トランスパラント・フットプリント

ちはやブルーフィルム倉庫

虚の口(ウツロノクチ)

 私は、美術部だった。だったというのはもうやめてしまったからだ、わがままを通して親に買わせた油絵の具はそろそろロッカーの中でカビが生えていることだろう。やめたことは親には言っておらず、活動をしていることにして必要経費と言って小遣いをせびるのにも罪悪感は無くなってきた。けれど、文化祭の日を誤魔化すのに苦労したし、来年はこの手はもう使えないだろうから、やめた言い訳を考えておかなければならない。とうすうすは思っているところだ。

 とっくに美術部員ではない私だけれど、ここは美術準備室。夕日が照りつけるものだから、光の加減が調整できなくて、ここはもっぱら準備室――物置として使われている。油彩と粘土の匂いがする。ここにいる生きているものは私と、友人、あとは鳥。

 なぜ美術準備室に鳥が居るのかを説明しなければならないだろうか。去年、生物部が文化祭において増えすぎた動物を苦肉の策で一大イベントクイズ&ビンゴダーツ大会において放出した珍鳥だそうだ。そもそも学校のルートで購入したものをそうして放出してしまうのはいかがなものかと思うし、生き物なんて面倒なだけだと思うのだけれど、彼女はそれをゲットしてしまった。

 彼女は鳥籠の前にいる。その頃まだ美術部に所属していた私は、家で鳥を飼えない彼女の為に、その羽色美しい鳥をモデルに推薦した。義理か本気かはともかく、そのもくろみがうまく行き、期限付きでその鳥は美術部の所属となった。名目上の飼育係となった私は、美術部をやめた今でもここに来ている。世話をしているのは彼女――ヒナカだけれど。 ヒナカは土曜でも日曜でも世話をしにきた。夏は早く来て窓を開け、冬は遅くまで籠をあたためて帰る。生き物であるからしてそうしなければならないのだが、私も名目として義務がありながら、たまに来ないことも多々あった。やめる直前は殆ど来なかった。やめたあとの方がここに来る頻度は高くなっていた。目的は、ヒナカだ。

 彼女は女の私から見ても魅力的だった、いや、いつの間にかそうなっていた。美術部の活動に意義を感じなくなって、準備室に理由をつけて居座りはじめた。彼女はいつのまにかやってきて、鳥の世話をして帰るのだ。いつのまにやら私もそれに合わせて帰るようになった。

「ヒナカ」

「なに」

「おなか空いたよ」

「飴があるわ、食べる?」

「うん」

 本当はおなかなんか空いていない。ヒナカは鳥の世話を一時やめると、手を洗って、鞄の中から小さな巾着を出してくる、小さなお菓子が忍ばされていることを私は知っている。おなかは空いてないけれど、口さみしいのは本当で、私の前ではひとことだって鳴きはしないその鳥のいる中途半端な静寂に耐えられなくなったからだ。

 ヒナカは、小袋に分けられた飴を破いて取り出して、あーんと口を空けた私の口に放り込む。

「すっぱい」「梅の飴よ」「最初に言ってよ」「きらい?」

「きらいじゃないよ」

「ならいいじゃない」

「でもびっくりしたもん」

「前にもあげたでしょう?」

「もらってないよ」

「あげたわ、ユキエはうそつきね」

「えー」

 粉が溶けて、飴が甘くなって来て私の機嫌は穏やかになった。口の中に糖分が沁みると、また少し私の舌が踊る。

「ヒナカ、休んでないんじゃないの」

「なにが?」

「その、鳥の世話」

「鍵、開けてくれるのいや?」

「ううん」

 だって、別に私はもう美術部員じゃないし。鳥の世話をするだけなら、ヒナカの方こそが鍵を借りて、閉める資格があるのだ。私には、それはない。

 ヒナカの背中越しに、鳥を見る。頷くようにカクリカクリ、たまに首を動かす以外に目立った動きをしない変な鳥だ。それに鳴かない。羽だってきれいとはお世辞にもいいがたい。どこのなんという鳥かもわからないし、なによりブサイクだ。だから誰も興味を持たなかったし、持て余したのだろうか。それを、ヒナカが世話している姿はミスマッチだとずっと思っている。

 もしかして、自分とかけ離れた不細工な鳥の世話をすることで、くらい欲求を満たしているんじゃないかしら――とすら思えてくる。そう考えると、もしかして自分もそうなのではないか。ヒナカは、自分みたいなのをそばに置いておくことを許すことでなにか、虫除けとか魔除けみたいなものに使っているんじゃないか。

「無理、しないでね」

「あなたこそ、無理して私に付き合わなくてもいいのよ」

「うん、無理してない」

 ほれみろ、やっぱりヒナカは自分で鍵を閉めることもできるってわかってるんだ。ヒナカのうそつき。

 彼女はきれいで、意地悪で、卑怯で、私もきっと卑怯なんだ。いやになって、それでも溜息をつくとまたヒナカが何か感じてしまうだろうから突っ伏して、木の机を湿らせる。古くなりすぎて準備室につっこまれた机には、油彩油と油粘土、墨の気配が染みついていて噎せそうになる。たまらず横を向くと、ヒナカが尻を向けて檻の中の水を換えていた。「むう……」

 手を伸ばす。私と遊んで頂戴よと手を伸ばす。ぎりぎり手が届きそうで、手が届いたのはスカートの裾にだけ。そこを指で挟んで弄んでも、ヒナカは振り返らない。気付いていないのか。なんだ、鳥ばかりみやがって。

「えい」

 癪なあまり、スカートをめくりあげてやった。こんな男子学生じみた遊び、男子だって小学生でしかやりはしない。めくってしまった途端、私は自分の行動が、子供っぽさが、人間でないものに嫉妬していることが恥ずかしくなる。そして、それを上書きするような衝撃的なものが見えてしまった。

「こら」

「――――わァ」

「こらっ」

「え、あ、はいっ」

 ヒナカは唇をちょっと尖らせて、もう重力に引かれたスカートを直す。籠は丁度、閉められたところだったようだ。

「見たァ?」

 怒ってるような顔を作って、ヒナカが聞いてくる。「そんなに、構って欲しかったの?」と続けてくる。

「うん、すごいの履いてるね」

 すごいやつだった。きっと自分は大学に行ったって、東京に出たって、あんなのを履いたりはしないだろうと思った。それくらい凄かった。

「この前行ったの、モール」

「ふぅん」

 誰と? の代わりに、素っ気ない返事が出た。

「何、恥ずかしがっているのかな、ユキエは」

「だって、高いじゃん」「頑張っちゃった」「そんなのやだ」「だって、かわいかったんだもん」「やだあ」「えっ、ダメなの? なんで?」「なんでって言われても、とにかくやだ」

 いやなものはいやなのだ。センスがどうとかではなくて、なんかいやなのだ。

「じゃあ、脱ごうか?」

「えっ、いいよ。そんなの、ヒナカの勝手じゃんよ……」

「でも、いやなんでしょう、あなたは」

「いじわるっ。もう、ヒナカは騙されてるんだよぅ」

「そんなにダメかなあ、これ」

「わっ」

 ヒナカは、もう一度見られてしまったから良いだろう、みたいにスカートの片方をめくりあげて確認なんかしている。ちらちらとピンク色のレースが見える。

「ざーんねん」

 私の突拍子もないイチャモンにも彼女は怒らない。私が今の提案に乗って「うん、私の為にもう履かないで、そんなの履いちゃいやだ」などと言えば彼女はそれで受け入れてくれそうな予感があった。「いいの?」彼女が聞いてくる「いいの、って何が?」「じゃあ、交換する?」「わかんないよ、ヒナカの言ってること」「そう?」ヒナカはやっと、鳥籠に鍵をかけた。そのまま鞄を手に取りヒナカが言う。鍵を持っているのは私だ。

「じゃあ、私、帰るけど?」

「私も帰るよう」

「じゃあ、一緒ね」

 一緒に。と言っても、ヒナカは手を繋いだりはしてくれない。並んでいるのに。今日はとうとうスカートをめくる仲にまでなったというのに、彼女はなんてことない顔をして、普通じゃ履かないだろうものすごい下着を着けているんだ。今日は体育もないし、部活にも入っていない癖に。誰に見せる為に、そんなものを履いていたんだろう。

 結局答えはひとつしかないんだ。

 溜息。

 鳥だけじゃなくて、きっと顔も知らない別の男がそれを、その奥を見てしまうんだろう。妬ましい。いや、もしかしたら、こうして私と帰るのはカモフラージュなので、駅で私と別れたあとに、学校まで戻って逢瀬を楽しんでいるのではないだろうか。ほら、駅に着いてしまった。

 やだ。

「やだ」

「どうしたの?」

「何が?」「ぜったいやだ」「やだじゃないわ、ユキエ。なに、悲しい事があったの?」「ずるい、私を面倒と思ってるとき、名前で呼ぶの」「なに言ってるの、言ってくれなきゃわからないわ。なにか、あなたにひどいことした? 誰でも名前で呼ぶ訳じゃないもの、ユキエのことが好きな時、名前で呼ぶのよ」とっくに改札を通ろうとパスを用意していたヒナカは、急に駄々をこね始めた私に手を焼いて、背中に手をまわして、改札横の自動販売機が並んでるガード下の手前まで持って行きながら、そう言った。

「うそぉ」

「嘘じゃないわ」

 嘘だ、と思う。そんなやさしそうな顔で言ったって騙されるものか。

「じゃあ私にキスしてよ、できるでしょ」

 バカか、子供か、その論理に脈略などない。沈黙があって、なんだか冷たい視線が刺さる。言ってからこっち顔を俯かせてしまったから目が合わせられない。ほれみろ、ヒナカは好きだと言って私を見ていられたけれど、私は「キスして」って言っただけでぐるぐるして、ヒナカの目さえみれなくなってしまうんだ。だから、ユキエのはうそなんだ。

 

「良いの?」

 

 すぅ、と音もなく間合いが詰まった。

「あっ」

 やん。と甘い声を漏らしそうなところを、すんでのところで、書き換える。良かった。良かったのだろうか? 自販機の隣の隙間。高電圧注意の警告テープが貼られた灰色の箱の影に私の体はくるりと押し込められた。

「開けなさい」

 ヒナカは消してきつくない口調でそう言った。言われて私ははじめて気付く、自分が、友人の前なのに、怯えた子リスのように鞄を前に抱いて、歯を噛みしめて居ることに。まるで、怒られているみたいになっていた。

「ほら」

「ふあ」

 ヒナカの右の手が上がった。緊張しすぎて逆に緩んだ私の口めがけて、横向きにヒナカの唇が差し込まれる。挙げられたヒナカの右手は、落ちてくる髪をせき止めるために添えられた。そして、そのまま逃げようとする私の口を固定するために。そんなことしなくたって、もう逃げやしないのに。

 舌が、蹂躙してくる。自棄になったような激しさで、甘い匂いが漏れてくる。ざらざらとした舌先が、私の上あごを奥からなぞり、前歯の先までを痺れさせていく。ゴールに着くと、もうずっと細かく痙攣して、奥で縮こまっている私の舌をからめとって、一緒にダンスを踊る。やがて、やっと緊張を溶かされた私の舌は同じように大胆に、ヒナカの舌の中へ侵入し、さっきしてもらったことの真似をはじめた。あるところから息を止めていたことにお互いに気づき、申し合わせたように息を吐いた。ヒナカは目を瞑っていた。鼻腔から息が漏れ、返しに体に入れた呼気の中にも彼女がいた。

 そこで私はやられた、きゅうと胸が切なくなるほどさみしくなって。今まで腕をスカートの前でぎゅっと握っていたのでは足りなくなって、それをほどいて、ヒナカの背中に回し、この瞬間を永遠にしようともがく。

 けれど、そこでバランスは崩れた。私が体で押したみたいになってたたらをふみ、ヒナカが一歩後ろに下がって、唇は離れた。

「あ」

 糸が引き取られていく、ヒナカはカッターナイフみたいにちょろっと出した舌で唇をぺろりと舐め、糸を切る。

 妖艶な仕草。ヒナカととうとうキスをしてしまったという達成感、背徳感に私の足はがくがくとふるえはじめる。感電注意が貼られた灰色の箱に体を預けた。

 ヒナカは浮かない顔をしていた、ように想う。

「ごめんね」そしてヒナカは、謝った。

「え、なんで」

「あなた、良いって言ってないのに。こんな事して、私。どうかしてた」

「そんな、そんなことない」

「ううん、なんか……その、ごめんね。私。勘違いしてたみたい」

「うそ、私。嬉しかったのに。なんでそんなこと言うの」

「ユキエ、嘘吐いてもわかるよ。あなたの嘘はわかりやすいの」

「ほんとうっ!」

「全然、積極的じゃなかったもん。なんかさ、私ばっかり躍起になっているみたいで……バカみたい」

「やめて、私の話聞いて! ヒナカには、だって、彼氏が」

「は?」

 あ、こんな顔するの。と思った。なんだか、冬の日に被ってた布団を剥いでしまったような罪悪感が襲ってきた。修学旅行で図らずも先生のすっぴんを見てしまって、そうと気づけなかった時の、気まずさ。

「いない……の?」

 へらり。

 口の端っこがゆるんでしまった。ヒナカは凄く怒っていたのはわかっていたのに。

「あなた、私の何をみてたのッ! いないわよっ! いるはずないじゃない!」

「ひっ」

 ヒナカの声はとてもよく通る。それがひとつ言葉をくぎる毎に和音を奏でながら高くなって耳に刺さる。

「なんなのよ……やだもう……」

 ヒナカは俯き、横に流れる髪を何度もなで上げる。そんな様にならない癖があったなんて、知らなかった。

「ねえ、ヒナカ」

「何よ……」

 さっきまでの高い音はどこへやら、一気にテンションが下がっている。

「私、ヒナカのこと好き」「嘘よ」「嘘じゃない」「うそ」「ほんとに好き、ヒナカもなんでしょう」「でも、私があんなに勇気を出してたのに、反応してくれなかったよ、ユキエ」

「違う、ちがうよ。全然違う。だったらさ、私、ヒナカのこと毎日待ったりしない。あの鳥に嫉妬なんかしないもん。べろちゅーされてやじゃないもん。だってさ、ヒナカ、あの鳥ばっかり見て! 全然、私のちょっかいなんて気にしないみたいな顔してたくせに! だから、私、私びっくりしたんだから!」

 気付いたら、興奮していた。肩で息をしている。遠くで遮断機の降りる音がする。

 湿った息の音が行き交う。通行人が視線をくれる。下唇を噛んでいたヒナカは髪をざっとかき上げて、ぴんと背筋を伸ばす。視線はちょっとだけ、私の目からずれている。

「――帰るわ」「え?」「また明日ね」「ちょっと、ヒナカっ!」

 颯爽とヒナカは長い足で改札をパスして、ホームへの階段を上がっていった。私は追いかけようとして、鞄が無いことに気付く。パスは鞄の中だ「ああもう!」と革靴でターンしてさっきの場所に戻っても鞄はない。「ぎゃあ、やられたっ」改札に再び舞い戻り、鍵のかかった通用小口を乗り出し、改札の向こう側の死角に私の鞄はあった。

 そこを乗り越えて自分の鞄を回収する下品な行為で駅員と問答している間に、もちろんヒナカは先の電車に乗っていってしまった。

 

 寒々しいホームで私はひとり、キスの残滓を想う。

 

           ☆

 

 ヒナカは準備室にいなかった。ユキエは鳥籠の前でしばし途方にくれる、ここに来れば居ると思っていたのに、休んでいるかどうか確認すれば良かったのに、なんとなくそうしなかった。だったら、来ないかも知れない。餌箱が空になっている鳥籠を覗き込むと、鳥と目が合った。名前はサニー。太陽の名前を付けられておいて、そんなにたいしたことのなさそうな造型と羽の色だ。

「やっぱりブサイクね、あんた」

 それでも、あれだけかいがいしく世話をしていたのだから、ヒナカにとっては大切な鳥なのだ。餌箱か空なのだから、今日はまだ来ていないのだろう。なにせユキエは放課後真っ先にここに来たのだから。ちょっと早すぎたのかも、しれない。

 

 けれど、ヒナカは来なかった。鳥籠から離れた机でノートを広げて頬をつき落書きをして待っているのに、来ない。美術部は今日休み。

「あんた、おなか空いたでしょう」

 ヒナカは鳥の世話を結局させなかったけれど、やりかたはわかる。窓を閉じれば最悪飛んでいってしまうこともないだろう。敷居の高くなったヒナカが来なくなってしまって、飢えたサニーが死ぬことになったら目覚めが悪い。

「あなた、ライバルなんだからね」

 籠に手をかけても、錠を外しても、籠の中の餌箱と水さしと新聞紙を除いても、サニーは鳴きもしなかった。確かに生きているように首を動かしたり、縁側のおばあちゃんがお茶をすする動作のごとくしみじみと羽を遠慮がちに動かしたりはするのだ。そして、たまに鳴きたがるようにダーウィン・フィンチのような波線の嘴を上に向けて開くのに。音はまるでさせない。

 話しかけてやったのに、無視されたような気分だ。禽獣ごときに人の情なんてわかるはずがないと、溜息をついてやり、さっさとやることを済ませようとする。いつもヒナカが出してくる棚の中には果たして餌袋があった。カラフルな、おもちゃのプラスチック球のようなものがたっぷり詰まっているのだ。それが二つあって、何故か両方開いている。手前の袋を引っ張りだし、中身を小さな木の匙ですくって、小鉢に入れて軽くすりつぶすのだ。「それ、しなきゃいけないの?」「気分よ」「そう」でも、ヒナカがそうしているのは好きだったから、自分もそうした。すりつぶしている時のヒナカはとても楽しそうなのだ。

 新しい紙を敷き、餌箱と水さしをセットして、鍵をかける。やることは終わった。さて、サニーは餌を食べるのだろうか。せめてそこまで確認してから準備室に鍵をかけよう。そう思ったのに、サニーはそのままだった。ヒナカが餌を置けば直ぐにそれをつついていたと思う。そうなると、サニーはユキエが置いた餌だから食べないとでも言いたいのかと穏やかならぬものがこみあげてくる。あんた、餌箱の中を意地汚く空にしておいたくせに、と。

「あんたにバカにされる筋合い、ないからね」

 籠の骨を中指ではじいてやる。こんな鳥どうなったって知るものか。なのだ。鼻で息を吐いて準備室を跡にしようとした。もう、外は暗い。その時。

 

 ピロロロロロ

 

 鳴いていた。

 

「鳴くんだ」

 

 現金なもので、ユキエはそれで満足した。

 そのまま意気揚々と準備室に鍵をかけた。

 餌をついばむ音も聞かずに。

 

 

            ◇

 

 

 そして、二日ばかり。ユキエは美術準備室に行かなかった。

「ユキエ」「あ」

 ヒナカが学校に来ていることは知っていた。放課後、先に見つかり、声をかけられてしまったユキエは視線をうろつかせて頭を下げる。

「あの、ごめん」

「なんで謝るの?」

「その……なんとなく?」

「わかるわ、なんとなく久しぶりに会って悪いことをしたような気になるの。あなたが謝らなかったら、私がそうしていたかも」

「ヒナカは、悪いことなんかしないでしょう」

「ユキエは、悪いことを?」

「しないわ」

 ふるふると首を振った。

「ねえ、トイレ行きましょう」

「えっ、なんで?」

「もしかして、用事ある?」

「ううん」

 ヒナカはなにやら上機嫌に見えた。ユキエは手を取られるままトイレの個室に押し込められた。

「準備室じゃ、いけないの」

「恥ずかしいでしょ」

 ドアを背にしたユキエに、ヒナカの体が落ちてくる。改札で浴びた匂いにユキエはやられた。今度こそ、と制服の背中に手を回す。まわしてぎゅっと、体を押しつけると互いの柔らかいところが、金具が触れ合って。もう後戻りはできないのだと囁いていた。

 そして二人は、三日前の、改札の影でやったのよりもものすごいキスを何度もした。コトが済むと、のぼせて浮かれたユキエはタイを直し、下着を履きなおしながらヒナカに尋ねる。日常の続き。

「準備室、寄って帰るんでしょう?」

「なんで?」

「だって、いつも行っているじゃない」

 そう、日課が失われるのは悲しいことではないか。

 これが新しい日課になるのならそれでもいいけれど、とユキエは思う。ヒナカは目をちょっと開いて言う。

「いいけど」

 たまに顔を見せる冷たいヒナカの背中を見ながら、肋骨の下にあったほくろの場所をその上から当てはめて階段を上った。準備室の籠の中は、空だった。

「あれ?」

「どうしたの?」

「鳥……サニーは?」

「死んだわよ?」

 からりと。油と板と夕焼けの匂いが充満する準備室の中で、すっとヒナカの言葉が響いた。

「え、いつ?」

「私、美術部の子に餌やりを頼んだの。あなたとケンカした次の日よ。私、ナイーブだったから」

 私には頼んでくれなかったのに? とユキエはふくれそうになるのを抑える。ヒナカが続ける。

「でも、忘れてたんですって。だから死んでしまったわ」

「えっ」

 声が出てしまった。

 ヒナカは――上げたはずだ、餌を。あの夜。まばたきをいくつかしてヒナカは続ける。なにもない籠を掲げる。絵になっていると思った。夕陽を逆光にしているのに、さっきの情事のあと、唇がまだ濡れているのがわかる。

「でもね、私が悪いの。サニーは丁度鳴く頃だったから」

「鳴くの、あの鳥」

 するりと言葉が滑っていく。

「そう、サニーは季節によって鳴くの。食べ物が変わるのね。集団生活になるから、その時までは鳴かなくていいの。ほら」

 餌袋が入った戸棚をヒナカは開いて見せた。そこにあるのはユキエが取り出した二つの袋がそのままあった。ヒナカは語る。野生のサニーと同じ鳥は、餌にある虫を食べるのだという。その虫は季節によって毒を持つのだと。じわじわと毒を貯め続けるその毒虫を、サニー達は食べ続けるのだと。

「その毒にね、少しずつ耐性をつけるのですって。そうでなければいけない理由が、あるのだそうよ」

「そうしないとどうなるの?」

「冬に病気で死んでしまうのですって。元々この鳥は冬の無い島常夏の島にあったのだけれど、その島にある時期から季節が産まれてしまった」

「そんなことあるの?」

「私は、サニーの先祖が氷河期に季節のある島まで渡ってしまったのではないかと考えてるけれどね、これは想像」

「ふうん」

「不思議でしょう」

「そうなんだ……」

「そんな悲しい顔をしないで、だって、あなたってサニーのこと、キライだったでしょ?」

「そんなことない」

「あら」

 ヒナカはクスクス笑った。そして続ける。

「だって、あなたサニーに嫉妬していたって、自分で言ったのよ。これで私は、サニーから、あのいまいましい自由を奪う鳥から解放されたの。サニーはかわいそうなことをしたかもしれないけれど、私が当てなかったら、もっとかわいそうなことになっていたわ」

「おはか、作ってあげなきゃね」

「ごめんね、昨日済ませてしまったの」

「そう」

「ユキエにも、サニーの声を聴かせて上げられたらよかったのにね、そうしたら二人はもっと仲良くなれたかもしれないわ」

「えー、そうかな? うん、でも、だったらいいよね」

「知ってる? あの体でバイオリンみたいな音を出すのよ」

「えっ」

 ――バイオリン?

 脳天気な顔を作れているか不安になる。あの鳥は、サニーは、ピッコロを吹き散らしたような音を鳴らしていたと思う。甲高い笛を長く長く息の続くまで歌い続けるような音だった。どう解釈してもストリングスのようでは、なかったように思う。

「どうしたの、もしかして、サニーの声聞けた?」

「ううん、私、ヒナカの居ないときにサニーといたことなんてないもの。いつもサニーはヒナカといたでしょ」

「そうね」

 準備室に鍵がかかった。鍵を職員室に戻し、焼却炉にもはや用済みになった餌袋を投げ入れ、ユキエとヒナカは家路についた。どちらからともなく手を繋いだ、しばらく言葉はなかった。

 ユキエが先に折れた。

「私、ヒナカ、私ね」

「ユキエ」

 静かに。

「サニーは、いい子だったわ」

「うん、きれいだったね」

「ユキエは、うそつきね」

 ヒナカがひるがえる。

 ここは通学路だ。同級生たちが見ていた、先輩も後輩も、パンやのおばさんも、自転車のベルを遠慮して鳴らさないスーツの男性も、みんな見ていた。嘘ばかりを漏らすユキエの口が唇で蓋をされるのを見ていた。

 きっと、明日には知れ渡る。ユキエは口からもらせなくなった情熱の在処に戸惑い、羞恥に目を瞑り、負けないように唇を吸った。しばらくそうした。長くはないと、思った。

「こんなところで、やだよ」

「ユキエは、ほんとうにうそつき」

 ヒナカはとても難しい顔をしていた。怒っているわけでも、泣いているわけでもない。困っているようで、喜んでいる風でもある。「ちょっとね、砂糖が多すぎたの」と言い訳をせざるを得ない砂糖の過剰飽和な生地で練られたクッキーをかじり、誤魔化しきれなかったザラメの砂のような歯ごたえを楽しんでいるかのような。

 そんな、穏やかな笑顔だった。

 

 ――でも、とユキエは思う。

 この先も、塞がれる度に零れてしまうだろう。

 それとも、零れるから塞がれるのか。

 このうつろなくちが、愛しい。

 

 

 そう、

 毒を喰らわねば死ぬ鳥なんて、いるはずがない。

 

 

「――ほんとうよ、ほんとうなんだから。嘘なんて、吐くはずないわ」

 

 

 きっと、お互いにそう思っている

 湿したままのくちびるで

 

 

 

< 虚の口 了 >

(2012-05-23)