トランスパラント・フットプリント

ちはやブルーフィルム倉庫

眇の緋(すがめのあか) 

 麦茶は、好きではない。

 

 水でいいだろうと思っていた。暖かければ紅茶でもいいし、濃く淹れたコーヒーを氷に差し込んでもいいだろう。けれど、彼はそうではなかった。「夏は麦茶が良いなあ」冷蔵庫を開け、チラチラ私を見ながら言うのだ。

 なんてつまらない男と結婚してしまったのだろう。

 ネクタイを直し、ハンカチをそれに合わせて渡す。うっかりすると、どうしようもなくミスマッチなものを持って行きたがるのだ。誰も見ていないと思っているのだ。たまに思いついたように買ってくる謎柄の靴下はすべて捨ててやったけれど、それには結局気づいていないようだ。そんなところも、おしなべてつまらない男なのだ。

「ーー麦茶ァ?」

 麦茶である。確かに家にも麦茶はあった。梅雨が明けるかそこいらのころに、戸棚を開けだして、古いやつのニオイを嗅いだかと思えば、ざらざらと新聞紙に広げてしまう。

「これはもう、使えないからね」

「使えないの?」

「他のことに使う」

「使えるんじゃん」

「本来の用途に使えないものは、さっさとすてるんだよ。この国は狭いんだから」

 そう言って新しい麦茶を買ってくるのだ。長細く古い瓶に入れて、最初はじわじわと広がっていく。最初のうちは明らかなのに、いつのまにか、透明と茶色の境目はなくなってしまうのだ。

「飲める?」「まだだよ」

 三時間後くらいに飲んだけれど、それは大しておいしいものでもなかった。カルピスのほうがよかったし、サイダーの方がよかった。私はサイダーとオレンジジュースを混ぜて飲むのを至上の贅沢として、一日に一杯だけだと決めていたんだ。

 その夏の終わりに、祖母は死んだ。

 なにも、こんな夏に死ななくてもいいだろうと言うくらいの暑さだった。だから死んだのだろうか、かさかさの身体に麦茶を染み渡らせるように飲んでいた。今日とおなじように、蝉のよく鳴いている日だった。

 

 チャイムが鳴る。新居にはインターホンに画面がついていなかった。昼の間。いや、もしかしたら日付が変わってしまうまで、この家でひとりだ。働かなくていいと言ってくれるし、そのことはお互いの問題だから気にしないでいいと言ってくれる。ただ、その分だけ私が一人でいる時間は増えていくのだ。

「あと数年の我慢だから」とあの人はいう

 彼は優秀だ。けれど、子供を作ることはできなかった。私たちにとって幸いだったのは、両方とも器質的にできにくい身体であるということだった。

 数年とはつまり、そんな奇跡が起こるのを待ち続けられると決めた、彼のわがままなタイムリミットにすぎないのだろう。

 私はそんなに待てない。

「またか・・」

 玄関を開けても誰もいない。

 ピンポンダッシュというやつだ。押して、家人が出てくる前に一目散に逃げ出していく。蜘蛛の子を散らすようだ。ここは団地であるからして、まだ世帯収入が安定してない家庭ーーすなわち、子持ちの家庭が多い。都心までドアツードアで一時間半のギリギリ住めるベッドタウン。二十年前は高嶺の花だったこの団地にこの時代専業主婦のままいられるのはとてもありがたいことだと、自分に言い聞かせる。それでも、ここから逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。

 ため息をつきながら廊下を戻る。子供もいないのに外にいって、主婦の語らいに参加することもなかなかできない。大学時代の友達は遠かったり、働いていたり、それこそ子育ての真っ最中だ。あまりにも孤独だ。だからこそ、ピンポンダッシュで逃げていく子供たちへの怨念はつのりゆくのだ。

「悪ガキどもめ、みてなさいよ」

 

 チャイムが鳴った、暇が高じて音を潜め、待機していた私はどあをいきおいよく開けた。しかし敵もさるもの、示し合わせているわけでもなかろうに、上と下の階、廊下左右へと散り散りになって逃げていく。

「こえー!」

「ばばあこえええええええ!」

 と思い思い口々にかってなこと叫び、去っていく。

「だれがババアだきしゃああああああああああああああっ!」

「ぎええええころされるうううううううう!」

「きゃああああああ」

 黄色い声とともに虫たちは去っていった。今日はもうこないと思えた。キレたあとはまあ、他が余りにも無反応だった場合を除けばこない。なによりつかまって告げ口されるのを一応今だって子供たちはおそれる。ドアを閉めようとしたら、男の子がうずくまっていた。

「なにしてんの」

「はなぢ」

 高学年くらいの男の子が、鼻の頭を押さえていた。

 

「入りなさい」

 

 

 冷房、ぼく、ダメなんです。

 そう言って彼は勝手に冷房を消した

「窓、開けますか?」

「あたりまえよ、網戸にするから」

「ごめんなさい」

 有無をいわさず冷房を消したくせにそこはあやまるんだな。

「ほら、顔、出しなさい」

 長らく出番のなかった救急箱を出してくる。防災用品の奥底にあったものだ。私はきっと、わくわくしていた。白と青の清潔な消毒液を取り出す。

「赤いのは、ありませんか?」

「・・赤チンのこと?」

「うん、あかいヨーチン」

「ないわよ、昭和じゃあるまいし。あんた古いのね、おばあちゃんっこ?」

「そんなことないです」

「ない袖は振れないけど、まさか消毒液でアレルギーもないわよねえ?」

「はい」

「さって、動くなよ・・」

 ティッシュで血を拭ったあと、上を向かせて、綿棒にティッシュを巻いて、透明な消毒液を浸したものをゆっくりと差し込んでいく。冷たいのか、粘膜にふれたときにひくりと身体が揺れた。

「うごくと、脳に綿棒が突き刺さるからね・・」

「ふぁ」

「くしゃみするなら抜いてからにして」

 こよりをよる時のようにゆっくりと綿棒の軸を回し、粘膜の内側を拭っていく。血がでているのは右の鼻腔だけだ。

 赤く染まった綿棒を抜き取る。鼻水がつーっと橋を渡す、その中間地点に鼻水が集まって落ちる前に空いている指で掬った。

「じょうず」

「・・ありがと」

 夏なのに襟付きの服を着ている彼はすこし、上等な育ちのように見えた。こんな僻地の団地にいるのは分不相応の気品がある。だからか、どこか下に見られてしまっているような雰囲気をまとっているように思えた。

 彼は鼻に異物を入れられたのと、鼻の頭をドアにぶつけられたのとで、目をきらきらとさせている。ピンポンダッシュの一味には見えなかった。

「痛い目にあったんだから、もうピンポンダッシュなんて、やめなさい」

「ごめんなさい」

「やっぱり、あなたもそうだったの?」

「おばさんは、確信がないのにぼくのこと責めたの?」

「・・あなた、友達にもそういう話し方するの? 嫌われない?」

「あの子たち、友達じゃないよ」

「あ、そう」

「友達なら、こうやって見捨てたりしないでしょう? ぼくが捕まっているのに」

「捕まってるって人聞きのわるい子ね、治療してあげたんじゃない」

「でも、おばさんが急にドアを開けたからだよ、ぼくは被害者だ。でるとこにでましょうか」

 そう彼はいたずらそうに笑う。

「悪い子ね」

「うん、悪い子だよ」

「お母さんにお話しして、しかってもらおうか? お父さんがいい? それとも学校?」

「そんな気、ないくせに」

「どうして、そんなことがいえるの?」

 彼は手持ちぶさたそうにソファーに移動した。テレビでも点けるのかと思ったけれど、そのまま身体を投げ出して仰向けになり、こちらに足を投げ出す。彼によって止められた冷気の気配。八畳の狭い一室をそのソファーはほとんどが占拠している。

 意識する度に、ここを出て行きたくなる。そのソファーから少年の足が踊っている。健康とは言い難い青白い足。レイヨウか子鹿か。世を儚んだようなせつない目だ。それらは、私にとって新鮮なものに見えた。部屋が暑い。窓も網戸も開けているのに、風が入ってこないから汗ばむ。

「・・麦茶、飲む?」

「あるの?」

「あるわ」

「子どもがいない家は、麦茶を作らないんだって思ってた」

「そんなことないわよ」

「こども、いるの?」

「いない」

「つくらないの?」

「作り方、知ってるの?」

 少年は笑った。私は後ずさりした。なんだ、この、流れるよう言わされてしまったように思って、口をつぐんだ。平静を装いながら、彼のコップをよけて、いつも使っていないマグカップを出してきた。それに麦茶を注ぐ。暑い。

「えー、知らなぁーい」

 少年は、返事するのを遅らせて、私が麦茶を持ってくるまで待っていた。ソファーの前にカップを置くときゅっと上半身を起こして座る。

「マグカップに麦茶っておかしくないー?」

「いやなら飲まないでいいよ」

「いりますー。いらないなんていってませんー」

 彼は麦茶をこくこくとかみしめるように飲んだ。両手で持つその姿は、いやでも祖母のことを思い出す。マグカップで供したのは偶然ながらも正解だった。ガラスのコップだったらいろいろと思い出してしまっただろう。

「座らないの?」

「暑いもの、それ飲んだら、帰りなさい」

「まだ、あかるいじゃんーーそれに、飲みきらなかったら帰らなくていいの?」

「だめよ、あなたはこのうちの子じゃないもの」

「でも、いまいないんでしょう?」

「これからできるかもしれないわ」

「あとからきたほうが、大事にされるから?」

「うちのこどもなら、等しく大切にするけれど、でも、あなたはお客様だもの」

「お客様なのかな、ぼく。あんまりそんな気しないや。ここではね」

「なによくつろいじゃって」

 

 

 彼は、飲みかけの麦茶を自分のズボンにこぼした。パンツまで脱いでしまった。あーあ、これじゃ帰れないなあとうそぶく。

「帰れないんだけど」

「ドライヤーですぐにかわくわよ。それまで丸出しでいることね」

「やだーあ」

「だめだって、きみ、どこなの学校」

 それが悪かったのか。

「なにするの」

 恐怖を覚えた。彼は私に馬乗りになっていた。ソファーから落ちて頭を打っても、少年はなにも言わずにいる。腹の上で蛇が鎌首をもたげている。細い、蛇だ。細いくせに、いつのまにかしっかりとして、食べ物を探している。

 蛇の飼い主は首に手をあてがってきた。その手はふるえているけれどゆっくりと力を入れてくる。私はその細い腕をつかむ。私のよりも細いのに、きめの細かい肌。なのに、その手を払えない。尻に力を入れると、軽い少年の身体は浮く。そのまま頭の方に移動していくけれど、かれは振り落とせない。サッシを越えて、キッチンの奥に頭がぶつかった。冷蔵庫の音が、行き場をなくした夏の熱が、そこには溜まっている。

「ここなら、声が聞こえないよね」

「やめて」

「だって、おばさん、じぶんからここにきたのに。ぼくーーおれを、誘ったのは。あんたじゃないか。なあ、いいだろう?」

 その声はふるえている。ふるえているのがわかってしまう。どうして、こんなひ弱で、繊細で、めんどうなものをこの部屋の中に招いてしまったんだろうか。こんなものは、この部屋の中に全くふさわしくないものなのに。この中にいるのは、どうしようもなく下品なものにすり切れた、わたしみたいな、さっきピンポンダッシュしていった彼らのような、砂場の前にくる青果を売るトラックの前で談合しながら値切るようなそんな人たちばかりなのに。

 なんで、あなたは。そんなに。

「やめなさい、似合わないよ。そんなものをまねしたいの」

「まねじゃないよっ、ぼく、ぼくがっ!」

「本当に、したいことなの?」

「そんなわけないだろっ!」

 目の前の彼は、どうみたって小学生なのに、自分の歴史をひもといても、彼がこんな風に、いくつもの皮をーーいや、蛇のほうは見事に大人だけれども、そんな風にしてしまったのはどれだけ打たれてきたのか、考えてしまう。

「ーー吸う?」

 ぺろり、と上をはずす。冷蔵庫と、彼の熱に暖められた空気が、のぼせを引き起こす。

「・・?」

 そりゃそうだ。と考え直す。そこに思い至るほど、スレているはずがないのだ。ボインはおとうちゃんのためのものではないし、当たり前だけど、もう自分のものでもないと思っているんだろう。

「ミルクとか、でないから大丈夫」

 我ながらアホっぽい大丈夫だ。なにが大丈夫なのかわからんけれど、きっと彼にはこれが必要なんだと思う。

「いらない」

「いらないか、ちいさいか」

「ううん、それは、ぼくのじゃないから」

「そう、おとなだね」

 嘘。こどもだ。おとなならこんなものは吸ってしまうにきまっているのだ、旦那だって、前の彼氏だってそうだった。自分のようなたわわともいえぬそれをちらつかせると、それが礼儀であるかのようにふらふらと近づいてきて服従の姿勢をとるのだから。それがかわいいのだけれど。

「じゃ、大人になろうか」

 そんなことをしたって、大人になれるはずなんか、ないのだけれど。手探りで若い蛇を包む。しなびかけた蛇は、すぐに、脈動を二つ数える前に十分さをとりもどした。

「どうするか、知ってるの?」

 彼は私の首に手をかけたままだった。

「まず、この手をどけて」

「うそ」

「ほんとうよ。そうじゃなきゃできないわ」

「うそ、なんでできないのさ」

「するときは、手をつなぐものだからよ」

「うそだあ」

 そう言いながらも彼は、首から手を離した。

 ゆっくりと、ゆっくりと進んでいく。

 

 ◇

 

 日が落ちていく。尻を浮かせようとすると、台所のタイルが張り付いてきた。節々が痛い。彼はまだ動こうとしている。彼はうずくまるようにして、きっともう、何度か、達している。こういうのって、いつ頃、できるようになるものなのか、熱にやけた頭で考えながら、そのまま口に出してしまった。

「ーーね、何年生?」

 きっと、その質問がいけなかった。少年はふいに律動を止めた。彼のものでぐちゃぐちゃになっていた水音が止まる。彼は夕焼けをバックに手のひらを見せた。

「ご?」

 彼は頷かず、ずるりと蛇を抜いた。どこからか甘い声がする。ゴムのように跳ねて、タオルをかけるのにちょうどいい角度を保つ。戻って、もういちど跳ねるあたりで、するすると小さくなっていった。

 私はまだ、続きがあると思っていたから、彼の自尊心を傷つけたなんて、そのときは考えようもなかったから、

 夜は、すぐそこだった。

 燃えるような夕焼けをバックに、彼は湿った自分のものを拭い、白いブリーフを履いた。

「いいの?」

 彼が帰るつもりだなんて、まだ信じられなかった。

「おばさん、ぼく、今日のことはずっと覚えておくけど」

「いやよ、忘れて」

「ううん、そういうわけにはいかないし、でもね、誰にも言わないよ」

「信じられないわ、男の子ってくちが軽いから、いつか言うわ」

「それは、女の人だってそうだよね。でも、ボク言わないよ」

 ドアは閉まった。

 

 旦那は、その日、早く帰ってきた。旦那は偶々求めてきて、私も中途半端に熱せられた身体で相手をした。今度は、ベッドの上でゆっくり。「珍しいね」と言った頬をぱちぱちとはたいた。

「たぶん、転勤になるから」

「そう」

 

 

 次の日、彼はテレビに映った。同じ半ズボンがちらりと見えた、ブルーシートに包まれたプロムナードを通って、白い車に乗り込んでいくのを見ていた。画面の向こうに、この団地がぼやけて映る。

 

「あんた、うちの子になるんじゃなかったの?」

 

 あの夕焼けでは薄すぎて、効きはしなかった

 赤いヨードチンキは、もう売っていないのに。

 

 あの若い唇を、吸い損ねたと知った。