら、じゃああなたこそ何もわかってないのよ」そういって全部わかったようにけらけらと私をせせらわらう。わたしは景気よく自室の扉を閉めるのだ。ノッピとメールの撃ち合いをして、九時になるまえに眠くなった。

「どこかいこうぜ」「どこ、宇宙?」「なんか外国?」「かねないし」「バイトしましょう!」「ノッピできんの、そういうの。あたし余裕だけど」「ヒッチハイクしましょう!」「どこいくの」「南の島!」

 

 

 ある日ノッピはいなくなった。時を同じくして女生徒がひとりいなくなった。なんてことだと思った。心中穏やかではなかったけれど「心配だねー」「見舞い行こうよ」「病気なの?」「知らない」「なんか夜逃げ?」「マジで?」「やべえな」「男?」「キャー」「キャア」「いや女でしょ」「女同士ってどうすんの」「どうするってマジビッチだな」「えーだって興味ヤバイし」「だよねー」「ところでさー、昨日のアレみたァー?」「アレじゃわかんねーし!」なんて日常と同じ価値に貶められた。あたしたちには真実を知るすべはなく、真実が紛れていてもそれを見定める目なんかもっていやしなかったし。なによりだれも興味なんて無かったんだ。あたしはヘラヘラと笑ってた。ノッピに宛てたメールは、すぐに英文に変わって返ってくるようになってしまっていた。

 

 

 

 三ヶ月後、その女生徒だけがひょっこりと帰ってきた。ノッピは結局帰ってこなかった。

 それまでなんとも思われていない子だった。名前だって知らなかった。顔と名前を言われてもしっくりこなかった。「ほら、いつもノッピみてたじゃん、なんかほら、隙あらば食おうみたいなさー!」そんなのあたしが知らなかったんだ。ノッピはいつも人気者だったじゃないか。

 ともかく、あたしはその子のことがどうしようもなく嫌いになった。おとなしかったその子に「何が起こったのか」「どうしたのか」「ノッピのことをあからさまに」聞いた。彼女は圧迫にも脅迫にも彼女は口を割らなかった。なにも言わないと堅くとざされた天岩戸だった。夏服に靴跡をいっぱいつけて、ぶざまに地べたに転がってるくせに、この子はあたしだけを下から見下していた。

 蹴りやすい場所に転がっているのが悪いとばかりに、あたしは進んで一発腹にキメた。「すっげ、女サ入りなよー」

「ねーよ。ミユキ女サつくれよー、ストライカーやるー」

「マネならいーよぉ」

「ミユキまかしとくとヤバくね? 部費とか増えね?」

「じゃー、部室に飾るボールの写真とりましょーねー」

「んじゃ、もうちょい模様ハッキリさせっか」

 

 

            ◇

 

 

 子宮の中身みたいに縮こまって転がっていた。

「恋したもんね」と言った。きっとそのつぶやきは、わたしにだけ聞こえるように構えて、狙って、撃ってきたんだ。みんなは反応のなくなった今日のオモチャにそろそろ飽きかけて帰りたがっていた。だれも、最初の趣旨を覚えているやつはいなかったんだろう。

 さきいっててーとわたしは言う。自分でもびっくりするくらい邪悪な顔をボロ雑巾に向けていた。保健室裏の水場にはいつも、ブルーハワイの色をしたポリバケツが転がっているのをあたしはちゃんと知っていた。

 だから、たっぷりと水を汲んで戻った。

 

 

 

「――日野さんが、言ってたんです」

 水浸しのボロ雑巾が口を開いた。

「日野さんは知ってたんですよ」

 ペタン座りのボロ雑巾が言葉をつなぐ。煉瓦色のアスファルトを汚していくのを気にせず。わたしの聞きたくない言葉を紡いでいく。ボロ雑巾はボロ雑巾らしくおとなしくしているべきなのだ。そうすれば、すれ違ったときに全員で笑ってツバを吐くくらいで許してやるのに。月曜の朝になったら机の上にゴミを撒いて、雑巾の役目を演じさせてやるのに。

「――――のに」

 

 

「うるっせえ――」

 

 薄笑いを含ませた蹴りは避けられた。

 

「どっ……」

 どこにそんな元気が残っていたのだろう。そりゃあそうだ。天地が逆さまになりながら敗北したことにも気づかなかったあたしの愚鈍を呪うべきなのだと思う。

「せェ――――――ぃいいッ!」

 残った軸足は華麗に刈り取られた。夕焼けはボロ雑巾の味方だった。ハラから出されたいい声だった。あんた合唱部とか行くといいよと思った。どんな顔をしてるのかすら見えなかった。だから、さっきの勝ち誇った薄笑いをその上に貼り付けた。かなり悪いやつになった。ノッピ、駄ァ目、こんなのに騙されちゃだーッめだって、こいつはこんな顔をする悪い女なんだ。それにぜったいノッピの事なんか見ていない。黒地に白の水玉のシュシュの時は、機嫌が悪いから話しかけちゃいけないんだって。左の八重歯が粘膜に当たって口内炎が出来ることだって。だからいつも右に首をかしげてメシ食うんだって。ノッピ。ノッピ、そんなのっぺらぼうな顔をしてどこに――。

 

 ――いくの?

 

 

 

 恋もできなかったあわれな女が一人、やわらかいレンガに沈んだ。

 

 オレンジ色の中で影が震えている、息づかいが聞こえる。アスファルトの上で行進する蟻が耳たぶのそばを這いずる擦過音がする。お上品の精一杯な悪態と一緒に唾液が落ちてきたけれど、ものの見事に外れた。かわいらしい悪態だった。あたしたちがいつも日常でぶっ放している男子が怯え教師が泣いてパパが玄関で倒れる汚物そのもののことばとは根本から使い方が違う。

 頭が痛い。

 あたしはボロ雑巾の――そいつの顔を見た。

 そいつはあたしの顔を平然としたものと受け取ったのだろう。もしかしたらあたしは知らないうちに笑っていたのかもしれない。それを挑発だと受け取ったのかもしれない。だから、反撃を受けないうちに、マウントポジションを取っている今の内に、這いつくばった敵にアイスピックを突き立てなくちゃなんないんだ。それはあたしたちの権利で、義務で、こいつがいままでずっと放棄してきた生きる証みたいなもんだ。

 こいつは震えながらモデルガンを構えて、よどみなく引き金を引いた。あたしを殺すことを確信して、凶弾は発射された。

 

 

「あたしは、抱かれたもの!」

 

 泣きそうな顔で、着弾した。

 しかしあたしは笑った。ゲラゲラ笑った。弾を間違えたのかと思うくらい盛大に、夜九時のお笑い番組の司会だってこんなに上手に笑いはできまい。だからおかしくてもっと笑った。

 

 

「本当だもん!!」

 

 

 紛れ込んだ外国語のラジオみたいな勝利宣言も、まるめて定期入れに入れてやる。

 

 

 あのひとのストラップと同じ色したポリバケツが、風に吹かれて去っていく。

 夜が来る前に、嘘から逃げていく。

 

(2010-07-10 初出)