トランスパラント・フットプリント

ちはやブルーフィルム倉庫

リサ・キーンの朝食

 ぼくらは、スクールバスが嫌いだ。

 

 嫌いだ、といってどうなるものでもない。スクールバスがなければ学校には通えない、学校に通えなければ学ぶことも友達と遊ぶことも教師たちにしかられることもままならない。ぼくらの学校は、とても歩いては通えない場所にあるのだから。

 

 

 それでも、ぼくらはスクールバスが嫌いだ。あの体に悪そうな黄色が嫌いだ、近づくまでもなくそのボディが無数の埃でキズつき、排気ガスで黒く染まっていることがわかる。中に入ればなおひどい、汗を吸わない合成の革座席は殆ど剥がれかけた黄色いビニールテープの絆創膏からコーンポタージュ色の腸を覗かせている。

 

 あの内蔵を見かける度、忌まわしい記憶が蘇る。ジャック・ハティントンがシナモンアップルと胃液を、後ろから三番目、運転手側の窓際席でしこたまぶちまけたあの事件のことだ。みんなはジャックを慰めたり、はやし立てたり、遺書を書いたり、窓を全開にし不吉なオートミールまみれになったMATHのQUIZで揚力の実験を始めたりしていた。

 みんなにとっては”ジャックがやらかした”それだけの――それからしばらく、他のバスで後ろから三番目のその席に座る奴に、みんなでお祈りを捧げる行事が生まれたけれど――ただ、それだけのイベントだった。

 

 しかし、ぼくにとってはそれ以上の意味がある事件だった。ジャックが「弁護士を呼んでくれ!」と意味不明な言葉と一緒にカラーマカロニをえずいていたころ、マクナリッジJrが揚力の実験をすぐさまやめるよう言われていたころ、お嬢イリスが聞くに耐えない四文字で世界を罵っていたころ。ジャックの後ろの席を定座にさせられているリサ・キーンは端正な眉をしかめて手を口に当てていた。その場所はバスの中でもっとも悪い空気がたまる場所であることを、リサの隣にいるぼくは身をもって知っていた。

 

 この座席の下からゴムの焼けた匂いと小動物の腐敗したような匂いがブレンドされて供給される。不思議なものでこのスティッキーな臭気は、訴えられた大人が見に来た時だけは収まってしまう。そんな狼少年に、やさしい大人達は肩をすくめてぼくらに言葉をかける“なんてセンシティブなんだろう! きみは芸術家を目指すといい!”であり“ああ、大丈夫だよボーイ。日本の学校にはいないのかも知れないが、教育の進んだこの国にはスクール・カウンセラーという素晴らしい制度があるんだ”のどちらかである。ちなみに、スクールカウンセラーはこういう“あなたには休息が必要ね”そして“ちょっとシャツを脱いでご覧なさい”さらにぼくの身体のアトピーを見てわざとらしく目を見開いて“イッツアビュース”とFBIにホットラインをつなぎはじめるのだ。なんていまいましい。しかしザマをみろだ、それが原因で、守るべき同胞が忌むべき外国人に醜態をさらすことになったのだから!

 

 調子の悪そうなリサ・キーンはそれから時を置かず、しゃっくりのごとく身体を細かく攣らせた。そして口元を抑えていた指の上、少しばかり高い両の鼻から困ったものが吹き出す瞬間をぼくに目撃された。金髪なのに般若の顔をしたものが血の代わりに黄色いものを口と鼻から垂れ流したまま、ぼくをねめつけていた。鼻っ柱の高いワスプの彼女は、イエローで”ケツの穴みてえな名前”をしたぼくの事をことのほか忌み嫌っていた。ぼくだってまさか、隣の席で十字を切られるようなことがあろうとは思ってもみなかったよ、リサ。今朝は一体、何を食べたの?

 金色の髪は短く切りそろえられていた。睫毛は長かった。怒ると右目の方が左目よりも大きくなる。魚捕り網を掲げて走り回る女子たちの群れの中でも彼女はまあ良くできているという評判だった。こんな後ろの席に鎖されていることを、彼女自身どう思っているのだろう。睨め付けられたぼくは、沈黙を守ったままリュックのサイドポケットから折りたたまれた紙袋を取り出し、軽く広げてリサに渡した。黙ったままそれを渡したのは気恥ずかしかったからではなくて、それを説明する言葉が思いつかなかったからだ。「エチケット袋」なんて単語をぼくは学んだ記憶がないから。

 

 後腐れのない空っぽの容れ物を手に入れるために、リサは魂を誇り高い白人の魂を売った。ぼくはとてつもない笑顔を湛えたままそれを渡していた。リサはなにもかもから隠れるように身を縮めて、袋に顔を突っ込んだ。袋の内側を水っぽいものが叩く音が聞こえる。この音はまだ騒がしいジャックの辺りにだってとどいてはいない。ぼくは内側からビニールを覗かせる紙袋に隠された彼女の醜態を想像する。酸性の粘液が、バター臭いこのリサの喉を擦って灼く音がする。そして、そんな品の無いことを想像している自分に腹が立った。しかし、自然にぼくの口は笑みを作っている。

 

 咳の音に目を戻すと、エチケット袋と青ざめた唇の間に線が作られ、虚ろな目でリサがそれを切断しようとするところだった。ぼくはそれをもったいないと思った。用意していたポケットティッシュを差し出すと、力ないサンクスを聞くことができた。ぼくは軽く、できるだけその状況を楽しみはじめていることに気づかれないよう無愛想に頷く。同時にリサの感謝の言葉が、自分の臓腑から何かを呼びおこしている事に気づく。マズイなと思った。自分ももらいゲロをしてしまうことになると、なんでリサにその袋をくれてやったんだ、ということになってしまう。

 そしてリサは、病人のようにか細い声でぼくに嘆願した。

 

 「バラさないで、内緒にして」

 

 その時、これは吐き気じゃないと気づいてしまった。困ったことにもっと醜悪で不幸な忌まわしいものだった。細いワイヤーを鼻腔から勢いよく潜り込まされた時のような摩耗する感覚に襲われた。祈る様にゆっくりと、両手を口と鼻に被せるように合わせ、誰にもばれないように深呼吸をした。視界の端でリサは口の周りの汚れをティッシュで拭き、忌々しそうに袋に閉じ込め、それで封ができるかのようにぎゅっと袋の口を抑えた。リサが手を離すとその努力を笑うかのように、袋の口は開いてしまう。舌打ちがぼくだけに聞こえた。

 

 

 ぼくは、ふとその紙袋が欲しくなった。

 

 正しく言うと触れてみたくなった。しかし、触れれば、ぼくはその忌まわしい紙袋を所有したくなるのは明らかなことだ。だから「欲しくなった」は間違いじゃない。でも、どうすればいいんだろう。「それ触ってもいい?」はあまりにも愚かだ。

 少しだけ考えて、憔悴したリサに声をかけた。リサがこっちを向くと、ぼくは努めて紳士的に「その紙袋をぼくに捨てさせてもらえるかな?」そう申し出た。拒否されたら「でも、バレたくないんでしょう。ぼくが持っていけば、たとえバレてもきみのだとは気づかないよ。ほら、もうバスは学校に着いてしまうんだ」そう言わなければならないから、その構文を必死で頭の中で組み立てていた。結局、その真意の伝わらなさそうな言葉を、ぼくは吐かずに済んだ。

 

 リサは、無言で紙袋をぼくによこした。

 

 やがてバスは学校に着いた。すぐにジャックはばつのわるそうな顔をしながらスクールドクターのいる医務室へ向かった。リサは口を気色悪そうにもごもごさせながら、それでも平然を装った極上のしかめッ面のままバスルームへと走っていったようだ、バスを降り際にぼくのことをちらりとみた。それだけでぼくの中にある蛇口の栓がゆるむ。

 ぼくの手には、普通だったらベーグルとクリームチーズが入っているとでも考えられる紙袋が残された。その茶色の衣が、中にある忌まわしいものを上手に隠している。指先からしみ出る汗を毛羽立った繊維に吸い取られていくのを感じながら、ぼくはやっと校舎へ向かった。一時限目のScience教室にぼくはその紙袋を持ったまま、向かった。この臭気はすべて、ジャックの所為にしておける。その完璧さに頭痛がした。

 

 ぼくは興奮していた。サイエンスの授業は全く耳に入らなかった。水が何度で沸騰しようが、何度で沸騰させようが、ぼくの世界には全く関係なかったし、危険でもない。ぼくが今興味があって、本当に危険でドキドキさせてくれるのはここにある紙袋だ。足先で玩ぶと頼りない重さが響いてくる。その感触で一時限をこなした。

 

 二時限目にはこの遊びに少し飽きてしまっていた。ぼくにはもうとっくにあたらしい刺戟が必要だった。バスケットボールを顔面で受け止め、白人どもの失笑を浴びながら、ぼくはリサ・キーンの髪の毛に付いたまま、拭き取られていなかった飛沫の現在について夢想した。ぼくはその想像によって、やむを得ず足を痛めて退場する演技をすることになってしまったけれど、ぼくには新しい今だけの趣味を終わらせる想像を完成させる時間を十分に取ることができた。

 

 そしてランチルームで“リサ・キーンのブレックファースト”とマジックで記された爆弾が、およそ二時間と十七分後、ランチタイムまっただなかに爆発した。幸運なことに、誰もその水に溶けやすい紙袋に書かれていた名前を”リサ・キーン”だと読み取ることはできなかったし、それをしかけたのがぼくだと言うことも、知られずに済んだ。仏頂面の清掃員C・メイスンが、砂をかけてなにもかも一緒くたにして、土に戻すべく真っ黒なタール色の袋にこんどはきっちりと封印した。小心者のぼくには、その終わりで十分だった。喉が渇いていたぼくは、ランチルームの阿鼻叫喚をよそに、べとべとの自販機でシナモンアップルソーダを買って、一気に飲み干した。一人きりの祝杯だ。

 

 後日、ぼくはリサ・キーンが中国映画のファンだったことを身体で知ることになった。ぼくは一月ばかりコルセットがいかに蒸れるものかを学ぶことができたし、リサ・キーンの両親の顔を拝むこともできた。そして、リサ・キーンはぼくの隣に二度と座ることはなかった。今でもリサ・キーンにどうしてバレたのか、わからないでいる。彼女の席には今、忌まわしい思い出から逃げてきたジャックがニヤニヤ笑いを浮かべて座っている。白目を一杯に広げて、プラネタリウムが唾を飛ばしてくる。

「ヘイヘイ。どうしてリサは、きみをサンドバッグにしたがったんだい?」

 

 まったくつまらない。本当につまらない。ぼくはジャックを一瞥し「ジャック、きみの口臭はほんとうにキツくて吐きそうになる」この言葉を飲み込んだ。ジャックは半開きになったぼくの表情の真似をしばしして、つまらなそうに前の席に身体を乗り出した。

 

「ワーオ! ゲロくせえ! くせえぜ! 誰だよ! 俺だ!」とジャックがわめく。悪ガキどもがそれに呼応してはしゃぎはじめる。

 

 ぼくは目をつぶって、臓腑から湧き出てきた酸い唾液を飲み込む。

 今にも、吐いてしまいそうだ。

 

(2009-06-08初出)