シオンナモナの塔
「あれまあ、どうして起こしてくれなかったんよう!」
そんな声で目が覚めた。
制服の、少女の後ろ姿が見えた。うなじと運転手に食ってかかる横顔が見えた。怒っているようなのに眉は太い、上で留められた髪のおかげで露出したうなじは世辞抜きに綺麗で、寝起きの俺はその白さにしばしみとれた。白い制服だった。彼女はてとてとと後部座席に戻ってくる。バスは直ぐに止まって、慣性の法則で座席から投げ出されそうになる。彼女はというと、手をばたばたさせて、スカートから生えた二本のダイコンをしっかとひらいて、その三つ折り白ソックスを恥ずかしげもなく晒け出したまま転ばぬように、強くたたらを踏んだ。
「おやあ、おっじさん、この時間にゴルフ場まで?」
「ん?」
「あ」
少女は俺の後ろにある自分のスポーツバッグを肩に担ぐ。勢いよく引っぱったものだから、慣性に引っぱられてまた小さくたたらを踏んだ。彼女はオレに問いかけた癖をして、オレのことは二度と見ずに運転手に軽口を叩きながらタラップを降りていった。運転手がエンジンをかけ直しながらオレに聞く。ミラー越しにも見ちゃいない。
「――お待たせしました、ゴルフ場まで?」
「――あの、ゴルフ場て」
「ゴルフ場はもうありませんがね」
「あ、そうなの」
バスから降りた。
駅からは異様に遠かった。この後、あのバスはゴルフ場に向かうという、一昨年倒産したそのゴルフ場は、再生を目指して土日だけ営業していると、そして運転手は「もういいですか?」とわざわざ言ってドアを閉めた。ならば平日に向かわなくても良さそうな物だが、車庫がその辺りにある関係もあるらしく、運転手は昼下がりの空気を載せて排気ガスを垂れ流していく。海の見えるゴルフ場に。
右手は海、左手には山。
いっそのこと、そこまで行っても良かったのではないか。そんな考えが頭をよぎる。ゴルフ場ならば、多少高くとも寝食にはありつけると、なぜ気が付かなかったのだろう。そうしなかったのが、ものすごい惜しいことのように思えてくる。
機械油の臭いを、夏が揮発させていく。
深呼吸する前に気道が咽せるほどの熱、バスの中ですらも温く重い空気に満たされていたけれど、それでも文明の力たる冷房の力は働いていたことを知る。どこだってこの不快さは変わらない。ビル群の中に取り残されていたときに満ちていた人の脂と煙草と地下鉄の臭いはしない。微かに香るそれは、俺自身に染みついた記憶とか呪縛によるものだ。ここにはその代わりに別の耐え難い臭いが漂う。
土と草の臭いだ。
田舎のいい空気でも吸って来いよ、なんてのたまった課長の顔がちらつく。このあからさまな田舎で、今俺が吸っている臭いの元を辿っていけば牛のクソとか、破裂したカエル、清廉なバスタオルと思いきや虫に食われ果てた哀れな逢瀬の痕跡とか、そんなもんに辿り着くしかないのだ。ノックスとソックスと黄砂の混じった空気と、どのくらい変わりがあるってんだ。
「――はァ」
ため息がこぼれる。何もないのだ。
焦げたアスファルトとゴムの焼ける臭いが混ざった都会が既に懐かしかった。砂漠でなくとも蜃気楼の中に居なければ落ち着かない身体になっていた、好きこのんで田舎に来る奴の気が知れない。
バス停を探しながらオレは考えていた。降りたところはバス停ではなかったからだ。いざ帰るときの道しるべを失ってしまうのは御免だ。
しかし、歩けどもバス停の看板は見あたらない。数十メートル先まで田んぼだった。いや、それが田んぼかどうかは都会生まれ都会育ちのオレにはさっぱりわからない。が、麦ではなさそうだし、他の穀物が生えている所など見たこともないので、小学校のときに一度見たきりの教育ビデオを思い出せば、ただ青々と天をさしてそよいでいるお行儀良い葉は若い稲のように思えた。少なくともトウモロコシではなさそうだ。
いまいましい光景だと思った。あぜ道に放り込まれた自転車は部品をいくつかぶんどられて錆びている。知らない虫の鳴く声がする。空がやたら高い。車が通る気配がない。人に道を聞こうにも、なにやら作物の葉はどこまでも戦いでいるのに、民家も麦わら帽子のひとつもみえやしない。土埃で灰色になった白いトラックは開けっぱなしでキーも挿しっぱなしの癖して、あたりには誰もいない。エロ雑誌が助手席の足下に詰まれていた。
農地は不意に途切れた。バス停が見えた。
「うへえ」
気の抜けた声が漏れる。
消えかけの文字が錆びた丸い鉄板に描かれ、シジミの混じった山の中でも磯臭いコンクリートブロックに突き刺さっていれば納得もできるし、それなりの風情もあるというものだ。だのに。
分煙スペースが完備されたガラス張りの軽いハコものみたいなバス停が、数十メートル過ぎた場所に見えたのだ。
我が目を疑いつつもバス停に近づく。近づくに連れて据わりの悪さがこのうえない、ひどい線。同時にそして段々と理解する。このバス停はきっと最近出来た物であること。それも三月の終り近くだ。この近辺に住む婆さんかなにかが「ヘェ、ウチらの村サのバス停だば、ナウくこッジャれた感じにしとくれるって、選挙の時あんた申しとりましたけん」と言って村役場の前で腹でもかっさばいたのだろう。それで、使ってしまわなければならないオカネなんてものがそういうとき存在するのだ。
「ま、そんなところだろうな」
バス停には「神社前」とあった。
「さて……」
辺りを見回しても何もない。、山は見えるが道は無い。だが、海よりも山の方がそんな社はありそうだ。空を見上げれば日が高い。僅かばかり沸いた興味が、汗になって泥の上に落ちた。
夏というのはそういった類の化け物のようなもののはずだった。俺が小学校の図書室で読んだ少年冒険物で、面白い物の殆どは夏だった。長い夏休みのどこかで、学校家庭から逸脱した2、3日の冒険に胸を躍らせ「おいおい、家に帰らなくても怒られないなんて、なんてオトクなんだ!」って羨んだ。
「――ノスタルジーって、高くつくよな」
いうなれば、余興だった。
乱数生成アプリケーションで適当にはじきだした場所に行ってみようと思ったのだ。出てきた数字がどこかで見たことあるもんだなって思ったのがそもそもの発端だった。いや、俺はどこかに逃げ出したくてその理由を探していた――というのは大いに考えられることだ。その数字はIPアドレスのようにも見えたが、明らかにひな形を外れていた。それでも、どこかで見た気がする、と仮想空間上の住所ではありえない意味のないはずの数字を止せばいいのに検索窓にブチこんでみたいのが先週の終わり。第三ズームまでしかマトモに表示されないエリアネバダのごとき「秘境」。今年入った新入社員に四十七都道府県を聞けば最後まで出てこない県のそのまた僻地。
現地写真はネットに転がって居なかった、動画なんてなおさらだ。プロフを検索すればそこに住んでいるような名士が出てくるかと思ったが、それすらもでてこない。「現代の秘境」なんて言葉を脳裏に浮かばせて消えていく。駅の近くには役場、郵便局、コンビニ、神社。そんなものが近くにあるように見えた。ここの人たちはどうやって生活をしているのだろうか。
バスに揺られている途中で「止めときゃ良かった」と思った。シルフもトロールもいるわけがないのだから。いつのまにか寝こけていて、気付けばやっていないゴルフ場の一歩手前で、コンビニも自販機も見あたらない。たまにやたらと場違いな高級車が無造作に停めてあったりするのだ。その異様なミスマッチに対する不安や絶望は、さっきの煌びやかで無駄なバス停を見たときにあきらめとなって、土に帰った。
バスの中からたまにチェックしてはいたが、とうとう電波は来ない。いつのまにかタイムスリップしていたとしてもそれはそれで楽しかろうが、どうせそんなこと起こるほど、この世は都合良くできていない。電波三本全国カバー! と謳う通信会社のコピーに難癖をつけたところで「電波の届かないところは、この国じゃないんですよ」と言われてしまえば鼻の穴を目いっぱい開けたまま温もりの残る椅子に着席するほかない。世界と繋がれない最先端デバイスの電気力をGPSがモリモリと削っていく。目印のろくにない等高線の中で赤く点滅するポインタが逆に不安にさせるから、やがて電源を切った。
「ん――……?」
山の斜面に顔を近づけ、見上げるように見てみると、明らかに木々の生えていない場所がある。顔に近づく虫を脅しながら、手で草を払う。払うごとにまた土の匂いがする。そこにははたして、石段が隠れていた。石段と言うにはなかなか厳しい岩の道で、その隙間には草が生い茂り、下から持ち上げる質量の力で、本来は整然としていたのであろう石段を無惨なただの坂道にしてしまっていた。端の石を踏むと持ち上がった分だけ、ずぶりと沈む。
「こりゃ……難儀だな」
石段だったらしきものを上っていく。雨が降れば泥でボードを滑らせられそうな斜面に、申し訳なさそうに足をかけられそうな凹凸が付いている。当たり前だが手すりなど無く、詣でる地元の民がいるようにも見えなかった。百年の単位で忘れられたかのような、社。この上に本当にそんなものがあるだろうか。
「ん」
登りきる前に痕跡を見つけた。岩にはどう頑張ってもなれない程度大きめの石がその斜面から転がり落ちたばかりの窪みだった。スプーンで抉り取られたようなその跡にアリより小さな虫が蠢いている。石の裏に隠れ、あからさまに陽の光の下にさらけ出されても、いきおい土の下に潜ったり、四散したりせずいるこの哀れな虫たちを見ていると、今にも踵を返し、あの居心地の悪そうなバス停の中で囚人ごっこでもしていたほうが心身にやさしそうな気すらしてきた。
足を滑らせそうになりながらどうにか登り切っても、果たしてまだ上に続く道があり、その先に鳥居の姿が見えた。鳥居はもはや赤くもなく大きくもない。だが、この階段の中腹にある広場の祠はあまりにも無惨な状態だった。
「ひでえな」
ここがこれほど無惨なら、その鳥居の上にはきっと何も得るものはないだろう、ただ悲しくなるだけだ。その悲しさに価値を見いだせるほどまだ枯れてはいないつもりだった。
帰ろうとすると、砕けた階段の一番上に、ちょこんと少女が座っていた。
「――あれ?」
見覚えのあるうなじだと思った。少女がすうと横を向く。大きなスポーツバッグが傍らに置かれている。
少女は裸足だった。ワイシャツの襟を立て、胸元まで開襟していた。髪は根本まで真っ黒で、顔は年相応に赤い花を咲かせている。そうだ、バスで先に降りた少女ではないか。
「サボりか」
びくり。少女の身体が撥ねた。ほどなく両足が振り上げられ、ひょいと下半身から起き上がる。身軽な物だと思うと同時に、その仕草は子供がする仕草に含まれるように思えた。
「……道間違えちゃった」
少女はオレのことを、さっきバスで会った人物だとすぐに認識したようだった。
「オレもだ」
「――おじさん、誰。人呼ぶよ」
にやあ、と笑った顔には愛嬌があった。横顔では美人かもと思えたけれど、この寂れた場所に相応の器量だった。
「来ないだろ、こんなとこ、誰も」
「神様がー、見てるんだからね」
「ここ祀られてんの誰?」
「へ?」
「カミサマ。ほら、なんかあるだろアマテラスとかスサノオとかオオクニヌシとかアメノウズメとかスクナビコナとか、神社なんだし」
「えっ、なにそれおじさん宗教のひと? こわッ」
「……ここの関係者じゃねえの、あんた」
「あんたってなによ、若い娘つかまえてさァ」
「田舎娘なんかに興味はねえよ、太い眉してさ。ほら、このへん、なんか伝承とかさ、ないの」
「さー? 変かね、太い眉は変ですかねェ!」
「ほらさ、こう言うとこだとなんか出るもんだろ」
「出るって? あーあーあー、なんかそういう宗教的なやつ? おっさんやっぱりそういうの? こわっ! こわい!」
キャイキャイ言いながら少女はひとりでウケてのたうっている。そして、自分に理解出来ない物は全部宗教でひっくるめてしまうらしかった。少女は学校に行くことを諦めたのか、旅人然とした流れ者のオレをロバ穴の代用品に仕立てあげたかったのか、次から次へと話を垂れ流す。その話の内容の殆どは夢見がちでそれでいて即物的で、短絡的で、経験の浅い小娘がそれを自覚した上で壊れた蛇口のように垂れ流す他愛も無いヨタ話だった。
オレは適当に相槌を打ちながら、なんでオレはこんなところに来てしまったのか考え始めた。理由なんてものはないと言えばない。あるといえばある。ないから来たというのは正しいことだ。この場所には縁もゆかりも根も葉もない、死に場所を求めに来たと言えば格好も付きそうなものだが、おっさんと呼ばれるほどに、もはや若くもない。しかし死も近くない。改めて中途半端な場所にいるものだと思う。
こんな時、煙草の一本でも吸えれば良かっただろうかと思う。オレの視界には、そんなオレを笑うかのように長ッ細い煙突から白いケムリがもくもくと上がっていた。あれは、ゴルフ場の方向というヤツではなかったか。
「……でもねえ、ここではしあわせになれないんだよ」
「なんで」
なにが「でもねえ」なのかついぞ聞いていなかったが、煙突に気を取られていたオレはそこから彼女の言葉が耳に入った。
「あたしは、ここを出て行かなければならないのですよ」
「なんで」
「そりゃ、宗教にとりつかれてころされてしまうから!」
「なんだそれ」
「おっさん、さっきからなんかさー、疑問ばっかだね。そんなんじゃ先生に嫌われっよ」
「もう学生ってトシじゃねえよ。おまえさんもそんなバカっぽいと先生苦労するだろ」
「そォーれがさーァ!」
に――――ッ。と横にのびるような笑顔が突き出されていた。
「……なんだよ」
「あ、そうだ。あたしいいこと思いついたんだった」
「何をだ。あと自分からフった話を逸らすんじゃない、さっきからどーでもいいような話ばっかしやがって。あれ、何?」
オレは彼女の話の腰を折って、煙突について尋ねる。
「えーあれ? うーん、ナモナよ、ナモナ」
「なんだそれ、石鹸か」
「あーわかるわかった! ナボナだ!」
「おやつに入」
「それバナナだ! うっわ、オッサン!」
「ああ、ナモナって、なんでもないってことか」
「そうそう、なんでもないのよ。シオンナモナの塔」
「なんだそれ」
「カッコイイでしょ、あたしが付けたの」
「すごいじゃん。お前しか呼んでないんだろ?」
「……せいかーい」
「なあ、どうやって生きているんだ、ここのひとらは、米?」
不躾な質問だ。だが、旅の恥は掻き捨てとも言う。旅人というのは、本来、無礼なものなのだ。
「ん――?」
さっきの横に伸びるような顔をまたする。少女は俺の横に来て座った。女の臭いでもすると思ったが、そんなことはなかった。汗の臭いすらしない。ミルクの臭いすらしない。
臭いに溢れたこの空間の中で、彼女は無臭のままでいるかのようだった。透明になりかけているガラス、染まることを拒む筆入れの水。それでも、塩素の臭い位しても良いはずだろう。冬の入り口だったとしても、彼女からパラゾールの臭いはしなさそうだった。
「ナモナもねえ、役に立たないわけじゃないんだ」
「ナニモナイなんだろ? なんの役に立つんだ」
「ほらぁ、なんだろう、えっとさあゴム! コンドーム!」
「はァ?」
「あっ、オッサン想像した! えろい! ちょっとやめてよねカミサマよぶからね!」
「呼べばいいじゃねえか……おまえさん多いな、自分で妙なこといって盛り上がるの。田舎の学校っておまえさんみたいなのばかりなのか」
「さ――ァ、どうだかねえ」
「で、ゴムがどうしたんだ。なにもないけどセックスはあるとでも言いたいのか、爛れた青春なのか。オレは青春ってのをそれなりに羨ましいと思うぞ」
「何いってんの? やだーァ宗教?」
「…………」
「ゴムってさーァ、使う時何か入ってたら困るでしょう?」
「お前使ったことないだろ。中に潤滑ゼリーとか入ってるぞ」
「えっ……?」
「なに……その顔」
「うそ!」
「ウソ言ってどうすんだよ。マジ話だよ。なんで俺はこんな中坊でもしねえようなつまんねえエロ話させられてんだよ。ゴムの話とその……ナモナがなんの関係あるんだよ。性に奔放な東南アジアってことか?」
「ん――。 あ――! もしかしてハバナ?」
「正解したんだからなんか頂戴よぅ」
「話聞けよ正解じゃねえってんだ。おまえ、定期試験で点取って親になにか買ってもらうタイプ?」
「そういうのないよ、まあでもさ。ナモナに買ってもらえるものもあるかな」
「なんだそれ」
「この村はねえナモナでできているんだモナ」
「オレ、そういう語尾のキャラクター、隣のプロジェクトで見た気がするわ。ナモナってなんもないってことなんだろ、なにもないのに、カネが生まれるかよ」
「ナモナは、疲れるとショモナモナに進化するんだよ」
「は?」
「だからナモナはいろんなものを買ってくれるよ。ほら、おっさんもみたでしょ、この下のバス停! 笑うよねえ!」
「ああ、あれな。アレだけなんであんなすげえの」
「んふふー、それはトクベツだから!」
「なんで本殿とか、道とか直さなかったの?」
「それにはナモナの力は及ばなかった。それだけ――ねえ、おっさんもさ、ナモナの力。みたい?」
「は?」
――じゃあさあ、目つぶってよ。
オレは鼻で笑ったあと、目をつぶった。本気でつぶった。
ふと、花火の気配がして、
目を開けると、誰もいなくなっていた。
帰ろう、と思った。鳥居の方には上がっていかず、ボロボロの階段を下りていく。なぜだか酷く疲れていた。
――あれは。
それこそ少女の姿をした妖怪の類ではなかっただろうか。なるほど、このヤオヨロズのカミガミがおわしますクニであるからして、ワイシャツの襟元から雫の滲む柔肌を見せつけてくる扇情的なヤツがいても良かろう。そいつは乱数の中に住んでいて、浮き世に疲れたオッサンをからかっておあずけをくれて去っていくのだ。
「つまんねー話だ」
足が止まる。視線の先にまだもくもくとケムリを上げるなまっちろい、緑と白のツートンカラーの塔が聳えている。
オレは少女の足音を聞いている。足音のする、影のある、ケータイのメールを確認する妖怪について、しばし考える。
「あー……」
ため息をつく度に緑色の空気が肺の中に入ってくる感じがする。長くここに居てはいけない気がした。「背筋が寒くなる」という表現が近い。ひとつ呼吸をする度に呪いのようなものを取り込んでいる気がした。やはり古い、守のいなくなった神社なんて呪いの場所に長くいるべきではないのだろうか。
積もった枝、生い茂る雑草、季節外れの蚊柱、緑の臭い。
守の居ない聖域なんていくらでもある。忘れられたとしても聖域だった記憶と所以を領域が忘失しない限りは続いていく加護ではないか。
だが、同時にそれこそが呪いの本質であるような思いも捨てきれない。
「ふむ」
少女は戻ってくる気配がなかった。それはそうだろう。たとえば唇が湿りでもすれば、財布がなくなっていでもすれば、彼女を慕うムラの若い者の集団に囲まれていたりすれば、まだ話のタネにでもなったというのに。ここにはその、
「ナモナー」
それしか、ないという。
名も無きナントカ。なんて単語が浮かんで消える。名前くらい聞いてもよかっただろう、何かが起こることを期待したのであるならば、名前は、名前くらいは聞いてやるべきだったのではないのか。それが、こんなナモナな空間への礼儀でないのか。
「そうだな」
オレは自分で機会を失ってきたのだろう、と思う。
ここは彼女やその住人たちがいうほどナモナではないのかもしれない。しかし、俺にとってはナモナである。
「そしてナモナはナモナだから価値はない」
見返りのない旅だと笑う準備を、今のうちにしておこうと思った。
バス停に戻っても誰もいなかった。
バス停からも長ッ細い――緑と白で交互に塗られた細長く威厳のないバベルが見える。かつての「ゴルフ場」のあたりにあるのだと思われた。バスは律儀に閉鎖されたはずのゴルフ場から帰ってくる。朝と夕方にはすこし回数を増やして五回。誰かがそこになにかをしにいくような。駅とこの停留所の間にわざわざシールが貼ってある。社宅と書かれていた。なんの社宅かはわからないが「社宅」とさえ書けば通じるのだろう。ここにはきっとそれしか「会社」はありえないのだ。このバス停もなにもかも、価値があるのだ
バスは時間通りに来た。
来る時と同じ運転手だと思った。白髪の具合が似ていると思った。この路線バスの運転手はきっと四人くらいでまわしているのだろう。誰かが風邪を引いたら半分以下になる自転車ラインだ。そりゃ一時間に一本にもなるだろうし、役所前で弁当も食わにゃやってられんだろう。特に観光で誰かが来るわけでもないこんな場所なら、俺のような余所者が来たことなど、こののろいバスよりも早く蔓延する情報に違いない。
そこに思い当たって、俺は安心した。そんな場所が若い者が余所に行くことなど許すわけがないではないか。俺がわざわざ止めずとて、あの子が逃げ果せるはずはないのだ。学校に行かなくても、部活に行かなくても、家に帰らなくとも、バスより速く知れ渡ったその脱走者の可能性は、この集落の総力を挙げて「引き留め」にかかるだろう。
駅までに役場の前で停まった後、あと二つの停留所を通り越して駅へ向かう。ここからは長い。駅まで二十分くらいを揺られ続ける。もしかしたらその間に停留所はあるのかも知れない。それでも、この時間に駅を利用する村民はいないとみえてバスは民家のなさそうな山道をすっとばしていく。ここに来るときのように、野菜を背負った老婆の隣で十分ばかりの緊急停車を決め込むこともない。
あと二回ばかりこのバスを利用したら、地元の中学生手作りの「ココ! 臨時停留所!」的看板を見ることになったかもしれない。その機会を失ったのは惜しかったと思える。
俺は胸を撫で下ろしていた。第三位キャリアの携帯電話のアンテナが立った。どこかにあるがっかりした気持ちに気付かないフリでいた。
だから、見逃した。
失念していた。
この駅が無人駅だったこと。あの子が自転車に乗っていたこと。華奢な腕に比べて、スカートから覗く太股がかなり鍛えられていたこと。
利用客はいなかった。
スポーツバッグとリュックサックと一昨年の流行が、彼女の本気だった。
――ショモナモナの塔を見ているね?
そんな声が、聞こえた気がした。
なにもかもを失う前に、先に捨ててしまうのか
捨てられなくなることを、知ってしまったからか――。
「そうだな。ここは、あまりにも――」
「ねー、ナモナだったでしょ」
少女がにやあと笑う。
ナニモナイが追いかけてくる。
横一直線に引き絞った、少女のような笑顔で。
<シオンナモナの塔 了>
(2011-06-18 初出?)