終の苑(ツイノソノ)
地を這う人々よりも、わずかばかり空に近い場所で。
さらに空に近い場所へ、既に動かぬ足を踏み出した。
本当ならばその汚れきった魂は、糸を断たれてヘリウムいっぱいにはらんだ風船のように空へと持ち上がり、エアの無くなった上空で溶ける。そのはずだった。
ネブライザの不吉な音が、聞こえる。もう言葉を紡げない役立たずの口の中に水を撒いていく。
終着のはずが、執着になった。
運がいいのだと娘が耳元で囁いている。それはオレが思うことで、お前が言うようなことではない。だが、喉と空気が擦れる落としかでない。娘はオレの様子を「苦しんでいる」と察したらしく、看護士を呼びに行った。
ただ頷けば、良かったのだろうか。
ずっと頷いていけば、良いのだろうか。
オレがいなければ、この世界はどうなってしまうのか。
オレといういう矮小な器から溢れこぼれる価値の数々。それを目当てに集まっているかわいそうな有象無象はどうなるのか。オレは水道の蛇口だ、死ねばその栓は自動的に閉まるのだ。
汚れているが故に頼られる楔を頼らざるを得ない臆病者どもたち。彼らを誰がつないでやるというのか。
一人では生きられない、望まれなかったオレの娘はどうやって生きていけばいいのか。 死んで、しまうのか。
腹に開いた穴から、流し込まれていく。
体温ほどの温度を与えられた栄養素のゲルはなるほど、オレのからだにやさしいだろうさ。
しかし肉は二度と噛み切れぬ。
しかし酒は二度と味わえぬ。
しかし女と二度と寄り添えぬ。
しかし、贅はとうにつくしたではないか。
バカな。テレビに映ったあいつの顔を見ろ。オレの子供よりもわずかに年を食っただけのあの男の顔を見ろ。今にも死んでしまいそうではないか。くたばるのはすぐそこではないか。ああ、いやだ、いやだ。この声を聞いてくれ、オレの声を聞く義務があるだろう。誰か、誰かいないのか、誰か。誰か。
苦しくなり、意識が遠のいていく。
◇
まどろみから醒める。いったいどれくらい寝ていたのだろう。残高はどれくらいだろう。目はとっくに衰えた、新聞もテレビのテロップも読めない。鼓膜がふるえている。これは娘の声のようだ、一番出来がよく、一番純粋で、一番愛さなかった娘の声だ。オレが一番甘えることになってしまった娘の声だ。
名前を呼ぼうとした。声がでない。
この声は直らない。生きながらえるためにあけた穴は、もうふさぐことができない。指先からうめき声をもらす。きっとミミズがのたくったような字になっている。
聞こえる。歌が聞こえる。
くだらない唱歌だ、なんだこの調子外れは。オレはもっとうまく歌える。やめろ、娘。おまえまで歌うことはあるまい。やめろ、オレの声はでないんだ、おまえらだって知っているだろう。
喉にまた痰が絡まっている。喉に開けられた穴に管が突っ込まれ、衆人が見守る中、オレの中に巣くう汚物が薄汚い音をたてて吸い上げられていく。その穴から、空気が入ってくる。無臭の空気が肺を満たしていく。生きている。
指が止まっている。
この指は手元にあるはずのノートに「殺してくれ」と書く為に差し出した。娘はオレにペンを握らせた。なにか書かなくてはならない。「死にたい」でもかまわない。なにより「殺してくれ」よりも字数が少なくてすむ。
その弱音が聞き届けられなくとも。自分のためではなく、他人の為に生き残らされるのだとしても。
指はしばらく止まっていた。
また合唱がはじまる。同じ唱歌だ。懐かしい唱歌だ。オレもきっと歌ったことがある、好きでもないのにメロディーだけは頭に残る。
――うさぎ おいし かのやま
――こぶな つりし かのかわ
食堂が大合唱している。暗闇の中辛気くさい声が響く。栄養失調手前の骨から響くような声がする。アとオしか判別のつかぬ声がする。薄く舌打ちが聞こえる。子供をあやすように手拍子を加える職員の甘ったるい声が聞こえる。そのどれもがいやでいやでしかたなかった。
みじめでしかたがなかった。
泥が胃の底に降りてくる。
喉はもう、空気だけの通り道だ。なんだオレはとっくにアミノ酸で出来た試験管とフラスコの集合体でしかないのじゃないか。ずっとそうだっただろう。いいや、試験管もフラスコも、自分の意志で動いたりはしない。
合唱が続いている。
――ゆめは いまも めぐりて
――わすれ がたき ふるさと
「パパ、歌いたいの?」
ちがう。
――いかに います ちちはは
――つつが なしや ともがき
そんなものはなかった。とっくに捨てたものだ。隣には誰もいなかった。後ろには誰かがいた。捨てたものを顧みることはしなかった。一時だけ横にいた人を、オレはとっくに殺してしまっている。それからずっと、娘の声を聞く度に心臓が痛い。置いてきたものを、三越の紙袋に詰め込んで白衣の裾に結びつけたがる。トランクのタグに名前を書きたがる。それでいて、自分はとてもいいことをしたと思って、誉めてもらうのを待っている。
誉めたことなど、一度もない。
――あめに かぜに つけても
――おもい いづる ふるさと
そんな場所はない。オレのいる場所だけが、ずっと、オレのいる場所だったんだ。
ここの天井はどんな色だろうか。まだ視界が届く頃のことを思い出そうとする。きっと壁は白かった。介護士達は眉を顰めさせるようなピンク色だった。オレの中に流れ込む食事は水槽の底に溜まった泥のような色だった。
――こころ ざしを はたして
そうだ、果たした。それだけは果たした。
あの会社は大企業に成長した。あの薬は人々を苦しみから救った。もうひとつの薬は人々に利益をもたらした。オレが繋げたあいつとあいつは、とうとう国をひとつ救ったではないか。
果たした、果たしたぞ。
だから。
――いつの ひにか かえらん
指先にはまだ、筆記具を握っている実感がある。きっと、その先にはメモ帳がある。
オレのかすかな意志をとりこぼさぬようにくくりつけられている。指先を動かす。動いた感触はないけれど、紙を擦る音は、合唱に邪魔されながらも確かに聞こえてくる。
「帰りたい」
やっと、それだけを書いた。
笑いたい気分だ。どこへだ。
この視界なき泥の海はどこまでも続いていく。帰るすべなどない。船も板も泥で出来ている、この身体も、とっくに泥になっているのだ。どうしたって沈んでいく。
――やまは あおき ふるさと
――みずは きよき ふるさと
老いた娘達が笑っている。オレの字を笑っている。
娘はいつのまにか、二人に増えている。
「なんて書いてあるのかな」「いたい?」「どこか痛いの? パパ?」「だれか呼ぼうか?」「ねちゃったの?」「じゃあ大丈夫じゃない?」「そうなの? パパ」「あ、あたしそろそろ行かないといけないんだ」「あら、あたしも、パパ一人になっちゃうじゃない」「大丈夫よ、かわりゃしないわ」「そーお? 意外とわかっているものよ」「じゃあ、いてあげたらいいじゃない」「外せないお約束がございますのよ、姉さん」「あらあら」
そして娘達の声は遠ざかっていく。自分の居場所が日の当たる場所にある気配がする。
変わらない、満足なときもそうだ、誰の声も聞こえていやしなかったし、誰の事も見かえすことはなかった。見たいものだけを見て、己と、それに利するものだけを研鑽してきた。そして果たした。人より多くを、人より高みで果たしたのだ。果たした。
――オレはやり果せたのだ!
しかし、帰れなどしない。
ここが、地の果てなのだ。
泥が、肺をやさしく満たして、ゆく。
(2009-09-03 初出)