スケール・ウィズ・スカル
朝早い教室だった。朝練のはずだったけれど、俺しか部室にいなかった。一人でフるのもバカバカしいのでさっさと教室に来たというわけ、コバッキーはあとでシメるとボードに書きおきして扉を閉めた。震えて眠れ。
木曜日だからグラウンドで野球部が練習している。その片隅でサッカー部がリフティングしている。
教室には誰もいないはずだった、そりゃあそうだ、だって一時間半も早いんだ。女子だ。最近少しばかり長い間休んでいた女子だった。口さがないほかの女子たちは彼女のことをあしざまにあばずれとののしっていたっけ。女子マジこえー。
先入観はよくねーと信じる俺は、大多数の女子のパワーバランウに則って、彼女に声をかけないことを選ばなかった。まあなんだ、三〇分くらいの暇つぶしにメールでかたっぱしから「おい何で今日朝練だれもこねーんだよ死ね!」と送りつけて憂さを晴らすよりはよっぽど発展的に違いないのだ。
「よー、はえーな」
後悔は声をかけたあとにやってきた。
「ひさぶりー、元気ぃ?」
俺の席は後ろにあって、彼女の席は前の方で。俺は教室の前の方に歩きながら声をかけたから、彼女の体に阻まれて、机の上は見えなかった。
「――なにそれ」
「マジ? 知らないの? 頭の骨よ」
「人の?」
「ウシのに見える?」
「いや、サルとかそういうのかなって」
机の上には、頭蓋骨があった。
「本物?」
人の。
「マジもーん」
その頭蓋骨は本物にしては白く、偽物にしては真新しく、模型にしては重いような気がした。
「きったない手で触らないでよねー」
「きたなくねーし。ず……それの方がこえーし」
『頭蓋骨』と口に出そうとして憚る。そんなものがあることを認めてしまうのが怖かったのかもしれない。だけれどそれは、まごうことなく頭蓋骨に見えた。リアルな。
「あんたなにいってんの、昨日脱ぎたてのほやほやなんだからね? これがパンツだったらあんたみたいな童貞は前進から臭い汁ながしてエクスタシー状態ってものよ?」
「なにそれ、俺はなんなのそれ」
「あんたがなにかなんてどうでもいいのよお! じゃない?」
どーん。
彼女は座ったまま、両掌を机に重力分だけうちつける。机上の頭蓋骨が揺れる。シュールだ。
「まあ、俺のことは俺もどうでもいいよ」
「そうなの、つまらない人生ね」
「否定しねー。俺の人生よりもいまここにあるず……これの方が格段におもしろさを演出していることは確かだし」
「これ? これのどこがおもしろいの。こんなものはただの――そう、アクセサリーよ!」
彼女は胸を張る。こんなやつだっただろうか。下の名前も思い出せない暗い女じゃなかったっけか。骨を外すと気が大きくなったりするんだろうか。
「アクセサリー……?」
アクセサリーというのは、つまるところ装飾物で、ゲームだったらイヤリングとかリングとかブローチとかみたいな、身につけるけれどまとうものではない、ちょっとした小物のことを指すのではないだろうか?
「飾りじゃない、こんなもの。それになによこれ、こんなものはだれしも似たようなものを入れてるのよ? それももう十五年くらい? 最初の頃はほらスキマとか開いててかわいらしかったけど……」
「スキマ?」
「頭蓋骨って最初は穴開いてるのよ?」
「マジで?」
知らなかった。
「無知ね!」
「だって、死ぬじゃん」
「あたし、生きてるわよ?」
「どうせフカシでしょ」
「これみなさいよこれ!」
彼女はずずっと前髪をかきあげた。
「おでこ広いね。なに」
産毛も毛穴もよくわからなかった。
「そういうんじゃないわよ! んもう、ほれっ」
彼女は乱暴な音を立てて椅子から立った。片手は生え際を押さえたまま。すっとシャンプーの、そしてもう少し尖った乱暴な清潔さの臭いがした。
「――なに」
「継ぎ目」
「んー? これ?」
生え際の薄くなりゆく肌の色にとけ込むような薄い肌色の十字が連続していく。それは海岸線に刻まれた砂の文字みたいになって、緯線を描いて後頭部に消えていく。
「それ、それ。触ってみたい?」
「べつに」
「なによそれ、いいから触ってみなさいよ。あ、強く押しちゃダメだからね!」
「はいはい」
ぼくの指先がゆっくりと彼女の額に近づく。近づくにつれて彼女が目を閉じた。別に目を閉じる必要なんてないように思えたから、そこに違和感を覚えてしまった俺の指が止まる。
「なにじらしてんのよ……」
不愉快そうに片方の目だけが開いた
「あ、いや。今すぐ」
再び彼女が目を閉じるのを待って指を進め。肌に触れた。触れた瞬間はふつうのと変わりなんかない、誰ともそう変わらない肌だ。縫合されたつなぎ目はほんのりと盛り上がってわずかに堅いように思えた。
「――あれ」
「ほらぁ」
自分の手に遮られて顔は見えなかったけれど、彼女のいたずらそうな、俺がようやく自分の意の通りに驚き、平穏を乱したことがおもしろくて仕方ない。そんな声を出した。
「これ、もっといっていいの」
「だめ」
「ちょっとだけ」
「ちょっとだけだよ、半ミリだけだから」
指が沈んだ。
彼女の声はよく聞こえていなかった。俺は自分の欲望を声に出したんだと思う。沈んだ指。左手の指で同じように自分の額に指を押しつける。
すぐに堅いものが当たり、その先の進入を拒んでいる。
「……マジ?」
スライムを充填させたソフトゴムボールは、こんな感触かもしれなかった。
「だーから、マジだって」
机の上のしゃれこうべは無表情、彼女の顔は見えない。俺の指が、彼女の額に触れたままの指が固まっている。この指はほんの少し触れるだけでほら、額の中に沈んでいくではないか。
「――頭とか切るときってさぁ、感染するから髪丸刈りにしたりするんじゃないの……?」
ぐっ。
「うーん? 知らない。あーそれってちんこの皮切るときだけでしょ?」
げらげらげら。と彼女が下品な声を上げて笑う。歯が見える。
「女子がちんことかいうな。えーマジ迷信なのかなあ……ってかさ、その歯はなによ」
歯は、頭蓋骨にくっついているんじゃないのか。そうだ、現に今ここにあるやつにはそんなに歯並びのよろしくない歯がくっついているじゃないか。目の前のこいつは、作ったような、コマーシャルにでてきそうなほどの白く整然とした歯があるではないか。
「バカじゃないの? 歯がなかったらどうするのよ。食事だってできやしないわ」
「だって、おまえ、これ」
俺は頭蓋骨の顎のところを指さした。彼女はそれを一瞥して、俺の指をおでこにくっつけたまま鼻で笑い。イーっと白をむきだしにしてみせた。ピンク色の口腔。言葉を発するとちらりのぞくざらつきそうな舌。
「こっちがニセモノ」
「ふうん」
どうやって固定してるの、それ。と聞くきが無くなってしまう。きっとこの白い歯みたいな答えが返ってくるのだろう。
ぐっ。
「ねえ、ちょっといれすぎじゃない?」
「なにが」
「ゆ、び、だよ。バカ」
「痛いの? 脳痛いの?」
「脳は感じないけど、皮膚が伸びる伸びる。あと、なんかね、目ちかちかする」
「目が圧迫されてんじゃないの。ってか。目に脳が下りてきたりしないの、骨がないと」
「大丈夫だよ、だって現に大丈夫じゃん」
「どんな気分なの、それ」
ずっ。
「ねえもう怖いから指入れないで。気分ねえ、なんかね。急いで歩くと脳があとから付いてくる感じ」
「走れんの?」
「ダメだって、はげしー運動もダメだって」
「へえ」
ぐぐっ。
「わーわー、もうダメ。ダメ。いまへこんだ。脳細胞死んじゃう!」
「じゃあなんでそれはずしたのさ、やっぱ大事なんじゃん」
「大事なものだから、見えるところにおいておきたいものじゃない?」
「そんなものかね」
額から指を放すと、指の跡が見事に沈んでいた。それでも内側に張った頭皮はすぐに元に戻る。彼女はへこんだ場所に触れてなにをか文句を言っている。
俺は手持ちぶさたになったので、机の上の頭蓋骨へ手を伸ばした。
「あ、ダメ」
「なんで、いいじゃん」
「やだ、不安になるじゃん」
「やっぱおまえ、さっさと戻してもらえよ」
「えーせっかく取ってもらったのに! もうそれをかぶる生活なんてかんがえられなーい」
「重いの?」
下から手を入れる。中に手を入れて目から指を出してやろうとしたのだけれど、意外と骨は中の方まで網目のごとく詰まっていたから、顎をカクカクさせるくらいしかできなかった。
「ふくわじゅつー」
「できてねーしぃ」
「どうして、あたしをすてたのー。いつもまもってあげたのにー」
「こえー、ガイコツにいわれるのマジこえーし」
彼女はゲラゲラ笑っている。笑うと、輪郭をなくした彼女の頭の中身に併せて、水っぽくあたまが揺れる。そんなことに気づいた。
「なんかね、ほら、きみがいないからあ」
彼女は、俺が操作する頭蓋骨にしゃべりはじめた。
「きみがいないから、なんとなあく、最近頭よくなった気がするんだ。ほら、脳ってもっとおおきくなるんじゃないかなって。最近鼻の通りもいいしさ。夜もよく寝れるんだ。頭痛もしないし」
そうだよなあ、寝るときはどうするんだろう。
「ん?」
しゃれこうべにむけられた視線が、上目遣いにこっちをむく。この内側には輪郭がない。水風船のように確かでない袋が、ゆらゆらとゆれている。
野球部のかけ声が聞こえる。
金属バットにミートした小気味いい音が聞こえる。
彼女の笑い声が、水っぽい破裂音にかき消される。
しゃれこうべがガラスの海で、きらきらと笑っている。
ガラスの割れる音が聞こえた。
(2010-06-13 初出 「頭蓋骨持ち歩き少女」TLより)